家族メモが、息子の医師の予定で埋まっていた

プロモーションを読み込み中...

家族メモが、息子の医師の予定で埋まっていた

GoodNovel 完結

結婚して5年目、私――城島結愛(じょうじま ゆあ)と夫の城島啓斗(じょうじま けいと)が共有している家族用のメモは、いつの間にか、ある一人の名前で埋め尽くされていた。 水野澄佳(みずの すみか)――息子の城島勇太(じょうじま ゆうた)を担当する心理カウンセラーだ。 親子遊びや屋外活動、次回のカウンセリング――勇太の治療に関する予定に混じって、澄佳の生理予定日まで細かく書き込まれていた。 腹が立って問い詰めると、啓斗は気にも留めず、淡々と返した。 「勇太の治療予定を組むには、澄佳の体調も把握しておいたほうがいいんだ。いちいち騒ぐな」 それから勇太の症状は目に見えて良くなっていった。その一方で、澄佳への依存はますます強まっていった。 そんな中、また屋外活動の日がやってきた。私は電車を乗り継ぎ、遊園地へ急いだ。 ようやく入口まで駆けつけると、啓斗と澄佳が勇太を真ん中に挟み、両側からその手をつないでいた。 「俺たちはもうファミリーチケットを買ったから、先に入ってる。結愛は自分のチケットを買って、あとから来て」 澄佳は勇太の頭を撫でながら言った。 「結愛さん、これも勇太くんの治療の一環なんです。気にしないでくださいね」 私はスマホをぎゅっと握りしめ、どうにか笑みを作った。 ふいにスマホが震えた。勇太からだった。 【パパ、今回も帰ったら、まだよくなってないってことにするの?】 数秒もしないうちに、そのメッセージは取り消された。 私は人の行き交う遊園地の入口に立ち尽くし、胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。 家族のように寄り添う3人の姿が、ひどく目に刺さった。もう、見ていたくなかった。

チャプター (1)

第1話

結婚して5年目、私――城島結愛(じょうじま ゆあ)と夫の城島啓斗(じょうじま けいと)が共有している家族用のメモは、いつの間にか、ある一人の名前で埋め尽くされていた。 水野澄佳(みずの すみか)――息子の城島勇太(じょうじま ゆうた)を担当する心理カウンセラーだ。 親子遊びや屋外活動、次回のカウンセリング――勇太の治療に関する予定に混じって、澄佳の生理予定日まで細かく書き込まれていた。 腹が立って問い詰めると、啓斗は気にも留めず、淡々と返した。 「勇太の治療予定を組むには、澄佳の体調も把握しておいたほうがいいんだ。いちいち騒ぐな」 それから勇太の症状は目に見えて良くなっていった。その一方で、澄佳への依存はますます強まっていった。 そんな中、また屋外活動の日がやってきた。私は電車を乗り継ぎ、遊園地へ急いだ。 ようやく入口まで駆けつけると、啓斗と澄佳が勇太を真ん中に挟み、両側からその手をつないでいた。 「俺たちはもうファミリーチケットを買ったから、先に入ってる。結愛は自分のチケットを買って、あとから来て」 澄佳は勇太の頭を撫でながら言った。 「結愛さん、これも勇太くんの治療の一環なんです。気にしないでくださいね」 私はスマホをぎゅっと握りしめ、どうにか笑みを作った。 ふいにスマホが震えた。勇太からだった。 【パパ、今回も帰ったら、まだよくなってないってことにするの?】 数秒もしないうちに、そのメッセージは取り消された。 私は人の行き交う遊園地の入口に立ち尽くし、胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。 家族のように寄り添う3人の姿が、ひどく目に刺さった。もう、見ていたくなかった。 第1話 疲れたから先に帰ると啓斗にメッセージを送ったが、案の定、返事はなかった。 電車に乗ってしばらくすると、勇太のカウンセリングで使っているグループLINEに、澄佳が動画を投稿した。 おそろいのうさ耳カチューシャをつけた3人が、カメラに向かってふざけながらピースしていた。 そのままトーク履歴を遡ると、澄佳と啓斗が勇太のトレーニングに付き添っている動画がいくつも残っていた。 どの動画でも、3人は楽しそうに笑い合っていた。どう見ても、幸せな家族そのものだった。 見ているうちに、まるで私だけがその輪の外にいるような気がしてきた。 胸が締めつけられるように苦しく、息もうまくできなかった。 自嘲めいた笑いがこぼれた。私はスマホの画面を消した。 家に着いて間もなく、啓斗から電話がかかってきた。 「結愛、雨ひどくなってきた。傘ないから、悪いけどマンションの前まで迎えに来て」 「分かった」と返し、傘を持って迎えに出た。 それから30分。全身びしょ濡れになっても啓斗たちは現れず、何度電話をかけても出なかった。 さすがに不安になって家へ戻ると、啓斗がソファに片膝をつき、澄佳の濡れた髪をタオルで拭いていた。 物音に気づいた啓斗は、こちらをちらりと振り返った。 「どこ行ってたんだよ?なんでこんな遅くなったんだ?」 濡れた指先から、床に水滴が落ちていた。胸が苦しくて、声もうまく出なかった。 「どうして……電話、出なかったの?」 啓斗は澄佳の髪を拭く手を止めず、こともなげに答えた。 「ああ、スマホの充電切れてたみたい。全然気づかなかった」 あまりにも軽い返事に、責める言葉は全部、喉の奥で止まった。 これ以上責めるのも、なんだか私のほうが心が狭くて、聞き分けがないような気がした。 雨の中で私を待たせたことも、電話に出なかったことも、帰ってみれば澄佳の髪を拭いていたことも、啓斗にとってはどれも大したことではないのだろう。 そういう小さなことが積み重なって、ふと、この人とはもうやっていけないと思った。 部屋の中がしんと静まり返る中、啓斗はようやく私の様子がおかしいことに気づいたのか、こちらを振り向いた。 「ぼーっとしてないで、先に風呂入ってこいよ。風邪ひくぞ」 そう言って立ち上がると、啓斗はホットココアを持ってきて、私の前に置いた。 「飲んどけ。身体、冷えただろ」 啓斗はいつもこうだった。 私がずぶ濡れになれば、ホットココアまで出して気遣ってくれた。なのに澄佳のことになると、私のことは簡単に後回しにされた。 そうやって優しくされるたび、つい期待してしまった。けれど結局、何度も思い知らされてきた。 啓斗の優しさも愛情も、私だけに向けられたものではなかったのだと。 20分後、風呂から上がると、澄佳が私のパジャマを着ていた。 澄佳は、まるで今初めて私の存在に気づいたような顔で口を開いた。 「うち、停電しちゃってて……今夜だけ泊めてもらうことになったんです。結愛さん、気にしませんよね?」 拳を握りしめ、何か言おうとしたところで、啓斗が口を挟んだ。 「気にしなくていいって。澄佳は勇太がお世話になってる先生なんだし、好きなだけ泊まってけばいい。 結愛だって、このくらいで何か言うようなやつじゃないし」 何も言えなかった。自分の家なのに、嫌だと言うことさえできないらしい。 「澄佳、眠り浅いんだろ?今日は勇太と寝室使えばいいよ」 私は反射的に頷きかけた。 けれど、啓斗はそのまま続けた。 「俺たちは今夜、客間で寝ればいいだろ」 胸の奥がきゅっと痛んだ。 「だめ!」 その寝室は、眠りの浅い私のために、啓斗が結婚前にわざわざ二重に防音してくれた部屋だった。 あの頃の啓斗は、「お前のためじゃなきゃ、ここまでしない」と笑っていた。 それなのに今は、その寝室を当然のように澄佳に使わせようとしていた。 啓斗は眉をひそめた。 「結愛、澄佳は客なんだから、今日くらい使わせてやれよ。わがまま言うなって」 もう何も言えなかった。 しばらくして、私は力なく頷いた。 背を向けて目元をぬぐい、【海外教育ボランティア応募フォーム】の送信ボタンを押した。 第2話 ベッドに入ってもなかなか寝つけず、何度も寝返りを打っていた。 ふいに、温かい手が腰に回ってきた。 背後から啓斗が首筋に顔を寄せ、耳元で囁いた。 「ほら、もう寝よう。こうして抱いてれば眠れるだろ」 私は身体をよじって、その腕から離れた。 啓斗は困ったようにため息をついた。 「昔は、ずっと抱いて寝てほしいって甘えてたのに。誰だったっけな?」 そのまま強く抱き寄せられると、いつものウッディな香りに、かすかな花の香りが混じっているのに気づいた。 啓斗のものではない香りだった。 気づいた途端、涙が枕に滲んだ。 「啓斗、離婚しよう」 腰に回っていた啓斗の腕が、一瞬こわばった。 「……何言ってるんだ?」 少し間を置いて、啓斗は戸惑ったように聞いた。 「遊園地で先に入ったこと、まだ怒ってるのか?それとも、電話に出なかったこと?」 そして、宥めるように声を落とした。 「もう怒るなって、結愛。次からはちゃんと待つし、電話も出るようにする。だから、な?」 結局、啓斗はいつもそうだった。 私が怒るたび、その場を収めることばかり考えていた。 次からはちゃんと待つ、電話にも出る。そう言っておけば、私もそれ以上何も言わなくなると思っていたのだろう。 私がどうしてそこまで傷ついたのか、考えようとしたことは一度もなかった。 もう一度ちゃんと話そうとしたところで、主寝室から突然、悲鳴が聞こえた。 啓斗は顔色を変え、慌てて主寝室へ向かった。 勇太に何かあったのかと思い、私もすぐ後を追った。 ドアの隙間から中を見ると、啓斗は澄佳を抱きしめていた。 そのそばで勇太も、幼い頃に私がしていたのを真似るように、澄佳の背中を優しくとんとんと叩いていた。 「澄佳、大丈夫。雷が鳴っただけだよ。怖くないから」 その声は、付き合っていた頃、私を抱きしめて宥めてくれたときと同じように優しかった。 けれど、昔は私に向けられていたその優しさが、今は澄佳に向けられていた。 胸の奥は、もう痛いのかどうかさえ分からなかった。それでも指先だけは、小刻みに震え続けていた。 涙を拭うこともできず、そのまま客間へ戻った。 結局、その夜は一睡もできなかった。啓斗も朝まで戻ってこなかった。 翌朝、勇太の楽しそうな笑い声で目を覚ました。 「わあ、澄佳お姉ちゃんすごい!ママにはこんなの作れないよ! お姉ちゃんって頭いいよね。ママは何にも知らないもん!」 割れそうに痛む頭を押さえながらリビングへ行くと、3人はお揃いの服を着て、狭いキッチンに並んで料理をしていた。 私に気づいた啓斗は、ちらりとこちらを見た。 「もうすぐできるぞ」 身支度を済ませて食卓につくと、啓斗が勇太に目配せした。 勇太はそれを見て、エビを一尾つまみ、私の皿に載せた。 澄佳は勇太を抱き寄せながら、私に言った。 「これ、勇太くんが自分で茹でたんですよ。結愛さんもぜひ食べてみてください」 皿の上のエビに目を落とし、そのままテーブルに並んだ料理を見渡した。 「啓斗、私が魚介アレルギーなの、忘れたの?」 大学2年の頃、カニが入っているとは知らずに料理を口にし、ひどいアレルギー反応で意識を失ったことがあった。 あのとき、啓斗はひどく取り乱した。 震える腕で私を抱きしめ、泣きながら何度も名前を呼んでいた。 啓斗は一瞬、言葉に詰まった。 私は何も言わず、目の前のエビを皿ごとゴミ箱に捨てた。 次の瞬間、啓斗が勢いよく立ち上がった。 「エビ一尾くらいで、なんでそんなムキになってんだよ。食わないなら、もう部屋戻れよ」 涙をこらえながら席を立ち、寝室へ向かった。 背後で、澄佳が啓斗に声をかけた。 「私が勇太くんにアレルギーのこと、ちゃんと伝えておけばよかったんです……結愛さんのところ、行ってあげてください」 啓斗は箸を置いた。 「澄佳は悪くないよ。俺が甘やかしすぎたんだ。すぐ拗ねるし、ほんと手がかかる。 放っとけばいい。そのうち気が済んで戻ってくるから」 その言葉を背中で聞きながら寝室へ入り、ドアを閉めた。 力が抜け、そのままドアに背を預けて崩れるように座り込んだ。涙が頬を伝っても、拭う気にはなれなかった。 スマホを開き、海外教育ボランティアの派遣先を確認すると、2日後の航空券を予約した。 今度こそ、啓斗を許すつもりはなかった。 第3話 リビングの笑い声が静かになったのを待って、私は涙を拭い、荷物をまとめ始めた。 アクセサリーを片づけていると、以前、片方のピアスを勇太の部屋に置き忘れたことを思い出した。 勇太の部屋へ行くと、ピアスはベッド脇のテーブルに置かれていた。 そしてふと、引き出しに貼られた付箋が目に入った。 【澄佳お姉ちゃん、ここ開けてみて!勇太からのサプライズだよ!】 見ないほうがいいと分かっていたのに、私は引き出しを開けた。 中に入っていたのは、ディオールのピアスだった。 隣には、子どもらしい字で書かれたメッセージが添えられていた。 【澄佳お姉ちゃん、お誕生日おめでとう!これ、僕がおこづかい貯めて買ったんだよ!】 目の奥が熱くなった。 思い返せば、この数週間、勇太は何かと理由をつけて私にお金をねだっていた。 あの日も、私のピアスを急に褒めて、写真を撮りたいから貸してほしいと言っていた。 毎年、勇太の誕生日の前日になると、啓斗と2人で何かと理由をつけて出かけていた。 全部、今日のためだったのだ。 今日は澄佳の誕生日だった。 啓斗と勇太は毎年この日、まるでそこへ帰るのが当たり前のように、澄佳のもとへ向かっていた。 上着の前をかき合わせた。それでも、寒気は引かなかった。 寝室へ戻ってクローゼットを開けると、これまで勇太からもらったものが、ひとつ残らず大切にしまってあった。 ゴム手袋にエプロン、フライ返し。それに、勇太の好きな料理ばかりをまとめた手作りのレシピ帳まであった。 これまでは、まだ子どもだから、相手のことを考えて贈り物を選ぶのが苦手なだけだと思っていた。 でも、そうじゃなかった。 澄佳には、自分でお金を貯めて、喜びそうなものをちゃんと選んでいた。 私には、そうしなかっただけだった。 そのとき、スマホにインスタの通知が届いた。 澄佳が新しい投稿を上げていた。 【地面に3つの影。1つは私。残りの2つも、私のもの】 写真には、寄り添う3人の影とディオールのネックレスが写っていた。 勇太の引き出しにあったピアスと同じシリーズだった。 思わず乾いた笑いがこぼれた。 毎年、私の誕生日になると、啓斗は決まって同じようなガラスの置物をくれた。 「結愛、俺こういうのよく分かんないからさ。気持ちが伝われば、それでいいだろ?」 私はその言葉を信じて、毎年もらう安物のガラスの置物を大切にしまってきた。 気づけば、棚には5つも並んでいた。 ベッドに腰を下ろすと、どっと力が抜けた。 今まで2人を大切にしてきた気持ちまで、急に馬鹿らしく思えてきた。もう、何ひとつ大事に取っておく気にはなれなかった。 私は立ち上がり、箱にしまっていた勇太からの贈り物も、啓斗からもらった5つのガラスの置物も、全部まとめてゴミ箱に捨てた。 もう2人とは、何の関わりも持ちたくなかった。 そのまま弁護士に電話をかけた。 「離婚協議書を作っていただきたいんですが、なるべく早くお願いできますか」 電話を切って間もなく、玄関のほうから楽しそうな話し声が聞こえ、半分ほど残ったケーキを手にした啓斗たちが帰ってきた。 「結愛、ケーキあるぞ。お前の好きなやつ」 勇太は澄佳の手を引き、真っ先に自分の部屋へ向かった。 返事をしないでいると、しばらくして啓斗が寝室のドアを開けた。 荷造りをしている私を見ると少し驚いた顔をしたが、何も聞かずにクローゼットからシャツを1枚取り出した。 「また実家に帰るのか?」 説明する気にもなれず、私は小さく頷いた。 その直後、勇太の部屋から大きな叫び声がした。 啓斗が廊下へ出ると、勇太がこちらへ駆けてきた。 「ママなんか大っ嫌い!勝手に僕のもの触らないでよ!」 そのまま勢いよく体当たりされ、私は床に倒れ込んだ。 足首に鋭い痛みが走り、みるみる赤く腫れていった。 勇太は泣きながら、なおも大声で怒鳴り続けていた。 啓斗はすぐに駆け寄って私を起こすと、しゃがみ込んで腫れた足首にそっと触れた。 「大丈夫か?」 険しい顔で勇太を振り返ったところへ、澄佳が駆け込んできた。 澄佳は勇太を抱き寄せると、私に向かって申し訳なさそうに言った。 「結愛さん、ごめんなさい。私が止める前に飛び出しちゃって…… 私への誕生日プレゼントを触られて、カッとなっちゃったみたいなんです。まだ子どもですし、今回は大目に見てもらえませんか?」 ずきずきと痛む足首に目を落とした。 顔を上げると、啓斗はいつの間にか澄佳の隣に立っていた。 子どもなんだから、許してやれってこと? 勇太は幼い頃から双極性障害を抱えていて、些細なことをきっかけに感情が抑えられなくなることがあった。 少しでも周りの子と同じように過ごせるようにと、私はずっと、感情をコントロールする練習に付き合ってきた。 その中で何度叩かれ、傷を負ったか分からない。 それでも今までは、勇太のためだと思って耐えてきた。 でも今回は、いつものように我慢できなかった。 私は痛む足をかばいながら立ち上がり、近くにあったハンガーを掴んだ。 そのまま勇太に向かって、力いっぱい振り下ろした。 第4話 澄佳がとっさに身をかがめて勇太を抱き寄せると、啓斗も反射的に腕を伸ばし、二人をかばった。 振り下ろしたハンガーは、乾いた音を立てて啓斗の腕に当たった。当たったところは、すぐに赤くなった。 啓斗は目を見開いたまま、私を見つめた。私が本当に勇太を叩くとは思っていなかったのだろう。 澄佳は勇太を胸元に引き寄せたまま、泣きながら声を上げた。 「結愛さん、やめてください!勇太くんは叩かないで。叩くなら私にしてください!」 啓斗も我に返った。 「もうやめろ、結愛。子ども相手に大人げないぞ」 3人は、まるで私から勇太を守るように寄り添っていた。 こうして見ると、悪いのは私のほうみたいだった。 急に吐き気が込み上げ、私は壁に手をついてえずいた。 啓斗がとっさにこちらへ手を伸ばしたが、その直後、勇太が泣き叫びながら玄関を飛び出した。澄佳もすぐ後を追い、啓斗も一瞬ためらったあと、2人を追って出ていった。 翌日の昼、最後の段ボールを閉じたところで、改めて部屋を見回した。 何年も暮らしてきた家なのに、今はもう自分の居場所ではないように感じた。気持ちはとっくに決まっていた。それでも、いざ離れると思うと少しだけ寂しかった。 そのとき、啓斗から電話がかかってきた。 「結愛、早く来いよ。勇太の誕生日会、もう始まってるぞ」 電話の向こうはかなり騒がしく、啓斗は店の名前と場所だけ伝えると、私が何か言う前に電話を切った。 断るつもりだった。それでも、5年も一緒にいたのだから、最後くらいはきちんと顔を合わせて終わらせようと思った。 私はタクシーで指定された店へ向かった。個室の前まで来たところで、中から子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきた。 「勇太くんのママ、やさしいね!」 「パパもママもやさしくて、いいなあ」 思わず足を止めたが、そのままドアを開けた。 勇太のそばには、啓斗と澄佳が並んでいた。 2人は笑ったまま、パパとママと呼ばれても訂正しようとはしなかった。 私はそのまま中に入り、少し声を張った。 「今日は、うちの勇太の誕生日会に来てくれてありがとうね」 それまで賑やかだった部屋が、一瞬で静かになった。 近くにいた子が、不思議そうに私を見た。 「……え?誰?」 「勇太くんのママって、あのお姉ちゃんじゃないの?」 私を見るなり、澄佳の目がみるみる赤くなった。 「結愛さん……」 私は返事をせず、勇太に向き直った。 「勇太、お友達にちゃんと教えてあげて。誰がママなの?」 勇太はむっとした顔で私を見ると、澄佳の手をぎゅっと握った。 「僕のママは澄佳お姉ちゃんだもん!」 啓斗は何か言いかけたが、結局黙った。部屋のあちこちから、ひそひそ声が聞こえ始めた。 私はその場に立ったまま、勇太に聞いた。声が震えないようにしたつもりだったが、うまく隠せなかった。 「本当にそれでいいの?澄佳がママでいいの?」 勇太はどこか得意そうに私を見返した。 「そうだよ!澄佳お姉ちゃんが僕のママ! あんたなんか僕のママじゃない!もう帰ってよ!」 啓斗も勇太の隣に立った。 「結愛、今日はもう帰ってくれ。勇太の誕生日なんだ。これ以上、揉めるのはやめてくれ」 啓斗の言葉を聞いて、5年間、家族のために必死になってきた自分が、急に馬鹿みたいに思えた。 3人そろって私を追い返そうとしているのを見て、思わず笑いがこぼれた。 そこまで3人で家族になりたいなら、そうすればいい。 ただ、何事もなかったように終わらせてあげるつもりはなかった。 私はスマホを取り出して個室を出ると、澄佳の勤務先に電話をかけ、責任者につないでもらった。 もう3人の顔など見たくもなく、そのまま店をあとにした。 1時間後、私は搭乗口近くの待合スペースにいた。 ふと、啓斗はいつになったら、私が家に残してきたものに気づくのだろうと思った。 気づいたとき、どんな顔をするのだろう。 やっと私から解放されたとほっとするのか。それとも、私を失って初めて後悔するのか。 そんなことを考えているうちに、もうどちらでもよくなった。これから先、啓斗がどう思おうと、私には関係のないことだった。 搭乗開始のアナウンスが流れ、私は席を立ってそのまま搭乗口へ向かった。 これで、この街とも啓斗とも本当に終わりだった。 もう二度と会うつもりはなかった。

More GoodNovel Novels