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妻の愛人との桁外れなハネムーン
俺が2億円規模のプロジェクトを自ら妻のお気に入りアシスタントに譲ったと知った時、社長である妻は、3ヶ月間の無視がようやく功を奏したのだと勘違いした。 彼女は上機嫌で、氷海諸島へのハネムーンに行こうと自分から提案してきた。 しかし、それを知ったアシスタントは露骨に機嫌を損ね、会社を辞めると騒ぎ出した。 普段から彼を溺愛している妻は慌てふためき、つきっきりでご機嫌をとった挙句、出張を口実にハネムーンをドタキャンし、旅行のもう1枚のチケットを彼に渡した。 事後、彼女は悪びれる様子もなく俺に言い訳をした。 「色恋沙汰なんて些細なことよ。やっぱり仕事が第一だし、アタシは経営者として仕事を最優先にしなければならないの。 あなたはアタシの夫なんだから、理解できるわよね」 俺は、アシスタントが先ほどインスタのストーリーに上げたばかりの、2人が頭を寄せてハートを作っているツーショット写真を見つめながら、何も言わずにただ頷いた。 妻は俺が物分かりの良い大人になったと思い込み、すっかり満足して、帰国したらもっとロマンチックなハネムーンをやり直そうと上機嫌に約束してきた。 しかし、彼女は知らない。 俺がすでに退職届を提出し、彼女自身もとうに離婚届にサインをしていることを。 彼女と俺に、もうこの先はないのだ。
チャプター (1)
第1話
俺が2億円規模のプロジェクトを自ら妻のお気に入りアシスタントに譲ったと知った時、社長である妻は、3ヶ月間の無視がようやく功を奏したのだと勘違いした。
彼女は上機嫌で、氷海諸島へのハネムーンに行こうと自分から提案してきた。
しかし、それを知ったアシスタントは露骨に機嫌を損ね、会社を辞めると騒ぎ出した。
普段から彼を溺愛している妻は慌てふためき、つきっきりでご機嫌をとった挙句、出張を口実にハネムーンをドタキャンし、旅行のもう1枚のチケットを彼に渡した。
事後、彼女は悪びれる様子もなく俺に言い訳をした。
「色恋沙汰なんて些細なことよ。やっぱり仕事が第一だし、アタシは経営者として仕事を最優先にしなければならないの。
あなたはアタシの夫なんだから、理解できるわよね」
俺は、アシスタントが先ほどインスタのストーリーに上げたばかりの、2人が頭を寄せてハートを作っているツーショット写真を見つめながら、何も言わずにただ頷いた。
妻は俺が物分かりの良い大人になったと思い込み、すっかり満足して、帰国したらもっとロマンチックなハネムーンをやり直そうと上機嫌に約束してきた。
しかし、彼女は知らない。
俺がすでに退職届を提出し、彼女自身もとうに離婚届にサインをしていることを。
彼女と俺に、もうこの先はないのだ。
第1話
柊凛花(ひいらぎ りんか)と彼女のアシスタントである瀬戸拓海(せと たくみ)が旅立って2日目、俺・桐生蒼介(きりゅう そうすけ)はすべての業務の引き継ぎを終え、人事部で退職手続きを進めていた。
10分も経たないうちに、社内システムから社長決裁による「承認完了」の通知が届いた。彼女は中身も見ずに承認ボタンを押したのだろう。
「あの様子だと、柊社長はとっくに桐生をクビにしたかったんでしょうね。桐生も身の程をわきまえてるじゃないですか」
「そうね。会社に残っていても社長を不機嫌にさせるだけだし、早く辞めた方がマシよ。でも、桐生これからどうするつもりかしら」
「薄給の平社員の私たちが、その心配をしてどうするの?腐っても社長の旦那なんだから、退職して家でゴロゴロしてても使い切れないほどのお金があるわよ」
荷物をまとめていると、同僚たちが嫌味ったらしい視線を向けながらヒソヒソと嘲笑っていた。
俺にとっては、もう慣れっこだった。
俺と拓海が社内で折り合いが悪いことは周知の事実だ。しかし、俺の妻である凛花は露骨に拓海の肩を持ち、彼のために公衆の面前で俺に恥をかかせることもしばしばあった。
そのため、彼らはアシスタントのご機嫌を取るために、こぞって俺を目の敵にしていたのだ。
そのことを思い出し、俺は冷笑した。
「残念だけど、今回の退職はヘッドハンティングによる引き抜きなんだ。ある会社が今の2倍の給料で俺を雇ってくれてね。福利厚生もここよりずっといい」
そう言い残し、悔しさに顔を歪める彼らを気にも留めず、俺はまとめた私物を手に会社を後にした。
ところが、正面玄関を出た直後、凛花から着信があった。
退職のことをどう説明するか考えていたが、電話に出るなり凛花は言った。
「ファイルを送ったわ。1時間以内に仕上げてアタシに送り返して」
どうやら、俺が退職したことに本当に気づいていないらしい。
俺は苦笑しながら、送られてきたファイルを開いた。
それは、つい先日俺が拓海に譲ったはずのプロジェクトだった。
相変わらずだ。
手柄は拓海が持っていき、実際の作業は俺がやらされ、問題が起きれば俺が責任を負わされる。
最初は俺も拒否した。しかし凛花はあの手この手で俺を説得しようとし、俺が断固としてやらない姿勢を見せると、今度は徹底的に無視を決め込み、わざと徹夜で作業をして見せてきた。
彼女が苦労するのを見ていられず、結局最後は俺が引き受けることになっていた。
いつか凛花も、俺の思いを分かってくれる日が来ると信じていた。
だが今回、彼女は拓海を昇進させるために俺と大喧嘩をし、3ヶ月もの間口すら利こうとしなかった。
俺が40度の高熱を出して病院に運ばれた時でさえ、彼女は1度も見舞いに来なかった。ただ俺に、1ヶ月徹夜し続けて獲得した2億円規模のプロジェクトを無理やり拓海に譲らせるためだけに、だ。その時、俺はついに完全に見切りをつけたのだった。
第2話
「今は会社にいない」
俺は淡々と返した。
「会社にいない?」
凛花の声が急に冷たくなった。
「今は就業時間中のはずよね、蒼介。就業時間中に無断離席するなんて、会社の規定に従えば欠勤扱いで減給になるって分かってるの?」
「ああ、分かっている。でも俺はもう……」
退職したことを告げようとしたその時、電話の向こうから拓海の優しい声が聞こえてきた。
「凛花さん、蒼介さんが嫌がっているなら無理強いしないでください。やっぱり僕がやりますから」
「駄目よ。あなたは昨日徹夜したんだから、今日は絶対に休まなきゃ」
凛花の口調はとても穏やかだった。
先ほどの俺に対する態度とはまるで別人のようだ。
拓海はまだ疲れていないと弁明していたが、凛花は強硬な態度を崩さなかった。
「アタシは社長よ。あなたに休めと言っているのは、アタシからの業務命令。まさか逆らう気?」
拓海はおどけてみせたのだろう、少し甘えたような声を出した。
「蒼介さんに負担をかけるのが申し訳ないと思っただけです」
「彼がいくら大変だと言っても、あなたの比じゃないわ。あなたは出張先でも契約書の整理をしているのに、彼は毎日会社で何もしていないじゃない。
それに、彼はアタシの夫なんだから、少しぐらい苦労するのは当たり前でしょ?」
凛花は鼻で笑った。
その言葉で、俺のこれまでの功績はすべて消し去られた。
俺の中には、当初感じていた怒りも、嫉妬も、やり切れなさもとうになく、ただ麻痺したような感情しかなかった。
あまりにも同じことが繰り返されすぎたからだ。
俺が黙っていると、凛花は俺が承諾したのだと勘違いし、少しだけ口調を和らげた。
「蒼介、アタシがあなたに与えているのは単なる仕事だとでも思っているの?あなたを鍛えようとしているのよ。だってあなたはアタシの夫なんだから、会社に対してもっと責任感とハングリー精神を持つべきだわ。
あなたも少しは拓海を見習うべきね。彼は昨日も仕事のために午前4時まで起きていたのよ。こんなに優秀で若くて、おまけに努力家な人をアタシは他に知らないわ」
拓海が傍らで笑いながら口を挟んだ。
「蒼介さんもすごく優秀だと思いますよ」
言葉とは裏腹に、その口調には微かな侮蔑の響きが混じっていた。
凛花はそれに気づかず、軽く鼻を鳴らした。
「彼があなたの半分ほどの優秀さを持ってれば、アタシはこんなに苦労するはずがないのに。
忘れないで。今年うちの会社が取れたプロジェクトは、全部あなたがやり遂げたものなのよ」
2人は息の合った茶番を演じてみせた。
俺は何も言わず、反論する気も起きなかった。
今年のプロジェクトはすべて拓海が俺の手から奪い取ったものだ。凛花もそのことを重々承知しているくせに、わざととぼけているのだ。
要するに、結婚して5年になる俺が、こんな些細なことで彼女と離婚するはずがないと高を括っているのだ。
「もういいわ。この後、アタシと拓海は大事な接待があるから、なるべく早く終わらせて送ってちょうだい」
そう言うと、俺の返事も待たずに凛花は電話を切った。
しかし、ほんの2分後、スマホが短く振動し、拓海のインスタの更新通知が表示された。
豪華なキャンドルディナーを前に座る2人だ。凛花はおどけた様子で拓海の肩に頭を預けており、拓海の目の前には精巧なプレゼントボックスが置かれている。その大きさからして、中身は指輪に違いない。
さらに画面をスクロールすると、拓海が昨夜投稿した写真が見えた。午前4時、彼と凛花はバーで酒盛りをして盛り上がっていた。
つまり、凛花の言う拓海の「努力」とは酒を飲むことであり、この後の「接待」とは事実上のデートなのだ。
俺は冷笑し、凛花を問い詰める気すら起きなかった。
聞いたところで無駄だ。彼女はいつも様々な理由をつけて言い逃れをする。仮に俺がぐうの音も出ないほど問い詰めたとしても、待っているのは謝罪や反省ではなく、果てしない無視と沈黙なのだ。
その度に、俺はあの手この手でご機嫌取りをしなければならなかった。
今思えば、そんなことに時間を費やすくらいなら、どうやってお金を稼ぐか考えるために努力した方がずっとマシだった。
第3話
人の心は変わりやすいが、お金は決して自分を裏切らない。
そう思いながら、俺は会社を後にし、身の振り方について考えを巡らせていた。
駐車場から車を出した直後、スマホが鳴った。
画面を見ると、カードの決済通知だった。
凛花がまた俺のカードで40万円を使ったのだ。
周囲の人間は皆、俺がお金のために凛花と一緒にいるのだと思っている。
しかし実際のところ、俺の収入はすべて彼女に握られていた。彼女は自分の収入を会社の資金に回すと言い張り、ここ数年の生活費や支払いはすべて俺の給料と副業の収入で賄われていた。
俺自身も、男が家庭において多くを負担すべきだと考えていたため、彼女とお金のことでも細かく口出ししたことは1度もなかった。
しかし少し前、自分の収入は決して低くないはずなのに、一向に貯金が増えず、むしろいつもお金が足りないことに気づいた。
どうしても気になって明細を確認したところ、凛花が頻繁に俺のカードを使って拓海にプレゼントを買っていたことが発覚したのだ。
彼女は数万円のゲーム機を贈り、数十万円のスーツもプレゼントしていた。さらには、拓海の誕生日に数百万円を費やして5つ星ホテルを貸し切ってお祝いをしたことさえあった。
その一方で、この数年間、俺が2ヶ月同じ下着を穿いていても彼女は新しいものを買おうとせず、2000円以上のプレゼントをねだれば「高い」と渋った。そして適当にメッセージカードを書いて渡し、「私たちの将来のために節約しなきゃ」と言い訳をするのだった。
俺がたまらずその件について問い詰めると、凛花はあからさまに不機嫌になり、自分を信用していないと俺をなじった。そして意地を張り、2度と俺のお金は使わないと言い放ったのだ。
そのことを思い出し、俺はやはり凛花に電話をかけることにした。
しかし、彼女は出なかった。
それを見て、俺はもう躊躇うことなく銀行へ向かい、カードの利用停止手続きを行った。
1分も経たないうちに、凛花からすぐに折り返しの電話がかかってきた。
「さっきは忙しくて電話に気づかなかったの。どうしたの?」
彼女は何食わぬ顔で言った。
俺は冷静な声で答えた。
「もう用は済んだ」
「そう。
あなたのカード、おかしいわよ。凍結されてるみたい」
彼女が何気ない風を装って話を切り出した。
「知っている」
俺は隠すことなく告げた。
「俺が利用停止をした」
「理由もなくカードを止めるなんて、一体何考えてるの?腹いせのつもり?」
「そういうことにしておいてくれ。でも、君は以前『もうあなたのお金は使わない』と言っていたじゃないか」
凛花はぐうの音も出なかったようだ。
以前の俺なら、お金のことで彼女を責めたりはしなかった。
会社を立ち上げて間もない頃、俺は大病を患った。200万円の手術費用が必要だったその時、彼女は俺に内緒で全財産をとあるプロジェクトにつぎ込み、すべてを失っていた。
彼女は泣きはらした赤い目で、俺が怒るだろうと怯えながら謝罪してきた。
しかし俺は彼女を慰め、お金のことなど些細な問題だと言い聞かせた。俺のお金はすべて彼女のために優先して使うべきだと。
真心で接すれば、俺たちの絆はさらに強固になると信じていた。まさかそれが、彼女のわがままを際限なく増長させることになるとは思いもしなかった。
しかし凛花はあまり深く考えていないようで、短く沈黙した後、大きくため息をついた。
「はいはい、分かったわ。アタシが一緒にハネムーンに行かなかったことをまだ根に持って、当てつけをしてるのね。
蒼介、あなたはすっかり聞き分けが良くなったと感心していたのに、相変わらず器が小さいのね。
約束するわ。今回が終わったら、仕事を全部放り出して、あなたとハネムーンに行くから。それでいいでしょ?
今回はカードを持ってきていないの。今すぐ再発行の手続きをしてちょうだい。これ以上駄々をこねないで。この後の接待は本当に重要なんだから。
10分だけ待ってあげる。それ以上遅れたら、本当に怒るからね」
俺が言うことを聞かないとでも思ったのか、電話を切る直前、凛花は念を押すように脅し文句を付け加えた。
第4話
以前なら、凛花が「怒る」と言えば、俺は大人しく言う通りにしていた。しかし彼女は気づいていないようだ。俺は彼女が怒るのを恐れていたわけではなく、ただでさえ会社経営で疲労している彼女に、これ以上の心労をかけたくなかっただけなのだと。
今になってようやく分かった。俺は彼女の負担を減らそうと必死だったが、彼女の悩み事の多くは自ら招いたものだったのだ。
それなら、俺がこれ以上気を揉む義理はない。
【銀行カードを忘れたなら、秘書に頼むか、瀬戸に貸してもらえばいい。今回の出張は元々瀬戸のプロジェクトのためのものなんだから、瀬戸に立て替えさせても何も問題ないだろう】
そうメッセージを返信した後、俺はスマホの電源を切り、車を走らせて荷物をまとめるために家へ帰った。
その家は、俺が住宅ローンなしで一括購入したものだ。彼女の好む間取りと階層を選び、当初は名義も彼女のものにしようと考えていた。しかし、ふと虫の知らせだったのか思い直して、結局俺の単独名義にしたのだ。
今思えば、あの時自分に逃げ道を残しておいて本当に良かったと思う。
荷物をまとめた後、俺は不動産屋に家の売却を依頼した。
翌日、俺は役所へ向かい、すでに署名済みの離婚届を提出した。
離婚届にサインをした時、俺は凛花にどう説明するか悩んでいた。しかし彼女はスーツケースを持って慌てて1階へ降りようとしており、中身も見ずに最後のページをめくって自分の名前をサインしたのだ。
「1度目を通した方がいい」
俺は最後に一縷の望みをかけてそう言った。
「必要ないわ。あなたはアタシの夫なんだから、アタシがあなたを信頼していないとでも?」
俺は苦笑した。
普段の彼女は、俺に対する信頼など拓海に対するものよりずっと薄かったはずだ。
いわゆる「信頼」とは、俺を早くあしらい、飛行機に間に合わせて、急いで拓海とハネムーンに行きたいがための口実に過ぎなかった。
だが、おかげで余計な説明をする手間が省けた。
しかし、書類を受け取ったスタッフは、手続き上の規定として、双方に婚姻関係継続の意思がないことを確認する必要があると告げた。
俺は凛花と拓海が撮った親密な写真を見せ、さらに彼女が拓海のために壊した俺たちのウェディングフォトも見せたが、職員は首を横に振った。
「必ずご本人様の口から直接確認を取らなければ受理できません」
仕方なく、俺はスマホの電源を入れた。
起動した途端、凛花からの大量の不在着信と未読メッセージが飛び込んできた。
カードのことに腹を立てた彼女は、あらゆる暴言を書き連ね、最後には俺と離婚してやると息巻いていた。
俺はそのメッセージを職員に見せた。
しかし職員はそれでも首を横に振ったため、仕方なく俺は電話をかけた。随分と時間が経ってから、ようやく彼女が電話に出た。
「凛花、俺たちは……」
「あんたへの気持ちなんて、とっくに冷め切ってるわよ!今さら何を言っても無駄、絶対に離婚してやるわ!」
凛花は俺がいつものように機嫌を取りに来たのだと思い込み、冷酷な声で話を遮った。
そしてすぐに電話を切った。
職員はついに俺の言葉を信じ、同情するような目で俺を見ながら離婚届を受理した。(给审校老师:日本的离婚手续一般都是当日完成,所以这句話就不要了,如果后续有涉及时间线的问题我再圆回来)。
俺は、凛花の口にした「離婚」が本心からのものではなく、単なる脅しであることを知っていた。
これまでも彼女を怒らせるたびに、彼女は何度もそう口にしてきた。その度に俺が別れを切り出せずに、あの手この手で機嫌を取り、彼女の要求をすべて受け入れることで離婚の念を打ち消してきたのだ。
彼女は俺が絶対に離婚したくないのだと信じ込み、それが彼女の最後の切り札となっていた。離婚をちらつかせれば、自分の思い通りになると思っていたのだろう。
しかし、彼女は忘れていたようだ。愛情とは、貯金箱の中のお金と同じだということを。
すり減らしていくばかりでは、やがて底をついてしまうのだ。
第5話
相場よりかなり安く価格設定をしたため、1週間も経たずに家は無事に売却された。
不動産屋へ行き、契約書にサインをして買主との引き渡し日を決めた後、俺は家に戻った。
しかし、ドアを開けた途端、部屋の中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。
玄関にあったペアのスリッパは消えていた。
その代わりに、見知らぬ男物の革靴と、凛花の誕生日に拓海がプレゼントした彼女の1番お気に入りのパンプスが並べられていた。
中にいるのは凛花と拓海だとすぐに気づいた。
彼らはあと2日は帰ってこないはずではなかったのか?
そう考えていると、物音に気づいた拓海が歩いてきた。彼は俺のスリッパを履き、俺のパジャマを着て、まるでこの家の主であるかのようにくつろいだ様子だった。
「蒼介さん、どうしてこんな時間に帰ってきたんですか?会社はまだ就業時間中ですよね」
そう言いながら、彼はわざと傍らにあったマグカップにタバコの灰を落とした。
それは、凛花が俺にプレゼントしてくれたペアのマグカップだった。
以前の俺はそれを愛用し、いつも手のひらで大切に包み込んでいた。
その時、凛花もリビングから歩いてきた。拓海が俺のマグカップを灰皿代わりにしているのを見ても、彼女は見て見ぬふりをした。
タバコの匂いを嗅ぐだけで吐き気を催し、俺に強硬に禁煙を命じた彼女が、今は全く不快な様子を見せていない。
拓海と一緒にいるこの期間で、彼女は本当に変わってしまった。
俺を見ると、彼女の顔には一瞬だけ気まずそうな色が浮かんだ。
しかしすぐに、その顔は不機嫌そうなものに変わった。
「また会社を抜け出してきたの?
蒼介、いくらアタシの夫だからといって、しょっちゅうこんなことをしていいわけじゃないのよ!
あなたが規律を守らないのに、これからアタシがどうやって社員を管理すればいいの?」
規律?
俺は思わず吹き出しそうになった。
規律を守らないことに関して、凛花の右に出る者がいるだろうか?
1年前、会社が軌道に乗り始めた頃、凛花は業界経験すらない拓海を特例で会社の管理職に抜擢した。
俺は疑問に思ったが、凛花が「拓海は必ず大きな戦力になる」と言うのを聞いて、彼を熱心に指導しようと決めた。
しかし、拓海は毎日ゲームをするか寝てばかりいた。就業時間を無為に過ごした後、わざと深夜まで残り、会社のグループチャットに「残業中」の写真を送るのが日課だった。
俺はそのことを凛花に報告したが、彼女は「仕事に疲れたからゲームでリラックスしているだけかもしれないじゃない」と取り合おうとしなかった。
俺が凛花に少し注意して見てほしいと頼んでも「時間がない」と言われ、監視カメラを設置してはどうかと提案しても「プライバシーの侵害だ」と一蹴された。
その後、プロジェクトで立て続けにミスが発生し、数千万円もの損失が出たにもかかわらず、拓海は悪びれる様子もなかった。俺が我慢の限界を超えて彼を解雇しようとすると、凛花は猛烈に反対した。
最後に彼女は俺にこう言ったのだ。
「あなた、拓海が優秀すぎて自分を超えるのが怖いから嫉妬してるんでしょ?」
その後も拓海は会社に残り、俺が担当していた顧客やプロジェクトを次々と横取りした。凛花はそれを明らかに見て知っていたはずなのに見て見ぬふりをし、それどころか拓海を「優秀な社員」と称賛し、俺を「同僚に嫉妬する反面教師」として扱った。
以前の俺は、そんな理不尽な扱いにやり場のない思いを抱えていた。
しかし今考えてみれば、あれほどの辛抱強さがあれば、別のどんな会社に転職しても、今のようなどん底の惨めな思いを味わうことはなかっただろう。
俺が黙っていると、拓海が傍らで凛花の背中を軽く叩き、優しい声でなだめた。
「きっと蒼介さん、凛花さんが帰国するのを知って、わざわざ駆けつけてくれたんですよ」
凛花は明らかに彼の言葉を信じ、満更でもない顔を浮かべた。
「まあいいわ、今回だけは大目に見てあげる。でも、どうしてアタシが今日帰国するって分かったの?」
拓海は笑って言った。
「凛花さん、忘れちゃったんですか?帰りの航空券は人事部が手配したんです。きっと人事部が蒼介さんに教えたんですよ」
第6話
凛花は軽く鼻を鳴らした。
「蒼介、あなたは毎日仕事にも集中しないで、そういう余計なことばかり熱心に首を突っ込んでいるのね。
でも、こんなことをしたからって許してあげると思ったら大間違いよ。
あなたが腹いせにカードの利用停止をしたせいで、アタシは取引先の前で大恥をかいたわ。結局、拓海があちこち駆けずり回ってお金を借りてくれて、なんとか支払いを済ませたんだから」
俺がいつまでも沈黙していると、凛花は俺がいつものように反省しているのだと勘違いし、少しだけ口調を和らげた。
「許してあげないこともないわ。でもその前に、拓海に相応の埋め合わせをしなければならないわね。
彼が今住んでいる家は最近リフォーム中で、しばらく住めないの。あなたがこの寝室を空けて、しばらくの間彼に使わせてあげるなら、今回のことは水に流してあげるわ」
俺は首を横に振った。
「この家はもう売ってしまったんだ」
「売った?」
凛花は目を丸くした。
彼女が質問する前に、拓海が先回りして口を挟んだ。
「蒼介さん、もしかしてこの家を売って、謝罪の代わりにもっと大きい家を買ってくれるつもりなんじゃないですか?」
凛花はそれに納得し、途端に嬉しそうに顔をほころばせた。
「確かに、この家には随分長く住んだし、そろそろもっと大きな家を買ってもいい頃ね。その時はアタシも少し資金を出してあげるわ。だから、この家は一旦売るのをやめましょう。ちょうど拓海が使うのに都合がいいし」
「そんなの申し訳ないですよ。家賃は相場通り払います」
「家賃なんていいわよ」
凛花はムッとして言った。
「アタシがあなたの社長なのに、家賃なんて取れるわけないでしょ?」
「それは悪いです。ダメですよ、家賃は絶対に払います」
「それなら、数千円程度でいいわ」
2人はわざとらしいやり取りを続け、凛花は家賃など気にも留めていないという態度をとった。
この家は市内中心部にあり、相場の家賃は20万円を下らない。それなのに彼女はどうでもいいと思っているのだ。
しかし俺たちがデートをする時は、彼女は食事代や映画代の支払いまできっちりと俺と割り勘にしていたのだ。
愛している時と愛していない時の態度は、見事なまでに雲泥の差だ。
「どう?あなたが承諾するなら、離婚の話は考え直してあげてもいいわよ」
「考える必要はない……」
「そうはいかないわ。こんなにあっさり許してしまったら、また同じ過ちを繰り返したらどうするの?」
凛花は俺の言葉を遮った。彼女は俺が「離婚の考えを取り下げてほしい」と懇願しているのだと思い込んでいるのだ。
拓海が傍らでへらへらと笑いながら言った。
「凛花さんの言う通りですね。でも、僕の顔に免じて蒼介さんを許してあげてくださいよ。
それに、何だかんだ言って、お2人は結婚して長いじゃないですか。今離婚するなんてもったいないですよ」
凛花は思案するような素振りを見せた。
拓海は思い切って彼女に手を伸ばし、軽く揺さぶりながら甘え始めた。
凛花は口では「やめなさいよ」と言いながらも、だらしない笑みを浮かべていた。
「仕方ないわね」
彼女はそう言ってようやく俺の方を向き、満足げに言った。
「拓海もあなたのために口添えしてくれていることだし、今回だけは許してあげる。
拓海にはしっかり感謝しなさいよ。あなたにあんな扱いを受けたのに、恨み言ひとつ言わずにあなたをかばってくれているんだから。
まあいいわ。じゃあ今回の離婚の件は……」
「勘違いしているようだ」
彼女が言い終わる前に、俺は淡々と遮り、離婚届の受理証明書を彼女の目の前に突きつけた。
「俺が言いたいのは、俺たちは、すでに離婚しているということだ」