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今さら愛してるなんて、遅すぎる
夏の連休、婚姻届を出す約束をしていた彼女が突然、連絡を絶った。 その日の夜、何気なくSNSを開いた俺は、彼女が俺を公開対象から外し忘れて投稿した記事を目にした。 【20歳から28歳まで。私たちの青春が、ようやく実を結ぶ日が来た。】 添えられていたのは、一対の指輪と婚姻届の写真だった。 もう一枚の写真には、見知らぬ男の肩に寄り添い、晴れやかな笑顔を浮かべる彼女の姿が写っていた。 怒りに任せてコメント欄を開き、問い詰めようとしたそのとき、親友の書き込みが目に飛び込んできた。 【長い遠回りの末、ついに結ばれた二人に祝福を!】 胸騒ぎを覚えた俺は、震える手で親友に電話をかけた。 長い沈黙の末、あいつはようやく真実を打ち明けた。 「……ああ。二人はもう8年も付き合ってる。仲間内ではみんな知ってたよ。 わざとお前を騙してたわけじゃない。ただ、知ったらお前が騒いで面倒なことになると思ったんだ。 お前より悠真のほうが美雪にはお似合いだったし、ここまで来るのも簡単じゃなかったんだ。みんな仲間なんだからさ、お前も二人のこと、認めてやれよ」 冷たい涙が頬を伝う。それなのに、胸の奥には焼けつくような穴がぽっかりと開いていくようだった。 俺が入江美雪(いりえ みゆき)と付き合っていた12年間、そのうち8年もの間、彼女は別の男を愛していたのだ。 しかも、そのことを仲間はみんな知っていた。 知らなかったのは、みんなが口裏を合わせて騙していた俺だけだった。
チャプター (1)
第1話
夏の連休、婚姻届を出す約束をしていた彼女が突然、連絡を絶った。
その日の夜、何気なくSNSを開いた俺は、彼女が俺を公開対象から外し忘れて投稿した記事を目にした。
【20歳から28歳まで。私たちの青春が、ようやく実を結ぶ日が来た。】
添えられていたのは、一対の指輪と婚姻届の写真だった。
もう一枚の写真には、見知らぬ男の肩に寄り添い、晴れやかな笑顔を浮かべる彼女の姿が写っていた。
怒りに任せてコメント欄を開き、問い詰めようとしたそのとき、親友の書き込みが目に飛び込んできた。
【長い遠回りの末、ついに結ばれた二人に祝福を!】
胸騒ぎを覚えた俺は、震える手で親友に電話をかけた。
長い沈黙の末、あいつはようやく真実を打ち明けた。
「……ああ。二人はもう8年も付き合ってる。仲間内ではみんな知ってたよ。
わざとお前を騙してたわけじゃない。ただ、知ったらお前が騒いで面倒なことになると思ったんだ。
お前より悠真のほうが美雪にはお似合いだったし、ここまで来るのも簡単じゃなかったんだ。みんな仲間なんだからさ、お前も二人のこと、認めてやれよ」
冷たい涙が頬を伝う。それなのに、胸の奥には焼けつくような穴がぽっかりと開いていくようだった。
俺が入江美雪(いりえ みゆき)と付き合っていた12年間、そのうち8年もの間、彼女は別の男を愛していたのだ。
しかも、そのことを仲間はみんな知っていた。
知らなかったのは、みんなが口裏を合わせて騙していた俺だけだった。
第1話
俺は自分を痛めつけるかのように、そのままコメント欄を読み続けた。
親友の森川拓海(もりかわ たくみ)だけではない。ほかにも、俺と美雪の共通の友人が大勢、二人に祝福の言葉を送っていた。
【悠真は私が今まで会った中で一番いい男なんだから、もし泣かせたりしたら、親友の私が真っ先に許さないからね!】
美雪の一番の親友だ。つい先週俺に会ったときも、「冬弥さん」と親しげに呼んでいた女だ。
【一番愛してる人と結婚できるなんて、美雪、本当によかったな!今夜はみんなで朝まで飲み明かそうぜ!】
こいつは大学時代、俺と同じ部屋で暮らしていたルームメイトだった。
【集まるのはいいけど、姉ちゃんと悠真さんの幸せのためにも、みんなちゃんと口裏を合わせといてよ。絶対に「あの人」にバレないようにね】
美雪の弟だ。数年前、商売を始めるために金が必要だと俺から160万円を借りたことがあり、そのときは「俺が義兄さんって呼ぶのは、一生冬弥さんだけだ」とまで言っていた。
【任せとけって!王子様とお姫様の幸せのために、悪いドラゴンには絶対バレないようにするから!】
これは美雪の会社に入ったばかりの若いアシスタントだった。要領が悪く、何度もクビになりかけていたのを、俺が口添えし、仕事のやり方まで一つひとつ教えてやったからこそ、どうにか試用期間を乗り切れたのだ。
俺は意地でも泣くまいと顔を上げ、こぼれそうになる涙を必死に堪えた。
美雪が8年も別の男と付き合っていたことを、みんな知っていた。それなのに、誰一人として俺には教えなかった。
彼らが隠れて交わす会話の中の「あの人」とは俺のことだった。王子様とお姫様の幸せを邪魔する悪いドラゴンも俺。
俺はただの笑いものだったのだ。
画面を更新すると、美雪の投稿は消えていた。
その直後、スマホの着信音が鳴った。丸一日連絡がつかなかった美雪からだった。
「ごめんね、冬弥。今日、会社のシステムで大きな不具合が起きちゃって、ずっと対応に追われてたの。今までスマホを見る暇もなくて。
最近仕事も忙しいし、入籍のことは……ひとまず延期にしない?
そういえば今日、SNSで何か面白い投稿とか見なかった?」
その声には緊張が滲み、見え透いた探りを入れているのが、ありありと分かった。
俺は必死に平静を装って答えた。
「今日は電話してもつながらなかったし、俺も病院で母の付き添いをしてたから、SNSなんて見る暇なかったよ。
仕事があるなら、そっちを優先してくれ。入籍のことは……また時間ができたときでいい」
母は昔から体が弱かった。
そして去年、胃がんが見つかった。それも末期だった。
医者からは、治療が順調に進んでも、余命はあと3年ほどだろうと言われている。
そんな母のたった一つの願いは、俺が30歳になる前に美雪と結婚することだった。
今日は8月13日。そして、俺の30歳の誕生日でもある。
母は今も病室で、俺たちが婚姻届受理証明書を持って帰るのを心待ちにしている。
けれど、そのたった一つの願いを叶えてやることは、もうできない。
美雪はすでに、ほかの男の妻になってしまったのだから。
俺は廊下の隅にしゃがみ込み、力なく髪をかき上げた。
こぼれ落ちた涙がスマホの画面に当たり、黒い文字が滲んで見えた。
俺は画面を拭うと、彼らが結婚祝いをするという店と個室の名前を黙って頭に刻み込んだ。
【レストラン・ルミエール 個室「桔梗」】
第2話
個室のドアを押し開けた瞬間、細かなラメの入った華やかな紙吹雪が舞い、俺の顔いっぱいに降りかかった。
色とりどりの紙吹雪の隙間から見えたのは、あの男の腕に抱かれ、足の力が抜けるほど激しくキスを交わしている美雪の姿だった。
周囲には見慣れた友人たちが集まり、スマホを掲げて、二人の幸せそうな瞬間を楽しげに撮影している。
けれど、その幸せな空気は、俺が現れた瞬間に消し飛んだ。
俺の姿を目にした途端、その場にいた全員が息を呑んだ。慌てたように視線を逸らし、誰一人として俺と目を合わせようとしない。
男は美雪をちらりと見て、不思議そうに尋ねた。「美雪、彼も君の友達?なんだか彼が来た途端、みんな急に静かになったけど」
「悠真、彼は――」
美雪に最後まで言わせることなく、俺は神谷悠真(かみや ゆうま)をまっすぐ見つめた。
「俺は美雪の彼氏だ。
お前たちが8年間付き合っていたことは知ってる。でも、俺と彼女は12年付き合ってきた。信じられないなら、スマホに残ってる動画を見せる」
アルバムを開き、12年間積み重ねてきた思い出の動画を、その場にいる全員に見せた。
大学入試を前にした受験生の激励会では、生徒代表として壇上に立った美雪が、スピーチを終えたあと、大勢の前で俺に告白していた。「実は、私の夢は青陵大学に入ることだけじゃありません。瀬川冬弥さん(せがわ とおや)と付き合うことも、私の夢です」
大学のキャンパスでは、俺と美雪が手をつないで歩いていた。すると彼女は突然、手品でもするように車のキーを取り出し、頬を赤らめながら俺の手のひらに載せた。「毎日バスで病院までおばさんのお見舞いに行くの、大変でしょ?これからは車で行って。今は中古車しか買ってあげられないけど、いつか絶対もっといい車に買い替えてあげるから」
60万円の中古車は決して高価なものではなかった。それでも、その金は美雪が幼い頃からずっと貯め続けてきた、彼女の全財産だった。
狭い賃貸アパートでは、酔っ払った美雪が俺にしがみついて離れず、無理やりスマホを持たせて自分を撮らせながら、カメラに向かって誓っていた。「私、絶対に冬弥と幸せになる!結婚するのも、一生冬弥だけだから!」
美雪の会社の上場を祝うパーティーには、友人たちも全員集まっていた。俺と美雪は大勢に囲まれ、次々と囃し立てられていた。
「美雪、お前らもう何年付き合ってるんだよ。いったいいつ冬弥と結婚するんだ?」
美雪はカメラなど見ていなかった。その瞳に映っているのは、俺だけだった。
「新居はもうすぐ完成だよ。冬弥の30歳の誕生日に、結婚するの」
そして今日が、俺の30歳の誕生日だった。
俺の誕生日に、二人で結婚すると約束していたその日に、彼女は丸一日姿を消した。
そして、別の男と結婚した。
最後の動画が終わると、広い個室は誰かの息遣いさえ聞こえるほど静まり返った。
ここにいるのは、かつて俺が親友や友人だと思っていた者たちだ。
誰もが俺と美雪の12年間を見てきた証人でありながら、その全員が俺を裏切っていた。
動画を見終えた悠真は、目を赤くして拳を強く握りしめた。
それを見た美雪は慌てて前へ出ると、悠真を背中に庇い、何があっても彼だけは守ると言わんばかりの表情で俺を見つめた。
「冬弥、もうやめて。
全部、私が悪いの。あなたへの気持ちを捨てきれないまま、それでもどうしようもなく悠真を愛してしまった。あなたは何も悪くないし、まして悠真には何の罪もない。
怒りたいなら私にぶつけて。悠真を巻き込まないで」
悠真は美雪の背後から半歩だけ身を乗り出した。
さりげなく結婚指輪を回しながら、まるで自分こそが彼女の夫なのだと示すように口を開く。
「こんなことになったら、誰だって取り乱すんだ。君の気持ちは俺にも分かる。
でも、俺と美雪はもう正式に結婚してる。彼女は俺の妻で、俺は彼女の夫だ。何か言いたいことがあるなら、俺たち二人に言ってくれ。
美雪は純粋で優しい子なんだ。何か望むことがあるなら遠慮なく言ってくれ。金銭的なことなら、俺たちもできる限り補償するつもりだ」
金銭で埋め合わせ?
12年という歳月を捧げてきたのに、俺が求めているものが、そんな金で済むようなものだとでも思っているのか?
怒りをぶつけようとしたそのとき、拓海が二度ほど咳払いをし、俺より先に口を開いた。
「冬弥、もうそのくらいにしとけよ。美雪も悠真も別に悪くないだろ。恋愛なんて理屈じゃないんだから、先に付き合ったほうが勝ちなんて決まりもない。
俺はお前の親友だからこそ、本気で忠告してるんだ。今ここで身を引けば、全部穏便に済むし、お前だって婚約破棄の慰謝料くらい受け取れるだろ。これ以上騒ぎを大きくしたら、そんなお前と将来結婚したいって女がいると思うか?」
俺は信じられない思いで拓海を見つめた。鉛でも詰め込まれたように喉が塞がり、何一つ言葉が出てこなかった。
続いて口を開いたのは、美雪の弟や、ほかの共通の友人たちだった。
「冬弥さんがいい人なのは分かってる。でも、悠真さんだって本当にいい人なんだ。俺としては二人とも義兄さんになってほしいくらいだけど、姉ちゃんが選べるのは一人だけだし、結局はもっと好きなほうを選ぶしかないから……冬弥さんには、本当に申し訳ないけど……」
「冬弥、見てれば分かるよ。美雪は心の底から悠真を愛してる。そうじゃなきゃ、あなたじゃなくて彼と結婚したりしないでしょ。もうこうなった以上、諦めてあげたら?」
美雪と悠真はぴったりと寄り添い、その背後にはほかの者たちが立ち並んでいた。
まるで隙間のない壁のように、全員が二人を守り、こちら側に立つ俺を拒絶している。
そして彼らにとって、その「こちら側」にいる人間は俺一人だった。
全身から力が抜けたように、俺は突然、怒る気力さえ失った。
ポケットから、ところどころ塗装の剥げた中古車のキーを取り出し、そっとテーブルの上に置く。
この車に、俺は8年間乗り続けた。
金に余裕ができてからも、一度も買い替えようとはしなかった。
けれど今、この車と一緒に、12年間の青春も、愛情も、友情も、すべてここに置いていく。
「分かった。俺が身を引く」
第3話
「冬弥!」
美雪が切羽詰まった声で俺を呼んだが、俺は足を止めることも、振り返ることもなかった。
タクシーで病院へ向かうと、今日の母はいつもより少し顔色がよく見えた。
皮を剥いたリンゴを俺に差し出し、嬉しそうに尋ねてくる。「冬弥、今日、二人で記念写真を撮るって言ってたでしょう?ちゃんと撮れた?お母さんにも見せてよ」
喉が詰まり、鼻の奥がひどくつんとした。
どう説明すればいいのか分からなかったし、何より母に真実を知らせるのが忍びなかった。
ようやく覚悟を決めて打ち明けようとしたそのとき、突然病室のドアが開き、美雪が入ってきた。
彼女はベッドのそばに腰を下ろすと、この10年間ずっとそうしてきたように、甲斐甲斐しく母の肩を揉みながら、優しい笑みを浮かべた。
「冬弥ったら、今日撮った写真が気に入らなかったみたいで。せっかくなら、ちゃんとした写真を残してから婚姻届を出したいって言うんです。それで、入籍は2日後に延ばしました。今度こそきれいに撮って、お義母さんにも必ず見せますね」
これまでずっと「おばさん」と呼んでいた美雪が、突然「お義母さん」と呼んだことに、母は目に涙を浮かべるほど感激し、俺たち二人の様子がおかしいことにも気づかなかった。
俺は険しい顔のまま美雪を病室の外へ引っ張り出した。
「俺はもう身を引くって言っただろ。これ以上、俺にどうしろっていうんだ?」
美雪はいつものように、ごく自然な仕草で俺の腰に腕を回し、ため息をついた。「冬弥、私たちは12年も付き合ってきたんだよ。今さら別れるなんて、本当に平気なの?」
平気なわけがない。
けれど、平気じゃなかったところで何になる?
彼女はもう、ほかの男の妻なのだ。
俺は目を赤くしながら彼女を突き放し、冷たく笑った。「平気だろうが平気じゃなかろうが、別れるしかないだろ。俺は人の夫婦関係に割り込むような真似はしたくない!」
背を向けて立ち去ろうとすると、美雪は自分の体で俺の行く手を塞いだ。
そして突然、感情を抑えきれなくなったように強く抱きついてきた。「でも、私はあなたと別れたくない」
小柄な体で必死にしがみつき、振りほどこうとしても離れようとしない。
「大学の頃、あなたに車を買うために貯金してたとき、バイト先のバーで悠真と知り合ったの。
あの頃の私は人見知りで、誰かと話すだけですぐ顔が赤くなるような性格だったから、よくたちの悪い客に絡まれてた。そんなとき、いつも悠真が助けてくれて、それで少しずつ親しくなって……
あるとき、たちの悪い客に薬を盛られて、ホテルに連れ込まれそうになったことがあったの。そこへ悠真が助けに来てくれて……でも薬が強すぎて、私たちはそのまま……一線を越えてしまった。
悠真とは別れようとも思った。でも、何もなかったことにして彼を傷つけるなんて、私にはできなかった。
この何年も、悠真は誰にも言えない関係のまま、私のそばにいてくれた。それでも文句一つ言わず、何かを求めることも、あなたと張り合おうとすることもなかった。ずっと我慢させてきたのは私だから、せめて結婚という形で報いてあげたかったの」
12年と8年。
それはただ、二つの関係が重なっていた年月を示す数字ではなかった。
俺が彼女からもらった車のキーを握りしめ、馬鹿みたいに喜んでいたその頃、美雪は別の男と関係を持っていた。
狭いアパートで彼女の大好物の唐揚げを作り、帰りを待っていた夜、彼女は別の男が作ったうどんを食べていた。
俺が幸せだと信じて疑わなかった数え切れないほどの瞬間。その一つひとつの裏で、ずっと裏切りが続いていたのだ。
「危ない目に遭ったとき、どうして恋人の俺じゃなく、ほかの男を頼ったんだ?
もういい!お前たちがどうやってそういう関係になったのかなんて、これ以上聞きたくない。消えてくれ!」
我慢の限界に達し、俺は思わず手を振り上げた。
美雪は恐怖に体を震わせていた。それでも逃げようとはせず、ただ静かに目を閉じた。
その姿を見た瞬間、俺の腕から力が抜けた。
疲れ切ったように、振り上げた手をそのまま下ろした。
すると美雪は、さらに強く俺を抱きしめた。
「結婚という形だけは悠真を選んだ。でも、それ以外は今までと何も変えない。悠真にしてあげることなら、あなたにも同じように……ううん、それ以上にしてあげる。
愛情も、お金も、一緒に過ごす時間も、おばさんを大切に思う気持ちも、私が悠真と結婚したからって何一つ減らさない。
そうだ。最近、海外で新しい治療薬が開発されたの。末期の胃がんにもかなり効果が期待できるみたい。冬弥、今度、一緒におばさんを連れて治療を受けに行ってみない?」
俺は力なく目を閉じた。
この12年間、美雪が俺に尽くしてくれたことだけは、紛れもない事実だった。
悠真という存在さえいなければ、きっと俺は世界で一番幸せな男だっただろう。
母は昔から体が弱く、俺はその世話に追われていた。そのせいで、美雪ほど仕事で成功できていなかったが、彼女は俺が自分より成功していないことなど一度も気にしなかった。
俺が欲しがったものは、値段など気にせず何でも買ってくれた。
俺が行きたいと言った場所には、仕事を後回しにしてでも付き合ってくれた。
母が病気になってからは、自ら進んで身の回りの世話をし、夜遅くまで医師と治療方針について話し合ってくれた。
高額な治療費も、ずっと美雪が負担している。
俺には、美雪が必要だった。
少なくとも母の治療が続いている間は、彼女との縁を完全に断つことはできなかった。
第4話
日々は、まるで以前に戻ったかのように過ぎていった。
俺は相変わらず、かつて俺たちの新居として用意した家に住み、昼は仕事へ行き、夜は病院で母の世話をしていた。
美雪は新婚の夫と過ごすのに忙しいらしく、俺に連絡してくることはほとんどなかった。
むしろ連絡がないほうが、俺にとっては気が楽だった。
仕事を終えた俺は、母の大好物であるたまごサンドを買い、病院へ持っていった。
病室に入ると、なぜかベッドの前に二人の若い男が座っていた。
驚いた俺は慌てて駆け寄ったが、振り返った二人の顔を見た瞬間、足が止まった。
拓海と悠真だった。
声まで震えた。「拓海、なんでこいつを連れてきた?」
母は俺を見て笑いながら説明した。
「拓海がね、私が退屈してるだろうからって、お友達を連れてきて、二人で話し相手になってくれたのよ。
悠真くんとは今日初めて会ったけど、私、この子のこと気に入ったわ。こんなに優しくていい子なのに、奥さんは外でほかの男と浮気してるんですって。本当にひどい話よね。
悠真くん、よく聞いて。人の家庭を壊すような人間には、いつか必ず罰が当たるものよ」
悠真はゆっくり立ち上がり、俺の前まで歩いてきた。
薄ら笑いを浮かべて俺を一瞥すると、母に向き直り、穏やかな笑顔のまま残酷な言葉を吐いた。
「おばさんの言うとおりですね。人の家庭に割り込んだ人間には、いつか必ず罰が当たる。
じゃあ、おばさんの息子にはいつ罰が当たるんでしょうね?ああ、もう当たってましたね。ただ、その罰がおばさんに降りかかっただけで。末期の胃がんですか……まあ、俺としてはそれなりに満足かな」
母の顔から一瞬で血の気が引いた。弱った上体を必死に起こしながら、悠真を睨みつける。「何を言ってるの……!」
すると拓海は乱暴に婚姻届受理証明書を取り出し、母の前へ投げつけた。
「悠真は嘘なんか言ってない。冬弥こそ、恥知らずな横恋慕をしてる男なんだよ!
見ろよ。悠真と美雪はもう正式に結婚してる。二人は法律上の夫婦なんだ。それなのに冬弥は、美雪に夫がいると知っていながら、いつまでも彼女の家に居座って、彼女の金でおばさんの治療費まで払わせてる。いつまで人の嫁の金を当てにするつもりなんだよ!」
8月13日、夏の連休の初日。
俺の誕生日。
母は婚姻届受理証明書の日付を食い入るように見つめた。次の瞬間、大量の血を吐いた。
「母さん!」
俺は泣きながらナースコールに手を伸ばした。
しかし、拓海と悠真に動きを封じられた。
悠真が冷笑する。
「君の母親が自分で言ったんだろ。人の家庭に割り込むような奴には罰が当たるって。今日ここで思い知らせなきゃ、君は懲りずにこれからも俺の妻に付きまとうだろうからな!
死んだって別にいいだろ。美雪の金だって湧いて出てくるわけじゃない。なんで君たち親子のために使わなきゃならないんだよ!」
俺は必死に拓海に母を助けてくれと懇願した。
返ってきたのは、軽蔑に満ちた冷笑だけだった。
「親友?人の家庭に割り込むような奴と親友でいるつもりなんかないね。俺の一番の親友は悠真だ。
昔からお前は何でも俺より上だった。俺より顔がよくて、成績もよくて、挙げ句の果てには彼女まであんなに美人だった。いつもいい奴ぶって俺の面倒を見てたけど、あの態度がずっと気に食わなかったんだよ。誰がお前の情けなんか欲しがった?今日のことは全部、お前への報いだ!」
俺はよろめきながら一歩後ずさった。
耳鳴りがして、周囲の音が遠のいていく。
俺があいつを気遣い、助けてきたことは、あいつにとってはすべて上から目線の施しでしかなかった。
俺はずっと親友だと思っていたのに、あいつにとって俺は最初から敵だったのだ。
何かを言い返す暇さえなく、二人がかりで床に押さえつけられた。
俺は何もできないまま、母がベッドの上で激しく痙攣する姿を見ていることしかできなかった。
心電図モニターの波形が激しく乱れ、やがて一本の直線へと変わっていった。
母さんが、死んだ。
俺は我を失って二人の拘束を振りほどくと、いつも母がリンゴの皮を剥くのに使っていたナイフをつかみ、二人に向かって飛びかかった。
こいつらに、母さんの命の代償を払わせる!
「冬弥、何してるの!」
その瞬間、病室のドアが開き、美雪が飛び込んできた。
美雪が目にしたのは、俺がナイフを手に悠真たちへ襲いかかろうとしている、その瞬間だけだった。
美雪は怒鳴り声を上げながら俺に飛びかかり、自分の身を盾にするように悠真の前へ立ちはだかった。
ナイフの切っ先が美雪の胸に触れる寸前だった。
俺は咄嗟に腕の向きを変えた。
勢いを殺しきれず、刃はそのまま俺自身の胸へ深く突き刺さった。
噴き出した血が、美雪の顔を真っ赤に染めた。
美雪は悲痛な表情で崩れ落ちる俺を抱きとめ、胸が張り裂けそうな声で叫んだ。
「冬弥!」