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養子の誕生日、妻は俺を地下室に閉じ込めた
俺・水野律(みずの りつ)ががんと診断された日は、妻・水野美咲(みずの みさき)が養子に迎えた水野悠斗(みずの ゆうと)の誕生日だった。誕生日パーティーが始まる直前、俺は血を吐いた。美咲は、悠斗の誕生日に水を差したと俺を責め、病院へ連れていくどころか、地下室に閉じ込めた。 床に倒れ、シャツを血で汚した俺を見下ろし、美咲は冷たく言い放った。 「律、よりによって悠斗の誕生日に血を吐くなんて。今日がどんな日か分かってるの?」 病院へ連れていってくれと頼んだ。だが、美咲は医師にも確認したと言い、早期のがんなら吐血するはずがないと譲らなかった。安西亮介(あんざい りょうすけ)に嫌がらせをするため、わざと吐血したふりをしていると決めつけていた。 俺は声を振り絞ってすがった。「俺は美咲の夫だろ!頼む、美咲。病院へ連れていってくれ。もう二度と姿を見せないから」 美咲は表情を険しくし、俺の首を締め上げた。「そうやって私の気を引こうとしても無駄よ。悠斗の誕生日が終わるまで、そこで大人しくしていなさい。そのあとで病院へ連れていく。病気が治れば、今までどおり水野家の婿でいられるわ」 激痛に耐えきれず、俺は何度も悲鳴を上げた。美咲はその声を嫌がり、悠斗と亮介を連れてホテルで誕生日パーティーを続けた。 その後、俺のことを思い出した美咲は、手術が無事に終わったかと秘書・森川拓也(もりかわ たくや)に尋ねた。拓也は青ざめ、震える声で答えた。「律さんは……もう、病院にはいらっしゃいません」
チャプター (1)
第1話
俺・水野律(みずの りつ)ががんと診断された日は、妻・水野美咲(みずの みさき)が養子に迎えた水野悠斗(みずの ゆうと)の誕生日だった。誕生日パーティーが始まる直前、俺は血を吐いた。美咲は、悠斗の誕生日に水を差したと俺を責め、病院へ連れていくどころか、地下室に閉じ込めた。
床に倒れ、シャツを血で汚した俺を見下ろし、美咲は冷たく言い放った。
「律、よりによって悠斗の誕生日に血を吐くなんて。今日がどんな日か分かってるの?」
病院へ連れていってくれと頼んだ。だが、美咲は医師にも確認したと言い、早期のがんなら吐血するはずがないと譲らなかった。安西亮介(あんざい りょうすけ)に嫌がらせをするため、わざと吐血したふりをしていると決めつけていた。
俺は声を振り絞ってすがった。「俺は美咲の夫だろ!頼む、美咲。病院へ連れていってくれ。もう二度と姿を見せないから」
美咲は表情を険しくし、俺の首を締め上げた。「そうやって私の気を引こうとしても無駄よ。悠斗の誕生日が終わるまで、そこで大人しくしていなさい。そのあとで病院へ連れていく。病気が治れば、今までどおり水野家の婿でいられるわ」
激痛に耐えきれず、俺は何度も悲鳴を上げた。美咲はその声を嫌がり、悠斗と亮介を連れてホテルで誕生日パーティーを続けた。
その後、俺のことを思い出した美咲は、手術が無事に終わったかと秘書・森川拓也(もりかわ たくや)に尋ねた。拓也は青ざめ、震える声で答えた。「律さんは……もう、病院にはいらっしゃいません」
第1話
がんと診断された日は、美咲が養子に迎えた悠斗の誕生日だった。
誕生日パーティーが始まる直前、俺は血を吐いた。美咲は悠斗の誕生日に水を差したと俺を責め、病院へ連れていくどころか、地下室に閉じ込めた。
美咲は冷たい目で俺を見下ろした。
「律、よりによって悠斗の誕生日に血を吐くなんて。今日がどんな日か分かってるの?」
湿った床に這いつくばっている。白いシャツの胸元は、吐いた血で濡れている。
胃がひきつり、激しい痛みが走った。このままでは死ぬと思い、必死に病院へ連れていってくれと頼んだ。
美咲の目に失望の色が一瞬よぎり、声が低くなる。
「まだ嘘をつくの?医師にはとっくに確認してあるわ。早期のがんなら、転移することも、血を吐くこともないのよ!
亮介への嫌がらせのために、悠斗の誕生日にこんな真似までして。よくそこまで考えつくわね!」
深く息を吸い、声を振り絞ってすがった。
「俺は美咲の夫だろ!頼む、美咲。病院へ連れていってくれ。もう二度と姿を見せないから」
美咲は顔を険しくした。身をかがめて俺の首を締め上げ、冷たく言い放つ。
「そうやって私の気を引こうとしても無駄よ。
悠斗の誕生日が終わるまで、そこで大人しくしていなさい。そのあとで病院へ連れていく。病気が治れば、今までどおり水野家の婿でいられるわ」
そう言って立ち上がり、出ていこうとした。
青白い手で美咲の手首をつかんだ。青ざめた顔を上げ、もう一度懇願する。
「病院へ連れていってくれ。頼む……」
美咲は鼻で笑い、俺の手を乱暴に振りほどいた。そのまま肩を強く蹴りつけ、ためらいもなくドアに鍵をかける。
ドアの向こうから、冷え切った声が聞こえた。
「誠司、律を見張っていて。私の許可なしに、ここから出さないで」
痛みに耐えきれず、俺は何度も悲鳴を上げた。美咲はその声をうるさがり、悠斗と亮介を連れて温泉ホテルへ誕生日を祝いに出かけた。
美咲に肩を蹴りつけられ、俺は床へ倒れ込んだ。
反射的に体を丸めた直後、喉の奥が熱くなり、また血を吐いた。真っ白なシャツの胸元に、赤い染みがじわじわと広がっていく。
力を振り絞り、床に血の跡を残しながら、少しずつドアまで這った。拳で何度もドアを叩いた。
「誠司!頼む、ここから出してくれ。痛くてたまらないんだ!」
執事・黒田誠司(くろだ せいじ)はドアに耳を当て、中の物音を聞いていた。あからさまに顔をしかめ、嘲るように言う。
「律様、もう芝居はやめてください。美咲様から、絶対に出さないよう言われています。ここからお出ししたら、給料を減らされるのは私なんですよ。私のような使用人にまで当たらないでください。
もういいですから、騒がないでください。
律様のせいで、せっかく準備した誕生日パーティーも家で開けなくなったんです。
悠斗様は、パーティーが終わったら戻ってきて、私が作ったバースデーケーキを召し上がるんです。ここで律様に付き合っている暇はありません」
シャツの胸元をつかんだ。痛みはますます増していく。
誠司の足音が遠ざかりかけ、俺は慌てて呼び止めた。
「誠司!
行かないでくれ!本当に死ぬほど痛いんだ!
誠司が勝手に決められないのは分かってる。美咲に電話してくれるだけでいい。さっきから何度も血を吐いてるんだ。このまま病院へ行けなかったら、本当に痛みで意識を失いそうなんだ!」
第2話
「どれだけ俺を見下していても、目の前で俺が死んでも平気なのか?」
その言葉に、誠司はようやく足を止めた。
しばらくして、ドアの向こうから面倒そうな声が返ってきた。
「今から美咲様に電話します。美咲様が許可なさらなければ、あとは私の責任ではありませんからね」
慌ててうなずき、ドアの前にうつ伏せになったまま、誠司が電話をかけるのを待った。
「美咲様、律様が何度も血を吐いているそうです。病院へお連れしたほうがよろしいでしょうか」
美咲は料理を注文したばかりだった。誠司からの電話に顔をしかめ、冷たい声で叱りつけた。
「誠司、もう仕事を辞めたいの?
律をここから出さないようにと言ったでしょう。律の言うことをいちいち取り次がなくていいの!」
叱られた誠司は顔をしかめ、地下室のドアをにらんだ。
ふと、ドアの隙間から流れ出す血が目に入った。たちまち顔から血の気が引き、震える声で叫んだ。
「血が……血が出ています!美咲様、律様の話、本当みたいです!本当に血を吐いています!
ドアの隙間から、こんなに血が流れ出ています!」
スマホを持つ美咲の手が止まった。しばらく黙り込み、ためらいがちに口を開く。
「待ってて……」
意識がぼんやりする中、スマホから聞こえた悠斗の幼い声が、美咲の言葉を遮った。わずかに残っていた俺の希望も、そこで消えた。
「ママ、アイスが食べたい」
美咲が振り返った。
悠斗を抱いた亮介が、目を輝かせて美咲を見つめている。
「美咲、律からか?
今日は悠斗の誕生日だ。悠斗の誕生日を祝うのが気に入らなくて、何か理由をつけて美咲を帰らせようとしてるんじゃないか?この前、美咲が悠斗の保護者会へ行こうとしたときも、邪魔しただろ。
全部、俺が悪いんだ。悠斗が子どもの頃の美咲にそっくりだったから、施設でつらい思いをさせたくなかった。だから、どうしても引き取りたいと言った。
俺がそんなことを言わなければ、悠斗も保護者会で、ママのいない子だとからかわれることもなかったのに」
つらそうに自分を責める亮介を見て、美咲の胸がわずかに痛んだ。
悠斗は美咲へ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。顔を上げ、甘えるような声で言う。
「ママ、最後まで一緒にお祝いしてくれる?ママと誕生日を過ごすの、今日が初めてなんだ。今まではずっとパパと二人だった。みんなに、ママがいないってからかわれたんだよ」
美咲は身をかがめて悠斗を強く抱きしめ、亮介を気遣うように見つめながら言った。
「二人と最後まで一緒に過ごすって約束したもの。何があっても、約束は守るわ。今日は、悠斗の誕生日より大切なことなんてないから」
亮介は表情を緩め、笑みを浮かべた。
「美咲、ありがとう」
誠司はドアの外で、それ以上は口を開くこともできず、立ち尽くしていた。
美咲の言葉を聞き、かろうじて残っていた気力も尽きた。ドアにもたれた体が、ゆっくりと床へ滑り落ちていく。
目を閉じる直前、美咲が誠司に命じる声が聞こえた。
「誠司、今は戻れないわ。
あとで小林先生に電話して、家まで診に行ってもらう。
律は嘘ばかりつくから、小林先生が来たら、あとは先生に任せて。私の許可なく律をここから出さないで。きちんと見張っていなさい。悠斗の誕生日を邪魔したら、責任を取ってもらうわよ!」
……
俺が、嘘つきだって?
意識を失う寸前、固く閉じたまぶたから、涙がこぼれた。
美咲にとって、俺はそんな人間だったのか。俺のことを少しも信じていなかった。
悠斗の保護者会の日、美咲が学校へ向かう途中で、俺が電話をかけたのは事実だ。けれど、引き止めたかったわけではない。開発中の製品テストが成功し、そのことを真っ先に美咲へ伝えたかっただけだ。
第3話
美咲は保護者会へ行くことを、わざと俺に隠していた。だから、俺は何も知らなかった。
あのときのうれしそうな美咲の姿は、今もはっきり覚えている。だがその一方で、俺が嘘をつき、子どもにまで嫉妬していると決めつけていた。
「律様、律様!しっかりしてください!」
誰かの大きな両手が、俺の体を強く揺さぶっている。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えられない。どうにかゆっくりと目を開けた。
目の前には誠司がいる。
俺が目を開けると、誠司はほっと息をつき、胸元を軽くたたきながら言った。
「意識が戻ってよかったです」
続けて、不満そうにこぼした。
「律様、驚かせないでください」
目を落とすと、真っ赤な液体が辺りに広がっている。
誠司も俺の視線を追い、何かに気づいたように鼻を押さえ、嫌そうに顔をしかめた。
「律様、作業員が置いていったペンキ缶を倒したんですか?ひどい臭いです。
仮にもこの家のご主人でしょう。それなのに、家を大事にする気なんて少しもないんですね。
いつも私たちを困らせてばかりです!」
はっとして隅を見ると、赤いペンキ缶が倒れている。俺の手が、うっかり当たったのだろう。
地下室は暗い。誠司の体が、入口から差し込む光を遮っている。すると、誠司は何か思い当たったように声を上げた。
「美咲様のおっしゃったとおりでした。ペンキ缶をわざと倒して、私に血だと思わせたんですね。それで美咲様に電話をかけさせ、帰ってきてもらおうとしたんでしょう!
美咲様が騙されなくてよかったです!
危うく、悠斗様たち3人で過ごす誕生日まで台無しになるところでした!」
誠司を鋭くにらんだが、痛みのせいでほとんど声が出ない。
俺の視線に一瞬ひるんだ誠司は、慌ててモップを取りに行き、地下室のドアを閉め忘れた。
地下室から外へ続く階段は、何度も折れ曲がっている。けれど、考えている時間はない。このままではここで死んでしまう。自分で助けを求めるしかない。
何度か深く息を吸い、震える手を壁につき、どうにか立ち上がった。一歩ずつ、外へ向かう。
この階段が、こんなにも長く感じたのは初めてだ。胃がけいれんし、一歩進むたび、刃物で胃をえぐられるような痛みが走る。
美咲にスマホを取り上げられている。家の外へ出て、誰かに助けを求めるしかない。
大通りまでたどり着いたところで力尽き、その場に崩れ落ちた。
夕食後に散歩していた人たちが、すぐに俺の周りへ集まってきた。
一人が悲鳴を上げ、すぐに救急車を呼んだ。
その中には、美咲の取引先である井上雅人(いのうえ まさと)社長もいた。俺に気づくと、驚いた声を上げた。
「律さん!どうしてここに倒れているんですか?その血は……まさか、ご自宅に強盗が入ったんですか?今すぐ水野社長に連絡します!」
……
「井上社長?」
美咲は電話に出ると、不思議そうに聞き返した。
雅人はすぐに言った。
「水野社長、ご自宅に強盗が入ったようです!律さんが血だらけで、ご自宅の前に倒れています!救急車はもう呼びました。今すぐ第一総合病院へ来てください!」
電話越しの騒がしさに、美咲は眉を寄せ、反射的に立ち上がった。
そのとき、骨張った手が美咲の手首をつかんだ。亮介は困ったようにスマホを差し出す。
誠司とのメッセージ画面を見た瞬間、美咲の目つきが変わった。顔を険しくし、怒った声で言う。
「井上社長、誤解です。家に強盗は入っていません。夫が私への当てつけに、自分で赤いペンキをかぶっただけです。
お手数ですが、救急車はもう必要ないと伝えてください。かかりつけの医師には、もう連絡してあります。間もなく家に着くはずです」
第4話
雅人は目を見開いて俺の全身を見回し、戸惑いながら尋ねた。
「これ、本当に赤いペンキなんですか?」
美咲はきっぱりと答えた。
「間違いありません。夫に代わってください。少し話があります」
雅人はしゃがみ込み、気の毒そうに俺を見ながら、耳元へスマホを差し出した。
美咲の声が聞こえてくる。
「律、そんな芝居にはもううんざりよ。
今日、本当に死ぬほど具合が悪いとしても、そんなことは関係ない。たとえ死ぬとしても、今日だけは我慢しなさい!
自分の体のことも、周りがどれだけ心配するかも考えずに、勝手に薬を飲んだんでしょう。そんな律が、亮介と肩を並べられると思わないで。たとえ私と結婚していても、永遠に亮介より下よ。
これで諦めがついた?
今すぐ大人しく家に戻って。これ以上、外で恥をさらさないで!」
美咲の一言一言が、刃物のように胸をえぐった。どれだけ尽くしても、俺は亮介には敵わないのだ。
涙が頬の血と混じり、地面へ落ちた。
「勝手に薬を飲んだ……?」
かすれた声で問い返した。
「美咲、ずっと俺のことをそんなふうに思ってたのか。俺たちが何年もかけて築いてきた絆も、結局はただの笑い話だったんだな」
美咲は苛立たしげに部屋を歩き回り、スマホを握る手に少しずつ力を込めた。叱りつけようと口を開いた瞬間、かすかな声が耳に届く。
「美咲、もう二度と会わない」
……
根の優しい雅人は美咲の言葉に従わず、救急車を断らずに俺を病院へ送ってくれた。冷たい薬液が体内へ流れ込むと痛みは和らいだが、胸の奥にはどうしようもない悲しみが込み上げてきた。
卒業してから、ずっと美咲のそばにいた。会社を狙う親戚たちを追い出し、何の迷いもなく美咲を陰から支え続けた。子どもを産みたくないと言われたときは、美咲に黙ってパイプカットまで受けた。
だが、亮介が悠斗を連れて俺たちの前に現れた途端、それまでの俺がまるで馬鹿みたいに思えた。
温かな手が、ガーゼで俺の涙を拭っている。頭上から、松田修平(まつだ しゅうへい)先生の切迫した声が聞こえた。
「患者の家族とは連絡が取れたか?
容体が悪い。すぐに手術が必要だ!」
そばにいた看護師の山口葵(やまぐち あおい)が答えた。
「松田先生、先ほどまでは緊急連絡先につながったのですが、電話を切られました。その後は電源まで切られていて、連絡がつきません!
手術同意書はどうしますか?どなたに署名をお願いすればいいんですか?
このまま署名がもらえなければ、手術はできません!」
皆が焦る中、松田先生がため息をついた。
「藤原先生が手術中だったはずだ。山口さん、もう終わったか見てきてくれ。終わっていたら、必ずこちらへ来るよう伝えてくれ」
朦朧とする意識の中、冷たいメスで体の中をかき回されているような感覚がした。聞き覚えのあるため息が耳に届き、必死に目を開けた。
「美咲!」
温かな手が俺の手首をつかみ、ベッドへ押し戻した。かすれた声が聞こえる。
「動かないで。点滴が抜けるから」
声のするほうへ顔を向けた瞬間、目の奥が熱くなった。目の前にいるのが信じられず、その人影を呆然と見つめる。
「姉さん……」
二番目の姉・藤原千秋(ふじわら ちあき)は疲れ切った顔で、目も充血していた。俺の青白い顔を見ると涙をこらえきれず、顔を背けて声を詰まらせた。
「兄さんも、こっちへ向かってる」
俺も堪えきれず、声を上げて泣いた。子どものように泣きじゃくったのは、これが初めてだった。
「姉さん、俺が間違ってた」
千秋はようやく振り返り、俺を抱きしめ、頭をぽんぽんとたたいた。
第5話
「大丈夫よ、律。もう大丈夫だから。私がついてるよ」
深夜、眠っていた美咲は、耳元で聞こえた泣き声にふいに目を覚ました。反射的に隣へ顔を向けると、悠斗はすぐそばでおとなしく眠っていて、泣いた様子はなかった。
悠斗に布団をかけ直したが、理由もなく胸がざわつき、どうしても眠れない。スマホを確認しても、メッセージは1件も届いていなかった。
昼間、知らない番号から何度もかかってきた電話を切ったことを思い出すと、胸の不安が一気に膨れ上がった。ふと律の顔が浮かび、水野家のかかりつけ医である小林和也(こばやし かずや)へ電話をかけた。
「小林先生、夫の具合はどうですか?」
「律さんですか?水野社長、律さんは救急車で病院へ運ばれたのではないんですか?私がご自宅に着いたとき、ちょうど救急車が出ていくところでした。てっきり、水野社長が救急車をお呼びになり、私が間に合わなかったのだとばかり思っていました」
美咲は一瞬動きを止めたが、すぐに椅子から立ち上がり、顔を輝かせて尋ねた。
「それなら、手術はもう終わって、病気も治ったということ?」
美咲の弾んだ声を聞き、和也は言葉に詰まった。あのとき聞いた話とは、どうも違う気がした。しばらく言葉を選んでから、慎重に答えた。
「水野社長、できるだけ早く第一総合病院へ、律さんのお見舞いに行かれたほうがよろしいかと思います」
美咲は喜びを隠せず、何度も頷いた。
車の鍵を手に出かけようとすると、亮介が悠斗の手を引き、ドアの前に立っていた。悠斗は眠そうに目をこすり、美咲へ両腕を伸ばす。
「ママ、抱っこして。
ママが一緒じゃないと、眠れないよ」
亮介は上半身裸で、鍛え上げられた筋肉をあらわにしたまま歩み寄り、美咲の肩を抱いた。
「美咲、さっきの電話が聞こえた。律が手術を受けたのか?
律はずっと前から診察の予約を取っていたはずだろ。どうして急に今日、それもこんな時間になったんだ?
もう遅いし、今から運転するのは危ない。それに、律はまだ麻酔が効いて眠ってるはずだ。休ませてやったほうがいい。今すぐ行かなくてもいいだろ」
美咲はうつむいて少し考え、悠斗を抱き上げると、亮介へ顔を向けた。
「それもそうね。たった数時間のことだもの。朝になってから行っても同じよ。律がどこかへ行くわけでもないもの。
森川が病院の近くにいるから、先に何か買って様子を見に行かせるわ」
翌朝、美咲はチューリップの花束を買った。拓也へ電話をかけ、俺がどの病室にいるのか尋ねる。
拓也は汗だくになっていた。すでに病院中を何度も捜し回ったが、俺の病室は見つからなかった。
俺は退院手続きを済ませ、病院の正面玄関まで来た。車に乗り込むと、背後から大声が聞こえた。
「律さん!」
振り返ると、拓也が息を切らしながら駆け寄ってきた。スマホを指さしながら、千秋へ声をかける。
「藤原先生、水野社長がもうすぐ病院に着きます。どちらへ行かれるんですか?律さんはどこにいるんですか?」
千秋は拓也のスマホに目をやると、そのまま拓也を鋭くにらんだ。何も言わず、車へ乗り込む。
拓也はその場に立ち尽くし、走り去る黒い車を見送った。スマホ越しに、美咲へ告げる。
「社長、律さんは……藤原先生と一緒に行ってしまいました」