娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?

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娘の角膜まで、あの子に渡すつもり?

GoodNovel 完結

私は桐谷千尋(きりたに ちひろ)。 娘の桐谷咲良(きりたに さくら)との最後のお別れの日だというのに、夫の桐谷浩介(きりたに こうすけ)は姿を見せなかった。 咲良の遺影を胸に抱いたまま、浩介に数十回も電話をかけた。 けれど、一度も出なかった。 そんなとき、不動産会社の担当者から1本の動画が送られてきた。 「浩介、翔太のこと甘やかしすぎ。もう実のパパより、よっぽどパパらしいじゃない」 動画の中で、浩介は水野梨沙(みずの りさ)の息子、水野翔太(みずの しょうた)の手を引き、翔太が通う予定の小学校の学区内でマンションを内見していた。 ベランダを見ていた浩介に、梨沙が尋ねた。 「浩介、本当にここ、買ってくれるの?」 浩介は笑って、翔太の頭を優しく撫でた。 「もちろん。翔太の学校のこともあるし、早めに決めないとな」 そのやり取りを見ているうちに、咲良が亡くなる前の晩のことを思い出した。 咲良は痛みで顔を青ざめさせながらも、私の手をぎゅっと握って聞いた。 「ママ、パパはお薬買いに行ってくれたの?」 私は咲良の目を見ることができず、ただうなずくしかなかった。 すると、咲良はにこっと笑った。 「じゃあ、起きて待ってる。私が寝ちゃったら、パパ、帰ってきてもまたこっそり行っちゃうかもしれないもん。 ママ、私、これからはちゃんとお薬飲むから……もう私を置いていかないでって、パパに言って」 けれど咲良は、最後まで待っても、パパに会えなかった。 しばらくすると、病院のスタッフに案内され、アイバンクの担当者が咲良のもとへやってきた。 「ご主人の浩介さんからは、すでに献眼について承諾するご意思を伺っています。お嬢さまの角膜は、現時点では移植に提供できる見込みです。 実際にご提供いただくには、ご家族の承諾書が必要になります。処置を行う前に、お母さまにも詳しくご説明したうえで、ご意思を確認させていただけますか」

チャプター (1)

第1話

私は桐谷千尋(きりたに ちひろ)。 娘の桐谷咲良(きりたに さくら)との最後のお別れの日だというのに、夫の桐谷浩介(きりたに こうすけ)は姿を見せなかった。 咲良の遺影を胸に抱いたまま、浩介に数十回も電話をかけた。 けれど、一度も出なかった。 そんなとき、不動産会社の担当者から1本の動画が送られてきた。 「浩介、翔太のこと甘やかしすぎ。もう実のパパより、よっぽどパパらしいじゃない」 動画の中で、浩介は水野梨沙(みずの りさ)の息子、水野翔太(みずの しょうた)の手を引き、翔太が通う予定の小学校の学区内でマンションを内見していた。 ベランダを見ていた浩介に、梨沙が尋ねた。 「浩介、本当にここ、買ってくれるの?」 浩介は笑って、翔太の頭を優しく撫でた。 「もちろん。翔太の学校のこともあるし、早めに決めないとな」 そのやり取りを見ているうちに、咲良が亡くなる前の晩のことを思い出した。 咲良は痛みで顔を青ざめさせながらも、私の手をぎゅっと握って聞いた。 「ママ、パパはお薬買いに行ってくれたの?」 私は咲良の目を見ることができず、ただうなずくしかなかった。 すると、咲良はにこっと笑った。 「じゃあ、起きて待ってる。私が寝ちゃったら、パパ、帰ってきてもまたこっそり行っちゃうかもしれないもん。 ママ、私、これからはちゃんとお薬飲むから……もう私を置いていかないでって、パパに言って」 けれど咲良は、最後まで待っても、パパに会えなかった。 しばらくすると、病院のスタッフに案内され、アイバンクの担当者が咲良のもとへやってきた。 「ご主人の浩介さんからは、すでに献眼について承諾するご意思を伺っています。お嬢さまの角膜は、現時点では移植に提供できる見込みです。 実際にご提供いただくには、ご家族の承諾書が必要になります。処置を行う前に、お母さまにも詳しくご説明したうえで、ご意思を確認させていただけますか」 第1話 夕方になって、浩介はようやくやってきた。 「どうして咲良の薬、止めたの?」 私が聞くと、浩介はうんざりしたように眉をひそめた。 「治療にいくら金をかけたって、きりがないだろ。翔太だってもうすぐ小学生なんだ。これから何かと金がかかるんだよ」 私は浩介を見つめたまま、何も言えなかった。 咲良がどれだけ必死に生きようとしていたかなんて、浩介にはどうでもいいらしい。 胸に抱いた遺影には、髪を二つに結び、目を細めて笑う咲良が写っていた。 咲良が一番気に入っていた写真で、浩介が珍しく遊園地に連れていってくれた日に撮ったものだった。 けれど、親子で過ごせたのはたった20分。梨沙から電話が入ると、浩介は咲良を私に預け、すぐに帰ってしまった。 それでも、咲良はずっと嬉しそうだった。 パパに抱っこしてもらったことも、パパからお日さまみたいな匂いがしたことも、何度も私に話してくれた。 そんな浩介が今、咲良のすぐそばに立っていた。 それなのに、泣いた様子すらなかった。 アイバンクの担当者が書類を開き、声を落として言った。 「ご主人には、すでに献眼についてご説明し、承諾書にもご署名いただいています。ただ、処置に入る前に、お母さまのご意向も確認させてください」 書類の署名欄には、浩介の名前があった。 日付は、咲良が息を引き取った日だった。 そのとき私は病室のベッドのそばに膝をつき、咲良の手をどうしても離せずにいた。 浩介は姿を見せなかった。 けれど、咲良が亡くなったことは知っていた。 それなのに病室には来ず、献眼の書類には署名していた。 私は顔を上げ、浩介を見た。 「最初から、咲良の角膜を提供するつもりだったの?」 浩介は私と目を合わせようとしなかった。 「医者から、角膜は提供できる可能性があるって聞いたんだ。提供できるなら、誰かの役に立ったほうがいいだろ」 遺影を抱く手に力が入った。額縁の角が手のひらに当たり、じんと痛んだ。 「どうして私に何も言わずに決めたの?」 浩介は眉間にしわを寄せた。 「俺は咲良の父親だ」 思わず、笑いが漏れた。 咲良が生きていたころは、父親らしいことなんて何一つしなかったくせに。 咲良が初めて抗がん剤治療を受けた日、浩介は梨沙の家で翔太の誕生日を祝っていた。 咲良が高熱でけいれんを起こし、私が必死に電話をかけたとき、浩介は冷たく言い放った。 「翔太だって泣いてるんだ。咲良のことを理由に、いちいち俺を呼び戻そうとするな」 咲良が痛みに耐えきれず、ベッドの上で身をよじりながら「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」と聞いていたそのときも、薬を止めたのは浩介だった。 咲良が二度と目を開けなくなった今になって、父親面をするなんて。 私は目の前の書類を押し返した。 「同意しません」 担当者はわずかに驚いたようだったが、すぐにうなずいた。 「承知しました。では、献眼の処置は行いません」 浩介の顔が険しくなった。 「千尋、意地を張るな。咲良はもう死んでるんだぞ」 咲良はもう死んでいる。 その一言で、全部終わったことにするつもりなのだろうか。 生きている間は何もしてやらなかったくせに、今度はあの子に残った最後のものまで、勝手に差し出すつもりなのか。 私は浩介を見つめた。声がかすれた。 「そこまでして助けたいのは、誰なの?」 浩介は答えなかった。 そのとき、浩介のスマホが鳴った。 スマホを見た途端、浩介の表情が変わった。 着信画面には「梨沙」と表示されていた。 電話に出ると、梨沙の泣きそうな声がこちらにまで聞こえてきた。 「浩介、翔太がまた目が痛いって……手術、いつできるのってずっと聞いてくるの」 浩介はとっさに背を向けた。 「大丈夫だ。すぐ行く」 その声を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。 その瞬間、ようやくわかった。 角膜移植を待っていたのは、翔太だった。 だから浩介は、咲良の献眼にここまでこだわっていた。 咲良が最後まで待っていた薬は、とうとう届かなかった。 それなのに翔太のためなら、浩介は必要なものを何でも用意した。 そして今度は、咲良の角膜まで翔太に回ることを望んでいたのだ。 私はもう一度、書類へ手を伸ばした。 次の瞬間、浩介に手首をつかまれた。 「千尋、翔太はまだ子どもなんだぞ」 私は浩介を見上げた。 「咲良だって、まだ子どもだったよ」 手首をつかむ浩介の力が、一瞬だけ緩んだ。 私はその手を振りほどいた。 安置室は、息苦しいほど静かだった。 咲良は大好きだったピンクのワンピースを着て、静かに横たわっていた。枕元には白い花が供えられていた。 そのワンピースは、私が買ったものだった。 咲良はもったいないと言って、ずっと大事にしまっていた。パパが帰ってきたら着て見せるんだと、楽しみにしていたのに。 けれど浩介は、最後まであの子にちゃんと目を向けようとしなかった。 私はうつむき、提供には同意しないと改めて伝え、確認書に署名した。 手が震えて、名前を書くだけなのに何度もペン先が止まった。 書き終えた紙を見た途端、浩介の顔つきが変わった。 「後悔するぞ」 私は書類を担当者に返した。 「咲良はもう自分で嫌だって言えないから、私が代わりに断ります」 浩介は私を見た。 「翔太は角膜移植を待ってるんだぞ。それでも同意しないっていうなら、もう勝手にしろ」 そう言って、浩介は部屋を出ていった。 扉が閉まる音が、静かな部屋に響いた。 私は咲良の遺影を強く抱きしめたまま、追いかけなかった。 第2話 咲良を見送ったあと、私は遺影を抱いて家に戻った。 エレベーターを降りると、自宅の玄関前にいくつもの段ボール箱が置かれていた。 中には、咲良の小さなワンピースや絵本、クマのぬいぐるみが無造作に詰め込まれていた。お気に入りだった黄色いレインコートは片袖が箱からはみ出し、床に垂れて埃で汚れていた。 私はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。 部屋の中から、子どもの楽しそうな声が聞こえてきた。 「ママ、この部屋すっごく広い!僕、ここで寝たい!」 ドアを開けると、翔太が咲良のベッドの上で飛び跳ねていた。 梨沙はベッドの端に腰かけ、咲良の髪留めを手にしたまま、困ったような顔をしていた。 私に気づくと、慌てて立ち上がった。 「千尋さん……お帰りなさい」 そのとき、浩介がベランダから出てきた。手には合鍵があった。 「梨沙と翔太は、しばらくここに泊める。病院にも行きやすいしな。咲良のものは、とりあえず片づけてくれ」 私は浩介を見た。 「ここは咲良の部屋よ」 浩介は合鍵をテーブルに置いた。 「もう使わないだろ」 あまりにも平然とした言い方に、胸の奥が痛んだ。 梨沙はうつむき、目を潤ませた。 「やっぱり私たち、出ていったほうがいいんじゃない?千尋さんもつらいだろうし……」 浩介が眉をひそめた。 「その必要はない」 そう言って私を見ると、声を低くした。 「翔太は目の調子が悪い。そのせいで彼は不安になってるんだ。遺影や病院の書類なんか、目につくところに置くな」 胸に抱いていた遺影が、急にずしりと重く感じられた。 今にも腕から滑り落ちてしまいそうだった。 そのとき、翔太がベッドから飛び降りようとして足を滑らせ、ベッド脇の小さな棚にぶつかった。 はずみで写真立てが床に落ち、ガラスが音を立てて砕け散った。 咲良が4歳の誕生日に撮った写真だった。 中の写真は翔太の足元まで滑っていった。 驚いて一歩下がった翔太の靴が、ちょうど咲良の顔の上に乗った。 「翔太!」 梨沙はすぐに駆け寄り、翔太を抱き寄せた。 浩介も駆け寄った。 けれど、真っ先にしゃがみ込んで確かめたのは翔太の足だった。 「ガラス、刺さってないか?」 私は床にしゃがみ、写真を拾った。 割れたガラスで指先が切れ、咲良の笑顔のそばに血がぽたりと落ちた。 浩介がようやくこちらを見た。 「血をあちこち垂らすなよ。翔太が怖がるだろ」 私は顔を上げた。 「咲良は、あなたの娘なのよ」 浩介の顔つきが険しくなった。 私は黙って写真の汚れを拭った。 けれど、咲良の顔についた靴跡は、何度拭いても消えなかった。 翔太は梨沙にしがみつきながら、小さな声でつぶやいた。 「死んだ子が寝てたベッドなんて、僕やだ」 梨沙は慌てて翔太の口元を手で覆った。 「子どもの言うことだから……千尋さん、気にしないで」 私は立ち上がり、ベッドの上にあったクマのぬいぐるみを抱き上げた。 ずいぶん古びたクマで、片方の耳が少し破れていた。 咲良が3年間、ずっと大事にしていたぬいぐるみだった。 お腹には録音ボタンがついていた。 まだ字をうまく書けなかったころ、咲良はパパに伝えたいことがあるたび、そのボタンを押して声を吹き込んでいた。 パパの帰りが遅くても、これならちゃんと伝えられると思っていたのだ。 けれど浩介は、その声を一度も聞かなかった。 クマを見つけた翔太が、すぐに手を伸ばした。 「浩介さん、これ、僕にちょうだい」 私はぬいぐるみを抱えたまま、一歩下がった。 「だめ」 浩介はとうとう苛立ちを隠さなくなった。 「千尋、ただの古いぬいぐるみだろ」 「これは咲良のよ」 「咲良にはもう必要ない」 私は浩介をまっすぐ見つめた。 梨沙がそっと浩介の袖を引いた。 「もういいよ。翔太、これはやめておこう」 すると翔太は、すぐに泣きだした。 「やだ!だって浩介さん、この部屋はこれから僕の部屋だって言ったもん!」 浩介の表情が一瞬こわばった。 私は浩介を見た。 「……この部屋まで、渡すつもりだったの?」 浩介は私から目をそらした。 「ここは俺の家でもある。どの部屋をどう使おうが、俺にだって決める権利はあるだろ」 乾いた笑いが漏れた。 ここは、咲良がずっと帰りたがっていた家だった。 入院するたび、咲良はこの家と、パパとママと自分の絵を描いていた。 元気になって、またここへ帰る日をずっと夢見ていた。 それなのに、咲良を見送ったばかりだというのに、浩介はもうあの子の部屋を別の子に明け渡そうとしていた。 私は床に置かれていた段ボール箱を抱え上げた。 浩介が冷たく言った。 「今度はどこへ行く気だ」 私は振り返らなかった。 「咲良を連れて、ここを出る」 その夜、私は咲良の遺影を胸に抱き、遺品の入った段ボール箱を足元に置いたまま、マンションの敷地内のベンチで朝を迎えた。 夜勤の警備員さんが、紙コップに入った温かいお茶を差し出してくれた。 「もう部屋に戻ったほうがいいよ。外は冷えるから」 私は、上の階で明かりのついた窓を見上げた。 咲良が病気で苦しんでいたころ、あの部屋に咲良のための灯りがともることは、一度もなかった。 なのにその夜は、梨沙と翔太のために、朝まで灯りが消えることはなかった。 第3話 夜が明けるころ、夫婦で使っていた口座から600万円の振込が完了したという通知が、スマホに届いた。 銀行アプリを開くと、振込先には不動産会社の名が表示されていた。摘要欄には「住宅購入代金」とある。 その画面を見たまま、スマホを握る指が少しずつ冷たくなっていった。 母の形見のブレスレットを売り、結婚前に買ったマンションも担保に入れた。デザイナーとして働きながら貯めてきたお金まで、全部あの口座に入れていた。 いざというとき、咲良の治療に使うつもりだった。 咲良が入院したとき、浩介はこう言った。 「夫婦なんだから、金のことで疑い合うのはやめよう」 私は、その言葉を信じた。 咲良の遺影を抱え、タクシーで不動産会社へ向かった。 店に入ると、梨沙がソファに座って書類に署名していた。 浩介はその後ろから身をかがめ、梨沙の手に自分の手を重ねるようにして、書類への署名を手伝っていた。 あまりに親しげな様子に、胸の奥がずきりと痛んだ。 テーブルには不動産の売買契約書が広げられ、買主欄には梨沙の名前があった。その横には、翔太の入学に必要な書類まで置かれていた。 担当者がにこやかに声をかけた。 「水野様、よかったですね。桐谷様も翔太くんのことを本当に大切にされてますね。この辺りは学校が近いので人気ですから、いい物件は出てもすぐ決まってしまうんですよ」 梨沙はうつむき、照れたように笑った。 「この子、ほんと運がいいんです」 私は2人のところまで歩いていき、銀行アプリの振込履歴を開いたスマホをテーブルに置いた。 「浩介、これ……どういうこと?」 私を見るなり、浩介の顔が険しくなった。 「どうしてここがわかった?」 私は契約書を指さした。 「そのお金、私が入れた分も使ったの?」 梨沙の手からペンが落ち、テーブルの上を転がった。 「千尋さん、違うの。浩介が先に立て替えてくれただけで……翔太の入学まで時間がなくて。あとでちゃんと返すつもりだから」 私は浩介を見た。 「咲良の薬は、平気で後回しにしたのに?」 浩介は契約書を閉じた。 「もう払った」 「返してもらって」 「もう無理だ」 息が詰まった。 「亡くなる前の2週間、咲良は痛くて、夜もまともに眠れなかった。薬さえ続けられれば、次の治療法が決まるまでは何とか持ちこたえられるって、先生も言ってたのに」 浩介は苛立ったように眉をひそめた。 「千尋、いい加減、現実を見ろよ」 私は浩介を見据えた。 「何が現実なの?」 「咲良の病気は治らない」 まるで損得の話でもするように、浩介の口調は淡々としていた。 「治る見込みもないのに、金をつぎ込んで無理に治療を続けさせて、毎日注射を打たれて、吐いて、痛みに苦しむ。そんな思いをさせ続けるほうが、よっぽど残酷だろ」 手が震えた。 「咲良は生きたがってた」 浩介は少し黙ってから、低い声で言った。 「そう思いたかったのは、千尋のほうだろ」 私は思わず手を上げ、浩介の頬を叩いた。 乾いた音が店内に響き、周囲の視線が一斉にこちらへ向いた。 梨沙はすぐに浩介をかばうように前へ出て、涙をこぼした。 「千尋さん、やめて。浩介を叩かないで。家なんてもういらないから……全部、私が悪かったの」 浩介は梨沙を背後にかばい、冷たい目で私を見た。 「謝れ」 私は浩介を見返した。 「私が謝るの?」 「梨沙は、咲良の薬に使うはずだった金だなんて知らなかった」 「あなたは知ってたでしょ?」 浩介は何も言わなかった。 私はテーブルの上の契約書を手に取り、1枚ずつめくっていった。 すると、書類の間から保険の解約通知書が滑り落ちた。 契約者欄には浩介、被保険者欄には咲良の名前があった。 解約日は半年前。解約返戻金は720万円だった。 目の前が真っ暗になり、とっさにテーブルの角につかまって、どうにか倒れずに済んだ。 半年前、咲良の容体が初めて急変し、命が危ないと言われた。 私は診察室の前で浩介にすがり、治療費を何とかしてほしいと必死に頼み込んだ。 浩介は私を抱きしめて言った。 「心配するな。俺が何とかする」 私は、その言葉を信じていた。 まさか浩介の言う「何とかする」が、咲良にかけていた保険を解約することだったなんて。 しかも、その解約返戻金まで翔太のための家に回していた。 私はその書類を浩介の目の前に突きつけた。 「これも、咲良をこれ以上苦しませないためだったって言うの?」 浩介の顔色が変わった。 梨沙も慌てて口を挟んだ。 「千尋さん、私、本当に保険のお金だなんて知らなくて……」 思わず笑った。 「何も知らないのね」 私の娘の薬に使うはずだったお金で家を買ってもらったことも、浩介が咲良の薬を止めたことも。 そして咲良を見送ったその日に、あの子の角膜まで翔太に回ることを浩介が望んでいたことも。 私が詰め寄ると、梨沙は思わず後ずさった。 次の瞬間、浩介が私の手首をつかみ、強引に店の外へ連れ出した。 その拍子に肩がガラス扉にぶつかり、痛みで一瞬目の前が白くなった。 「千尋、いい加減にしろ」 私は浩介の手を振り払った。 「まだ終わってない」 自分の声とは思えないほど、かすれていた。 「浩介、あとどれだけ咲良の命をお金に換えたら、気が済むの?」 浩介は何も言わず、唇を固く結んだ。 「今はまともじゃないだろ」 私はうなずいた。 「娘が死んだのよ。まともでいられるわけないじゃない」 浩介は一瞬言葉を失った。 けれど、すぐに冷たい声で言った。 「もう梨沙と翔太に関わるな」 浩介の肩越しに店内を見ると、翔太がガラス越しにこちらを見ていた。 手には、不動産会社でもらった小さな鍵型のキーホルダーを握っていた。 咲良は死ぬまで、パパが薬を持って帰ってくるのを待ち続けた。 それなのに翔太はもう、新しい家の鍵をかたどったキーホルダーを、嬉しそうに握っていた。 第4話 私は病院へ向かった。 病院に着くと、まず窓口へ向かって、診療記録の開示を要求した。 本人確認書類と、咲良との関係がわかる書類を出すと、職員は内容を確認してから申請書を差し出した。 書類に目を通していた職員は、咲良の年齢に目を留めると、そっと声を落とした。 「まだ、小さなお子さんだったんですね……」 私は顔を上げず、そのまま申請書に名前を書いた。 手続きを済ませたあと、咲良の主治医だった佐伯直人(さえき なおと)のもとへ向かった。 私を見ると、直人は少し間を置いてから口を開いた。 「桐谷さん……このたびは、お悔やみ申し上げます」 私は保険の解約通知書と、夫婦で使っていた口座の取引明細を机の上に置いた。 「先生、咲良が亡くなる前の1か月に何があったのか、教えてください」 直人はすぐには答えなかった。 「診療記録については、手続きが済めば開示されます。ただ、治療を止めた経緯については……ご主人にも確認されたほうがいいと思います」 私はスマホの録音を始めた。 「娘が亡くなったんです。どうして亡くなったのかくらい、母親の私には知る権利がありますよね」 直人は眼鏡を外し、疲れたように目元を押さえた。 しばらくしてから、カルテの中から1枚のコピーを取り出した。 自由診療で続けていた治療を中止することに同意した書類だった。 そこには、浩介の署名があった。 日付を見た瞬間、息が詰まった。 咲良が亡くなる15日前だった。 あの日から亡くなるまで、咲良は毎日のように聞いていた。 「パパ、お薬いつ買って帰ってくるの?」 そのたびに、私は嘘をついた。 「もうすぐだよ。パパももうすぐ帰ってくるから。咲良を置いていったりしないよ」 直人の声が低かった。 「薬を続けていても、治ったとまでは言えません。ただ、少なくとも次の治療方針が決まるまでは、持ちこたえられた可能性はあります」 私は顔を上げた。 「どうして浩介は薬を止めたんですか?」 直人は視線を落とした。 「ご主人は、これ以上治療費を出すのは難しいと。それに、これ以上つらい治療を続けさせたくないともおっしゃっていました」 咲良の治療費は出せない。 そう言いながら、翔太のためなら人気の学区に家を買い、個室で治療まで受けさせていた。 そのとき、廊下から看護師の声が聞こえた。 「佐伯先生、水野翔太くんの明日の手術なんですけど、保護者の本人確認書類のコピーがあと1部足りません。桐谷浩介さんが、あとで持ってくるそうです」 翔太の名前を聞いた瞬間、指先に力が入った。 看護師がそのまま診察室へ入ってきたが、私を見るなり言葉を止めた。 抱えていたファイルがずれ、何枚かの明細が床に散らばった。 足元に落ちた1枚に目が止まった。 浩介が翔太の治療費として支払ったものだった。 個室料や術前検査、保険適用外の薬剤などで、合計632万円。 しかも、その支払いは咲良の薬が止められた翌日だった。 私が明細に手を伸ばすと、直人がすぐに止めた。 「桐谷さん、それ以上は見ないでください。水野くんの診療情報です」 けれど、明細から目を離すことができなかった。 「個人情報なのはわかってます。でも、咲良の薬を止めた翌日に、浩介は翔太のために632万円も払ってるんですよ」 声が震えた。 「これを見て、何も聞かずに帰れると思いますか?」 直人は何も答えなかった。 ほどなくして、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。 浩介だった。 病院から連絡を受けたのだろう。険しい顔でこちらへ歩いてきた。 「千尋、病院まで来て何やってるんだ」 私は治療を中止したときの同意書を、浩介の胸元に叩きつけた。 「どうして?」 浩介は私を見た。 「咲良は、もう十分苦しんだ」 「それでも、生きたがってた」 「俺は、助かる可能性があるほうを選んだだけだ」 一瞬、何を言われたのかわからなかった。 咲良は実の父親に、助ける価値がないと言われたようなものだった。 気づけば、私は浩介の胸元をつかんでいた。 「あの子は死ぬまで、あなたを待ってたのよ」 浩介の喉がかすかに動いた。 「あなたが帰ってきたとき、自分が寝てたら、また何も言わずに行っちゃうんじゃないかって、ずっと怖がってたの。ちゃんと薬を飲むから、もう置いていかないでってパパに伝えてほしいと言ってたのよ……」 浩介の目が一瞬揺れた。 けれど、そのときスマホが鳴った。 梨沙からだった。 浩介は私を押しのけ、電話に出た。 「梨沙、落ち着け。今、病院にいるから」 押された拍子に腰を椅子の肘掛けにぶつけ、しびれるような痛みが走った。 電話の向こうから、梨沙の泣き声が聞こえてきた。 「翔太が手術を怖がってて……ずっと浩介のこと呼んでるの」 浩介は一度目を閉じた。 「すぐ行く」 私は机に手をついて立ち上がった。 「浩介」 浩介はスマホを口元から離し、眉をひそめた。 「今度は何だ?」 「一度でも、後悔したことある?」 浩介はしばらく黙っていた。 「もっと早く治療をやめてやれば、あそこまで苦しませずに済んだとは思ってる」 その一言でわかった。 浩介はこの期に及んでも、自分が間違っていたとは思っていなかった。 ほどなくして、梨沙もやってきた。 浩介の隣に立ち、不安そうに私を見た。 「千尋さん、お願い。翔太はただ、ちゃんと見えるようになりたいだけなの。あの子は何も悪くないの」 「わかってる」 私は浩介を見た。 「翔太が悪いんじゃない。咲良をこんな目に遭わせたのは、あなたたちでしょ」 浩介の顔が険しくなった。 「今のお前とはまともに話ができない」 そう言うと、書類ケースから1枚の紙を取り出した。 私を精神科に入院させるための家族同意の書類だった。 そこには、すでに浩介の署名があった。 思わず笑いが漏れた。 「咲良の治療を止めるときも、献眼のときも、あなたが勝手に決めた。今度は私を精神科に入れるの?」 私は浩介を見上げた。 「私も咲良も、あなたが勝手に決めていいと思ってるの?」 浩介は答えなかった。 その代わり、廊下の向こうへ目をやった。 振り返ると、スタッフらしい2人がこちらへ近づいてきていた。 思わず後ずさり、背中が壁に当たった。 浩介が低い声で言った。 「一度、ちゃんと休め」 そのあと私は精神科で診察を受けさせられ、そのまま入院することになった。 娘を亡くしたばかりでひどく取り乱しており、このままでは人を傷つけるおそれがある――そう説明された。 浩介が家族として同意していたこともあり、私は3日間、病棟から出られなかった。 病室の窓は開かないようになっていて、スマホも預けさせられた。昼も夜も、近くにはスタッフがいた。 3日目の夜、交代のわずかな隙をついて病棟を抜け出した。 洗面所の小窓から外へ出ようとしたとき、割れたガラスでふくらはぎを切った。 血が足首まで流れていたけれど、不思議なくらい痛みは感じなかった。 病院へ行かなければ――それしか頭になかった。 病棟を抜け出す前、廊下で看護師が浩介に電話しているのを偶然聞いたからだ。 「桐谷さん、咲良ちゃんの献眼の件ですが、ご家族の同意が確認できたということで、手続きが進んでいます。水野翔太くんの術前書類も、今夜中にそろえてください」 病院に着いたころには、午前2時を回っていた。 眼科の手術室前は、深夜とは思えないほど明るかった。 梨沙は翔太を抱いて、椅子に座っていた。 翔太は目にガーゼを当て、痛いと泣いていた。 浩介はその前にしゃがみ、根気よくなだめていた。 「翔太、大丈夫だ。手術が終わったら、黒板もちゃんと見えるようになるから」 翔太はしゃくり上げながら聞いた。 「浩介さん、あの子は痛くないの?」 浩介は翔太の頭を撫でた。 「大丈夫だ。もう痛くないから」 廊下の端で、足が止まった。 私に気づいた梨沙の顔色が変わった。 「千尋さん……どうしてここに?」 浩介も振り返った。 私を見るなり、眉をひそめた。 私は2人のところまで歩いていった。 「手術、いつなの?」 浩介が前に出た。 「ここで騒ぐな」 私は浩介をまっすぐ見た。 「咲良の角膜、いつ取るの?」 梨沙は翔太を抱きしめたまま、涙をこぼした。 「翔太はもうずっと待ってるの。千尋さんだってお母さんでしょう? お願い、私の気持ちも少しはわかって……」 私は梨沙を見た。 「自分の子のことなら、母親の気持ちをわかってって言えるのね」 梨沙の表情が固まった。 「息子には、ちゃんと見えるようになってほしいんでしょ。私だって、咲良に生きていてほしかった」 声が震えた。 「それなのに、今度は咲良の角膜まで取るの?」 廊下が静まり返った。 そのとき、看護師が書類ケースを手に足早にやってきた。 「桐谷さん、水野翔太くんの術前書類なんですが、本人確認書類のコピーがあと1部必要です。それと、続柄の欄には実際のご関係をご記入ください。入院時の書類も訂正が必要です」 浩介の顔色が変わった。 「貸せ」 看護師はその強い口調に驚き、書類ケースを取り落としかけた。 何枚かの紙が床に落ち、私はしゃがんで一番上の1枚を拾った。 浩介が勢いよく手を伸ばしたが、もう遅かった。 移植を受ける患者の欄には翔太、保護者欄には浩介の名前があった。 そして続柄の欄には、はっきりと「父」と書かれていた。 浩介を見上げた瞬間、耳の奥がわんと鳴った。 浩介にも、ちゃんと父親らしいことはできたのだ。 ただ、その相手が咲良ではなく翔太だった。 咲良は最初から最後まで、翔太を優先するたびに切り捨てられる側だった。

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