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記憶を失った婚約者は、かつての想い人に恋をした
婚約パーティーまで、あと1週間。突然の交通事故が、私・森川美由希(もりかわ みゆき)の幸せな未来への夢を打ち砕いた。 藤崎遼平(ふじさき りょうへい)は頭にけがを負い、婚約者である私のことだけを忘れてしまった。 よろめきながら病室へ駆けつけると、彼はかつての想い人を抱き寄せたまま、ボディーガードに私を追い出すよう命じた。 「どこの目の見えない女だ?俺の婚約者をかたるなんて、いい度胸だな!」 目の見えない女? 彼が忘れたのは、愛していた相手が私だということだけじゃない。 その左目の角膜が……私のものだということまで、忘れてしまったのだ。
チャプター (1)
第1話
婚約パーティーまで、あと1週間。突然の交通事故が、私・森川美由希(もりかわ みゆき)の幸せな未来への夢を打ち砕いた。
藤崎遼平(ふじさき りょうへい)は頭にけがを負い、婚約者である私のことだけを忘れてしまった。
よろめきながら病室へ駆けつけると、彼はかつての想い人を抱き寄せたまま、ボディーガードに私を追い出すよう命じた。
「どこの目の見えない女だ?俺の婚約者をかたるなんて、いい度胸だな!」
目の見えない女?
彼が忘れたのは、愛していた相手が私だということだけじゃない。
その左目の角膜が……私のものだということまで、忘れてしまったのだ。
第1章
「森川美由希さんでいらっしゃいますか?藤崎遼平さんが交通事故に遭われました。緊急連絡先が森川さんになっているんですが、至急、病院へお越しください」
「はい、すぐ伺います」
私は震える手で電話を切り、気が気でないまま病院へ急いだ。
「ミユ?」
胸に喜びが広がった。私のこと、忘れていなかったんだ!
頭に巻かれた包帯を見ると胸が痛み、声が詰まった。急いでそばに寄り、抱きしめようとしたけれど、傷に触れてしまいそうでためらう。
「遼平、すごく心配したんだよ。痛かったでしょう」
ところが、彼は嫌悪をあらわにして私を避けた。
「失せろ!」
私はその場で固まった。
そのとき、病室のドアが再び開いた。
顔を上げた彼の表情から険しさが消え、隠しきれない喜びが浮かぶ。
「ミユ、来てくれたんだ!今すぐ人を呼んで、どこの誰だか知らないが、目の見えないこの女を追い出すから」
胸に針を刺されたようだった。
振り返ると、入り口に私とよく似た顔の女性が立っていた。私はさらに身をこわばらせた。
「その人、誰?」
薄々察しはついていた。それでも、聞かずにはいられなかった。
遼平は、まるで知らない人を見るような目を私に向けた。そこには、隠しようもない嫌悪があった。
「お前こそ誰だよ。彼女のことを聞く立場がないだろう?!3秒以内に出ていけ!」
そう言うと、私の後ろにいる女性へ優しく両腕を広げた。
「そんなひどい顔で、俺の大事な彼女を怖がらせるな」
彼女はその腕の中へ歩み寄り、遼平はそのまま抱き寄せた。
「相沢美優(あいざわ みゆ)です。あなたは?」
彼の胸に身を寄せたまま、美優は柔らかな声で尋ねた。けれど、その目は挑発的だった。
遼平が愛おしげに彼女の唇の端へキスを落とす。
「相手にするなよ。どうせ下心があって来た目の見えない女だ。ミユは俺だけ見てればいい」
「もう、遼平さんったら」
美優の目に喜びが浮かび、恥ずかしそうに顔をほころばせた。
2人がいちゃつく姿を見るのが、たまらなくつらかった。
何より耐えられないのは、本当の婚約者である私を忘れたのに、なぜ美優とはこんなにも親しいのかということだった。
ほんの数時間前まで、傘を忘れないよう気遣ってくれた人が、今は私によく似た別の女性を愛おしげに見つめている。どうしても受け入れられなかった。
それでも、頭の包帯を見て必死に深呼吸をした。問い詰めたい気持ちも、2人を引き離したい衝動も、どうにか押し込めた。
顔が似ていることも、彼女がここにいる理由も、考えないようにした。
「遼平、私はあなたの婚約者……」
ようやく気持ちを整え、落ち着いて事情を話そうとしたとき、ドアが勢いよく開いて、びくりと肩が跳ねた。
彼はやっと美優から目を離し、私を一瞥した。
「こいつをつまみ出せ!」
私は目を見開いた。
ボディーガードの2人は一瞬ためらったものの、私の手をつかんで外へ引きずり出そうとした。
必死に抵抗した。でも、大柄な2人にはまるでかなわず、ついに叫んだ。
「私はあなたの婚約者なの!」
遼平は眉をひそめ、一瞬ぼんやりした目をした。そして、2人に手を止めるよう合図した。
「お前が、俺の婚約者?」
希望が湧き、私は慌ててうなずいた。
「そう!あと1週間で婚約パーティーを開くでしょう」
美優が彼を抱きしめ、なだめるように声をかけた。
「遼平さん、どうしたの?また頭が痛む?」
彼の目に焦点が戻った。
次の瞬間、私は容赦なく放り出された。床に激しく体を打ちつけ、腕の皮膚が広く擦りむけて、焼けるように痛んだ。
ドアが閉まる直前、彼のせせら笑う声が聞こえた。
「婚約者だって?よく言えたもんだな。自分の顔を鏡で見たことないのか」
そして、声が甘く変わった。
「俺の婚約者はミユだけだよ。そうだろ?」
第2章
本当に、私のことを覚えていないんだ……
悔しさと悲しさを懸命にこらえて床から立ち上がると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ちょっと、美由希!何しに来たの!」
腕を強くつかまれた。ちょうど、さっき擦りむいたところだった。
「遼平は記憶を失って、あなたのことも忘れたって言ったでしょう!刺激を与えちゃいけないって先生もおっしゃってるのに、どうして来るの?あの子を苦しめたいわけ?」
私はやっとの思いで、その手を振りほどいた。
遼平の母親、藤崎恵子(ふじさき けいこ)だった。恵子は以前から私を嫌っていた。私が遼平に角膜を提供したあの日から、彼女の態度は軟化するどころか、むしろより一層冷酷になった。私のような身分の人間は息子にふさわしくないと、ますます邪険にするようになった。
「おばさま、私はただ、遼平の様子を見たくて……」
恵子は私の左目を嫌そうに見た。
「来てもらわなくて結構よ。美優さんがいるから」
「美優さんをご存じなんですか?」
私ははっと顔を上げた。
恵子の表情が一瞬ぎこちなくなった。だがすぐに、その目に鋭い警告の色を宿した。
「美優さんが世話をしてくれたほうが、遼平だって喜ぶわ。高校時代から好きだった相手だもの。あんなことさえなければ……」
胸がまたざわついた。
けれど、恵子はそこで言葉を切った。
「とにかく、あなたは必要ないの。早く帰って」
返事をする間もなく、強く押しやられた。手術を受けてからずっと体調が優れない私は、数歩よろめき、危うく転びそうになった。
結局、私はそれ以上何も言わなかった。
……
病院を出たあと、あてもなく街を歩いた。やりきれなさが波のように何度も胸へ押し寄せ、涙がこぼれた。左目に焼けるような痛みが走る。
遼平とは大学で出会い、恋に落ちた。
卒業後は一緒に事業を始めた。地下の部屋で寝泊まりし、1日3食、具のないおにぎりだけでしのいだこともある。仕事の付き合いで酒を飲み、胃から出血したこともあった……
苦しかった。それでも、あの頃は幸せだった。
努力が実り、事業は少しずつ軌道に乗り始めた。
そんな矢先、遼平の左目に異常が見つかった。角膜を取り除くしかないという。
すっかり気力を失った彼を見ると、胸を強く締めつけられるようだった。
そんな姿を見ていられず、私は自分の左目の角膜を彼に提供した。
片目が見えなくなった私を雇ってくれるところは少なかった。きつい力仕事をするしかなく、そこでさえ冷たい目を向けられた。
1日に複数のアルバイトを掛け持ちして、ようやく彼の治療費を工面した。
あの頃の私たちは、傷ついた2匹の小さな獣のように、互いの傷をなめ合っていた。
遼平は震えながら、私を強く抱きしめた。
「ミユ、必ず大切にする。誰よりも幸せにしてみせるから」
第3章
医師によると、遼平のけがはそれほど重くないという。ただ、記憶が戻るとは言い切れないらしい。昔の出来事を少しずつ話してあげると、思い出す助けになるそうだ。
だから私は、彼が以前大好きだった鯛のあら汁を作ってきた。
病室の前にボディーガードの姿はなく、ほっと息をつく。
けれど、ドアノブに手をかけた途端、中から妙な声が聞こえた。
「もう、遼平さん、いじわる……」
美優の声だった。
頭が真っ白になり、勢いよくドアを開けた。
「きゃっ!」
「出ていけ!」
――ガシャン!
遼平が投げつけたグラスが私の足元で砕け、中の水が体に飛び散った。
病室の中が目に入る。
遼平の腕の中にいる美優は服が乱れ、唇が赤く腫れていた。ついさっきまで何をしていたのか、ひと目でわかった。
胸が締めつけられ、手の震えが止まらなくなった。
私は苦く笑った。
「遼平、私はあなたの婚約者なんだよ!こんなことして、私を何だと思ってるの?」
彼は美優を背にかばい、冷たい目を向けた。
「お前が?」
口の端をつり上げる。
「そういえば、名前は何だっけ?」
また胸が痛んだ。
「森川美由希」
「そうか、森川美由希な。はっきり言っておく。俺の婚約者になるのはミユだけだ。
愛してるのも、ミユだけだ」
彼は品定めするように私を見た。
「鏡を見てみろよ。お前のどこを好きになれっていうんだ?」
彼は鼻で笑った。
「その見えない目か?荒れた手か?それとも、その日焼けした肌か?
ああ、それと、もう白いワンピースを着るのはやめてくれないか」
嫌悪をむき出しにする。
「見てるだけで気持ち悪い。ミユの隣に立つなんて、彼女への侮辱だろ」
胸の中が空っぽになり、思わず1歩後ずさった。
この目が見えないのは、彼のため。
手が荒れたのは、一緒に事業を立ち上げた頃の苦労のせい。
肌が日に焼けたのも、彼の負担を少しでも減らしたくて、自分から顧客回りを引き受けたからだ。
白いワンピース……
心臓が激しく鳴り始めた。
前は……私が白いワンピースを着るのを、あんなに喜んでいたのに……
そのとき、服を整えた美優が彼の背後から出てきた。
彼女が着ているのは、まさに白いワンピースだ。
まるで私に危害を加えられそうだと言わんばかりに、遼平の服の裾をつかんでいる。
「美由希さんって、お呼びしてもいいですか?」
彼女は笑った。いかにも私を気遣っているような顔だった。
「美由希さんは、ご自分が遼平さんの婚約者だっておっしゃるけど、不思議ですね。遼平さんが忘れているのは、あなただけなんですよね」
意味ありげな笑みが浮かぶ。
「私たちも、あなたを傷つけたいわけじゃないんです。でも、証拠は見せていただかないと。
そうでなければ、どこの誰でも遼平さんの婚約者だって言えてしまいますよね?」
美優は遼平の腕に自分の腕を絡めた。
「何かお困りのことがあれば、私に言ってください。できる限り、お力になりますから」
怒りで全身が震えた。私が誰なのか、美優が知らないはずがない。わざとやっているのだ。
遼平が甘やかすように、彼女の鼻先を指で軽くつついた。
「ミユは本当に優しいな。でも、こんなやつに、お前の親切を受ける資格なんてない」
私の顔などもう見たくもないとばかりに、彼はスマホを取り出した。またボディーガードを呼び、追い出すつもりだ。
第4章
「証拠ならある」
考える間もなく、胸の痛みをこらえて彼を遮った。本当の婚約者は私なのに、どうして美優の前で必死に証明しなければならないのだろう。
私は目を閉じ、感情を抑えた。
記憶さえ戻れば大丈夫。2人で過ごした証を見れば、思い出してくれるかもしれない。
「証拠があるんですね。よかった」
美優は、本当に私のために喜んでいるように笑った。
ゆっくりと近づいてくる。
「見せていただけたら、遼平さんもきっと喜びますよ」
遼平はずっと彼女を目で追い、不満そうなふりをして言った。
「俺の婚約者はミユだけだって」
胸は痛すぎて、もう感覚がなかった。
美優の目には勝ち誇った色が浮かんでいた。遼平に背を向けて立っているので、彼には見えない。
その場を離れようとした瞬間、美優が急に歩み寄り、わざと保温容器をひっくり返した。熱々の魚のスープが残らず私の手にかかり、たちまち水ぶくれができた。
「あっ!」
「ミユ!」
手の激痛から立ち直る間もなく、私は強く突き飛ばされ、床に倒れた。
遼平は美優をいたわるように抱きしめ、今にも怒りが噴き出しそうな目で私をにらんだ。
「このクズ!ミユはお前を気遣ってるのに、けがをさせる気か!」
体も心も痛かった。涙が目にたまり、視界がにじむ。
「私じゃない!私は……」
言い終わる前に、またボディーガードに乱暴に放り出された。
痛みをこらえて涙を拭き、急いで家へ戻った。婚約者だと証明できるものを、一刻も早く見つけたかった。
7年も一緒にいたのだから、証拠など簡単に見つかると思っていた。
けれど、家中を探しても、見つかったのは2人で写った写真1枚だけだった。
それも、卒業式の日に同級生がこっそり撮ってくれたものだ。
もらったときは本当にうれしかった。わざわざ選んだ写真立てに入れ、毎朝目が覚めたら見られるよう、枕元に飾ったのを覚えている。
あちこち探すうちに、手の水ぶくれがいくつも破れていた。
痛みで震える指でメッセージの履歴をさかのぼる。彼からの返信はほとんどなかった。画面は私からの言葉で埋まり、何十件も送って、ようやく1件返ってくる程度だった。
ほかに手はなく、私はその写真を持って病院へ急いだ。
ところが病室は空っぽで、彼がすでに退院したと知った。
もともと大したけがではない。本人が帰宅を望めば、無理に入院させておく必要もなかったのだ。
日が暮れ始める中、今度は彼の家へ向かった。
……
「これが証拠?」
遼平はあざけるような顔をした。
「本当にしつこいな。家まで追いかけてくるのかよ」
写真をちらりと見ただけで、目をそらした。何も思い出さないらしい。
期待はまたも打ち砕かれた。
「遼平、大学を卒業したときの写真だよ。私たち……」
「あ、遼平さん、この写真、すごくかっこいい!」
胸がひやりとした。写真立てが彼の手から美優に渡り、私はとっさに取り戻そうとした。
「信じないなら、返して」
けれど、美優はもう興味をなくしたようなそぶりを見せた。遼平は私のほうに目をやると、顔がたちまち険しくなる。
「ミユが気に入ったなら、俺が写ってるところだけ切ってやるよ」
「やめて!」
何年も大切にしてきた写真なのに!
もう1度取り返そうとすると、遼平に手をつかまれた。激痛が走る。そのとき、美優が手を離した。
――ガシャーン!
写真立てが床に落ち、ガラスが砕け散った。
私の心まで、粉々になったようだった。
我に返ると、すぐにしゃがんで写真を拾った。幸い、写真には傷がついていなかった。
「何だ、これ?」
遼平がガラスの破片に交じった紙に気づいた。
私は動きを止めた。その紙が何だったか、思い出したのだ。
彼はもう、それを広げていた。
「角膜提供同意書」