花嫁すり替え、それでも春は来る

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花嫁すり替え、それでも春は来る

GoodNovel 完結

結婚式前夜、独身最後の夜のことだった。親友の小林知華(こばやし ともか)が、突然こんなことを言い出した。 「ねえ、コスプレごっこしない?」 ルールはシンプルだった。女子は新郎がいちばん好きな姿を、男子は新婦がいちばん好きな姿をそれぞれ再現する。 天城未知瑠(あまぎ みちる)と榊原和智(さかきばら かずとも)は学生時代から交際を始め、いよいよ結婚という節目を迎えようとしている。これまで何年も一緒に過ごしてきた。 和智をあっと言わせたくて、未知瑠はこっそり高校時代の制服を用意した。 けれど個室に着いたとき、和智はすでにすっかり酔い潰れていた。 ソファにひとりもたれかかり、目の前には空き缶がいくつも置かれている。 未知瑠は弾む足取りで近づき、身をかがめて笑顔で声をかけようとした。その瞬間、薄く目を開けた和智が、不意に未知瑠を引き寄せた。 和智は腕に力を込め、未知瑠の肩を強く抱きしめた。掠れた声で、穂月の名を繰り返し呼んだ。 「穂月……やっと来てくれた。 今夜だけ、そばにいてくれないか。来週式を挙げたら、もう二度と、こうして抱きしめることも、口づけることもできなくなるから!」 未知瑠の顔に浮かんでいた笑みが、そのまま凍りついた。 天城穂月(あまぎ ほづき)。それは、自分の姉の名前だった。

チャプター (1)

第1話

結婚式前夜、独身最後の夜のことだった。親友の小林知華(こばやし ともか)が、突然こんなことを言い出した。 「ねえ、コスプレごっこしない?」 ルールはシンプルだった。女子は新郎がいちばん好きな姿を、男子は新婦がいちばん好きな姿をそれぞれ再現する。 天城未知瑠(あまぎ みちる)と榊原和智(さかきばら かずとも)は学生時代から交際を始め、いよいよ結婚という節目を迎えようとしている。これまで何年も一緒に過ごしてきた。 和智をあっと言わせたくて、未知瑠はこっそり高校時代の制服を用意した。 けれど個室に着いたとき、和智はすでにすっかり酔い潰れていた。 ソファにひとりもたれかかり、目の前には空き缶がいくつも置かれている。 未知瑠は弾む足取りで近づき、身をかがめて笑顔で声をかけようとした。その瞬間、薄く目を開けた和智が、不意に未知瑠を引き寄せた。 和智は腕に力を込め、未知瑠の肩を強く抱きしめた。掠れた声で、穂月の名を繰り返し呼んだ。 「穂月……やっと来てくれた。 今夜だけ、そばにいてくれないか。来週式を挙げたら、もう二度と、こうして抱きしめることも、口づけることもできなくなるから!」 未知瑠の顔に浮かんでいた笑みが、そのまま凍りついた。 天城穂月(あまぎ ほづき)。それは、自分の姉の名前だった。 第1話 体が凍りついたように動かない。なのに和智は、慣れた様子で顔を寄せ、唇を重ねてきた。まるでこの触れ合いを、これまで何百回と繰り返してきたかのように。 込み上げる嫌悪感が全身を駆け巡る。 未知瑠は渾身の力で彼の腕を振りほどき、テーブルの上の冷えた酒の入ったグラスをつかむと、和智の顔面めがけて浴びせかけた。 そこへ、知華が足早に歩み寄ってきた。 「もういい加減にしてよ、未知瑠。まだ気づいてないの?和智がずっと好きだったのは、あんたのお姉ちゃんの穂月だよ」 未知瑠はその場に凍りついたまま、ゆっくりと辺りを見回した。 そこにいる女子たちは皆、姉の穂月が普段よく着ている服装や色合いを真似ていた。 息が震える。信じられない思いで、苦楽を共にしてきたはずの親友を見つめた。 「……どういうこと?」 知華の表情は平然としていた。スマホのアルバムを開くと、画面を未知瑠の目の前に突きつけてきた。 「高校の卒業旅行のとき、あんたにわざと嘘ついたでしょ。チケットが取れなかったって。本当は和智と穂月にふたりきりの時間を作ってあげたかったの。なのにあんた、空気を読まずに自分でチケット買って、無理やりついてきた」 未知瑠の頭の中で、ガンと音がしたような衝撃が走った。 あのとき未知瑠は、自腹でチケットを買い、喜んで駆けつけたのだった。到着したあと、妙に重苦しい空気が流れていた。皆で談笑していたのに、自分が近づいたときだけ、誰もが表情を強張らせ、言いようのない気まずさが漂っていた。 あれは、姉と和智だけの世界に、自分が土足で踏み込んでいたということだったのか。 知華は未知瑠の血の気の引いた顔など気にも留めず、話を続けた。 「大学時代、就活していたときもね、みんなで裏で相談してた。あんたを地方に送り出そうって。そうすればふたりが自然に一緒になれるから。なのにあんた、私のパソコンに残ってた地元の求人資料を勝手に見て、自ら応募してここに残ったじゃない。 そのあと家を買う話になったときも、遠回しに郊外エリアを勧めたのに。よりによって都心のあの物件を選んで。和智の近くにね」 未知瑠は手を伸ばし、乱暴に知華のスマホを伏せさせた。 涙はとっくに限界まで溢れそうになっていたが、必死に堪えて零れ落ちないようにした。目を赤くしたまま、震える声で口を開く。 「……なんで。この何年もの間、いくらでも正直に話すチャンスがあったじゃない…… 私が自分から身を引けばそれで済んだのに。どうしてこんなやり方で、何度も何度も私を騙し続けたの?」 知華は静かに未知瑠を見つめた。 「穂月は、あんたのためを思って、それに和智への未練を完全に断ち切るために、焦って結婚したんだよ。 でも結婚してからDVに遭って、結局離婚するしかなかった。もしまた妹の彼氏と関係を続けたりしたら、世間の風当たりが穂月を追い詰めちゃう。 あんたが和智と無事に結婚すれば、この先穂月が和智と関わっても、誰にも後ろ指をさされない。これは、穂月を守るためでもあるの」 未知瑠は唇を歪め、自嘲気味な笑いを漏らした。 長らく心待ちにしていたこの結婚は、最初から最後まで、あのふたりの秘め事を覆い隠すための隠れ蓑に過ぎなかったというわけだ。 ソファで泥酔して眠り込んでいる和智は、今もまだ、切れ切れに穂月の名前を呟き続けている。 個室が水を打ったように静まり返った、そのとき。ローテーブルに置かれた和智のスマホが、通知音を響かせた。 未知瑠はそれを手に取った。母からのメッセージだった。 【和智くん、安心してね。穂月も了承してくれたわ。結婚式当日は、未知瑠を家に閉じ込めておくから。穂月が代わりに式を挙げれば、あなたたちの叶えられなかった願いも、これで一応形になるでしょう】 全身から、力という力が一気に抜け落ちていった。 第2話 魂が抜けたように、未知瑠はふらふらと立ち上がり、騒がしい個室を出た。 背後から知華の声が追いかけてくる。 「送ろうか?」 未知瑠が首を横に振って断ろうとした、その矢先だった。 知華は聞く耳も持たず、まるで当然のように話を続けた。 「まあいいよ。私、今から穂月呼びに行くから。和智ってね、今夜はもう、頭の中は穂月のことでいっぱいでしょ。式の前くらい、ふたりを好きにさせてあげてもいいでしょ?あんたも気にしないよね?」 未知瑠の返事など待たず、知華はくるりと踵を返し、個室へ戻っていった。 深夜の街を、未知瑠はひとり歩いた。 遅れて押し寄せてきた悲しみと痛みに、未知瑠は何度もえずいた。 高校時代、大雨の日の下校時。皆が帰ったあとも、和智だけが大きな傘を差して校舎の入り口に立ち、まるまる30分も彼女を待っていてくれた。真っ先に傘を未知瑠の方へ傾け、そっと鞄を受け取ってくれた。 大学の頃、高熱にうなされた夜。街じゅうの薬局を何軒も駆け回り、彼女の部屋の前でずっと待っていてくれたのも和智だった。 就活につまずいて、道端でうずくまり泣き崩れたときも。彼は優しく未知瑠を抱きしめて、「俺がいる。俺はいつでもお前の逃げ場だから」と言ってくれた。 社会人1年目の誕生日には、手作りのケーキを用意して、「これから毎年、一緒に祝おう」と約束してくれた。 何年も寄り添ってくれた、そのすべてが演技だったなんて。あまりにもリアルで、あまりにも完璧で、長い間ずっと、自分を欺き続けていた。 涙がついに堪えきれず落ち、手の甲に当たって弾ける。凍えるほど冷たかった。 未知瑠は魂が抜けたまま前へ歩き続け、頭の中は真っ白だった。 眩しいヘッドライトが視界を照らし、耳を突き刺すようなブレーキ音が響いて、ようやく我に返った。 車の窓が下り、運転手が顔を出して怒鳴りつけてくる。 彼女は呆然としたまま、反射的に数歩後ずさった。 顔を上げた瞬間、心臓がずんと沈んだ。 目の前にあったのは、荷台を透明なカバーで覆ったトラックだった。その中には、真新しい限定モデルのスポーツカーが収められていた。 透明なケースの外側には、金文字で大きくこう書かれていた。 【穂月、27歳の誕生日おめでとう。お父さんとお母さんは、あなたがずっと健康で幸せでいることを願っています】 その眩しさに、目を背けたくなった。 ふと、未知瑠は自分の誕生日のことを思い出した。 物心ついたときからずっと、両親から届くのは決まってPayPayで送られてくる5000円ぽっちと、投げやりで冷たい【誕生日おめでとう】のひと言だけだった。 毎年、それだけ。一度たりとも変わらなかった。 道端でしばらく立ち尽くしたあと、彼女は心が空っぽになったまま踵を返し、家路についた。 ドアを開けると、母が顔を上げ、未知瑠を見るなり責めるような言葉を浴びせてきた。 「もうすぐ結婚するっていうのに、こんな遅くまで外で何してたの。お酒まで飲んで。だらしないったら」 彼女が口を開く間もなく、母は思い出したように付け加えた。 「そうだ、ウェディングドレス届いてるから。あなたの部屋に置いといたわ。時間あるうちに試着しときなさい、何か問題があったら困るから」 喉の奥がひりついた。それでも最後の淡い期待にすがるように、未知瑠は小さな声で尋ねた。 「お母さん……今年の誕生日プレゼントは?」 母は一瞬きょとんとしたあと、どうでもよさそうに手を振った。 「和智くんと無事に結婚できること、それがあなたの人生でいちばんのプレゼントでしょう。穂月がどれだけ苦労してきたか、あなただって分かるでしょ?贅沢言わないの」 未知瑠は唇を歪めただけで、それ以上何も言わず、自分の部屋へと戻った。 真っ白なウェディングドレスが、静かにベッドの上に広げられていた。 けれどよく見れば、裾の縁にはしわが寄り、ヴェールは乱れ、ウエスト部分には誰かが試着したような跡までくっきりと残っていた。 未知瑠は力の入らない手を伸ばし、そのドレスをゆっくりと身にまとった。 鏡の前に立ち、鏡に映る自分を静かに見つめる。 姉の穂月と自分は、目元や眉のあたりがよく似ている。 ふと、頭の中がぼんやりと霞んだ。 これまでの長い年月、彼は未知瑠の顔の向こうに姉の面影を見ながら、少しでも未知瑠自身に本物の気持ちを抱いたことがあったのだろうか。 未知瑠は勢いよく手を振り上げ、その手を目の前の鏡に思い切り叩きつけた。 バリンッ。 鋭い破片が手のひらを切り裂き、真っ赤な血が瞬く間に溢れ出す。指先を伝って滴り落ち、真っ白なドレスの裾に飛び散った。 物音に驚いた両親が、慌てて部屋のドアを開けて入ってきた。 父は床に散らばったガラスの破片を一瞥し、眉をひそめた。 「理由もないのに、また何を騒いでるんだ」 母もすぐに顔色を変えたが、その視線が真っ先に向いたのは、ドレスの裾に散った赤い血の染みだった。気に留める様子もなく無造作に手を振った。 「あら、いいじゃない、ちょうどいいわ。穂月が今日ドレス見に行って、このデザインあんまり気に入らなかったって言ってたのよ。明日また新しいの注文しに行きましょう」 そう言いながら、ようやく娘の真っ青な顔に気づいたのか、一瞬言葉を止め、慌てて付け足した。 「あなたの結婚式とはいえ、穂月の意見も大事なのよ。あなたは黙って従っておけばいいの。親が娘に悪いようにするわけないでしょう」 そう言い終えると、ふたりとも、今もまだ血が流れ続ける未知瑠の手には一瞥もくれず、そのまま部屋を出ていった。 未知瑠はその場に立ち尽くしたまま、涙はもう涸れ果てていたのに、胸の中の穴だけがどんどん大きくなっていくのを感じていた。 スマホを手に取り、迷うことなく、退職届を提出した。 この街には、もう一秒たりともいたくなかった。 第3話 翌朝目覚めると、スマホの上部に未読メッセージが2件、静かに並んでいた。和智から、明け方に届いたものだった。 【愛してる】 【長い年月がかかったけど、俺たちついに結ばれたな】 その2行を、未知瑠はじっと見つめた。明け方の熱っぽい愛の言葉なんて、大方、穂月と睦み合ったあとの高揚感のまま、気休め程度に未知瑠へ送ってきただけなのだろう。 ふたりが同じベッドで肌を重ね、睦み合う光景を思い浮かべると、胃の中がひっくり返るような吐き気が喉元まで込み上げてきた。 彼女は無表情のままトーク画面を閉じ、寝室を出た。 寝室のドアを開けた瞬間、リビングのソファに座る和智の姿が目に入った。 彼はすぐに彼女の手のひらの傷に気づき、立ち上がって早足で歩み寄ってきた。 「その手、どうしたんだ?」 彼は未知瑠の傷ついた手首をそっと握り、申し訳なさそうな声で言う。 「昨日は飲みすぎて、色々よく覚えてないんだ。悪かった。結婚したら、もう二度とこんなことしないから」 未知瑠はわずかに口元を歪めたまま、彼が薬を取り出し、身をかがめて手のひらの傷を手当てするのを、されるがままにしていた。 穂月はソファに静かに腰かけたまま、ふたりの触れ合う手にじっと視線を注いでいた。その瞳の奥には、拭いきれない寂しさが揺れていた。 母はそんな穂月の様子を見ていられなかったのか、慌てて話題を変えた。 「はいはい、ただの小さな怪我でしょう。未知瑠は昔からおっちょこちょいなんだから。和智くん、今日の試着と前撮りの流れ、もう分かってるわよね?」 和智の手が、薬を塗る途中でふと止まった。顔を横に向けて、曖昧に返事をする。 未知瑠は手を引き抜き、うつむいて、自分の手のひらに残る、半分だけ薬を塗られた傷を見つめた。 乾いた笑みをこぼしただけで、それ以上何も言わず、立ち上がって洗面所へ向かった。 身支度を整えると、そのまま玄関を出た。 和智の車が門の前に停まっていた。彼女はためらいなく後部座席のドアを開け、身をかがめて乗り込んだ。 バックミラー越しに未知瑠を見た和智が、意外そうに片眉を上げた。 「昔はいつも穂月と助手席取り合ってたのに、今日は随分と素直なんだな」 未知瑠は何も答えなかった。 昔は毎回、彼女が嬉々として助手席のドアを開けようとすると、和智は決まって理由をつけて姉をそちらに座らせた。 「穂月は今日ヒールだから、後ろだと座りにくいだろ」 「穂月は少し車酔いしてるから、譲ってあげて」 「後ろの方が広いから、お前は後ろでゆっくり休んでろ」 本来、恋人である自分が座るはずだったその席に、長年座り続けてきたのは、いつだって姉の方だった。 昔の未知瑠は、自分を愛しているからこそ、自分の家族まで大切にしてくれているのだと思い込んでいた。 けれど今はもう、すべてを理解してしまった。これ以上、自ら惨めな思いをしに行く理由なんて、どこにあるだろう。 未知瑠は目を伏せ、何気なく車内のバックミラーに視線を走らせた。 鏡の中に映っていたのは、和智の首筋に浮かぶ、いくつかの薄赤い痕だった。 彼女は反射的に目を逸らした。心の底まで、冷え切っていくのが分かった。 店に足を踏み入れた瞬間、店員たちは一斉に穂月の周りに集まった。 華やかなウェディングドレスを次々と手に取っては、穂月の前で当てながら、口々に質問を投げかけている。 和智は少し後ろに取り残された未知瑠に気づくと、人だかりを離れて彼女の前まで歩み寄ってきた。 「気に入ったデザイン、あった?」 未知瑠は彼を見つめ、一瞬、ぼんやりとした。 まるで、これまでの記憶が一気に蘇ったかのようだった。誰もが目を姉に向ける中、和智だけは、いつも取り残された自分の方を見てくれていた、そんな錯覚に。 和智の眉間に皺が寄り、視線が彼女の頬に留まった。 「どうしたんだ、その頬。じんましんみたいに真っ赤になってるぞ」 ちょうどそのとき、両親が浮かれた様子で足早にやってきて、和智の腕を引きながら、スーツの試着を急かした。 「早くあのスーツに着替えてきなさい。穂月のドレスとぴったり合うのよ」 そう言い終えたところで、母はようやく未知瑠の赤くなった顔に気づいたのか、眉をきつく寄せた。 「またアレルギー?まったく、体弱いんだから」 母は少し考えてから続けた。 「まあ、あなたと穂月、体型が似てるし、いっそ穂月に試着も前撮りも代わってもらえばいいわね。あとで顔だけあなたに差し替えて加工すればいいし。あとで病院にでも行きなさい」 未知瑠は唇を微かに動かしたが、何も言わなかった。 それを見た和智が、手を伸ばして彼女の手首をつかんだ。 「どうしたんだ、今日ずっと様子おかしいぞ。昨日の夜、俺なんかしたか?」 積もり積もった悔しさと無念さが、喉元まで一気に込み上げてきた。あと少しで、すべての疑問を叩きつけてしまいそうだった。 けれど、まさにその瞬間。純白のウェディングドレスに着替え終えた穂月が、ゆっくりと歩み寄ってきた。 長い裾を床に引きながら、優雅な足取りで。 和智の意識は瞬時にそちらへ吸い寄せられ、無意識のうちに未知瑠の手首を握る手が緩んだ。視線はもう、穂月に釘付けだった。 未知瑠はうつむいて、離された自分の手首を見つめた。顔を上げたときにはもう、和智は穂月のそばまで歩み寄り、わずかに首を傾げて彼女の話に耳を傾けていた。 未知瑠は目を細めた。ふと、この光景を、もう千回も経験してきたような気がした。 いつだって、彼が彼女の手を離して、別の誰かの方へ歩いていく。 ただ違うのは、以前の未知瑠は彼の気持ちがいつか自分に戻ってくると信じていたということ。 けれど今の彼女は、もう二度と、自分から惨めな思いをしにいくつもりはなかった。 未知瑠は踵を返し、まっすぐに出入り口へと向かい、店を後にした。 第4話 スマホが震えた。不動産仲介からのメッセージだった。 【天城様、売却に出されたお部屋、お客様が立地とリフォームをとても気に入っています。 一応確認させてください。本当に急いで手放すおつもりですか?こちらは新居だと伺いましたが、こんなに綺麗にリフォームされたのに、もったいないですよ】 未知瑠は感情を交えず、短い返信を送った。 【ええ、売ります】 仲介からすぐに返信が来た。 【ではその後の手続きはこちらで進めさせていただきますね。内覧はいつから可能となりますか?】 【明後日。お客様をお連れして、直接向かっていただいて構いません】 送信ボタンを押すと同時に、彼女は抗アレルギー薬を2錠、口に放り込んだ。 このマンションは、未知瑠が一から心を込めて整えた新居だった。 けれどもう、その必要はなくなった。 タクシーでマンションに乗り付け、暗証番号を押して中に入る。ドアを開けた瞬間、思わず眉をひそめた。 リビングのソファには、穂月の服が無造作に散らばっている。 吟味して特注し、靴箱の上に綺麗に並べておいたペアのルームシューズは、リビングのラグの端へと無造作に蹴り飛ばされていた。 ローテーブルには穂月の好む菓子が散乱し、ベランダには彼女の下着が干され、浴室にはスキンケア用品が並んでいる。 未知瑠は靴を脱ぎ、冷たいフローリングをゆっくりと歩きながら、部屋を見渡した。心の底が、しんと冷え切っていくのが分かった。 家の防犯カメラの管理画面を開き、この1か月分の映像を呼び出す。 週末のたびに、そして残業だと言っていた夜のたびに、和智は決まって穂月を伴い、この部屋へ帰ってきていた。 ふたりで料理をし、ソファに寄り添って映画を観て、肩を並べて新居の飾り付けをする。その仲睦まじい様子は、まるで本物の新婚夫婦そのものだった。 なるほど。彼の言う「忙しい」とは、ここに身を潜め、姉とふたりきりで過ごすことだったのか。 未知瑠は無表情のまま、すべての映像データをコピーして保存し、それから黙々と、自分以外の痕跡を片付け始めた。 午後。玄関口から、電子錠の解錠音が鳴り響いた。 片付けの手を止め、ドアを開ける。 和智、穂月、知華、それに長年付き合いのある共通の友人たちが、廊下いっぱいに立っていた。 裸足で部屋の中に立つ未知瑠を見て、全員が一斉に固まった。顔に浮かんでいた笑みが、瞬時に凍りついた。 和智の目に一瞬動揺が走ったが、すぐに取り繕い、静かに言い訳を始めた。 「穂月はな、最近住むところがなくて、少しの間だけここに泊まってもらってるんだ。今日は友達を連れて、結婚式の段取りを確認しに来た」 知華がすぐに口を挟み、場を取り繕う。 「そうそう、今日はね、当日の余興のリハーサルに来たのよ。式当日にミスがあったら困るから」 未知瑠は目の前に立つ、長い間ずっと自分を欺き続けてきたこの人々を見つめ、ゆっくりと苦笑を浮かべた。 よかった。 もし今日、自分がここに来なかったら。この部屋を売る決心をしていなかったら…… 自分は一生、この惨めな茶番に気づかないままだっただろう。 その場の全員が気まずそうに目配せを交わし、そそくさと部屋の中に入って、余興の練習を始めることになった。 そのまま、余興としていくつかのゲームを始めることになった。 ひとつ目は、手だけで花嫁を当てるゲーム。 ルールは単純。目隠しをして手だけで触り、その場にいる中から自分の花嫁を探し当てるというものだ。 和智が目隠しをされ、友人たちが順番に手を差し出す。 彼の指先はすべての手をなぞったが、迷う様子は一切なく、まっすぐに穂月の手首を掴み取った。そして低く優しい、確信に満ちた声で告げる。 「お前だ」 満面の笑顔で目隠しを外し、真っ先に視線を穂月の顔に向ける。けれど視界の端に、無表情で立つ未知瑠の姿を捉えた瞬間、その笑みが凍りついた。 和智は慌てて手を離し、気まずそうに取り繕った。 「道理で、手の感触がそっくりだと思った。さすが実の姉妹だな、一瞬分からなかったよ」 ふたつ目のゲームは、相性クイズ。 「相手のいちばん好きな料理と、苦手な食材は?」 和智はすぐさま答えた。 「甘辛い味付けの親子丼だろ。三つ葉と玉ねぎ抜きで」 未知瑠がいちばん好きなのは、あっさりした料理。甘辛い味付けの親子丼はむしろ苦手だ。 そして三つ葉と玉ねぎが苦手なのは、穂月の方だった。隣で知華がすかさず取り繕う。 「はははっ、よくあることだよ!和智、ずっと結婚式の準備で忙しかったんだから、勘違いくらい普通だって!次、次いこ!」 3つ目のゲームは、思い出エピソードクイズ。 ルールは、いくつかの思い出の品を並べ、それにまつわるふたりだけのエピソードを素早く答えるというもの。 友人が道具を並べる。当時の映画の半券、手編みのミサンガ、名前を刻んだ万年筆。 和智の視線が手編みのミサンガに落ちた。ほとんど考える間もなく、すらすらと語り出す。 「高校の学園祭の日の夜、穂月が徹夜して編んでくれたんだ。二度も失敗しながら」 言い終えた瞬間、はっと我に返り、慌てて取り繕う。 「……っ!今日は出るとき慌ててて、物を取り違えたみたいだ」 未知瑠の胸が、息もできないほど締めつけられた。 今日行ったゲームはどれも、未知瑠自身がひとつひとつ選んだものだった。彼がすぐに自分だと気づいてくれることを願って。 なのに結局、全部が彼と姉との甘い思い出話にすり替わっていく。 もう1秒たりとも、そこにいられなかった。 未知瑠は堪えきれずに踵を返し、勢いよくドアを押し開けて部屋を飛び出した。 第5話 余興の練習をひとしきり終えた一同は、食事に行く店を相談し始めた。 マンションの下まで降りたところで、穂月がふと足を止め、服の裾をきゅっと握った。 「しまった、ブレスレット、リビングのテーブルに忘れてきちゃった。大事なものなのに」 和智が上階の窓を振り返り、それから未知瑠に目を向けた。 「未知瑠、悪いけど、取ってきてくれないか。穂月は暗証番号を知らないし、お前の家だから、その方がいいだろ」 未知瑠はその場に立ち止まったまま、彼を一瞥した。 分かっていた。自分が上に行っているわずかな時間で、ふたりは抱き合うのかもしれない。式の前の慰めの言葉を交わすのかもしれない。あるいは、彼女が聞いてはいけない約束を交わすのかもしれない。 けれど未知瑠は何も言わず、ただ小さく頷いた。 ちょうど自分も、新居全体の写真を何枚か撮って仲介に送るつもりだったからだ。 未知瑠は踵を返し、エレベーターで上階へ戻った。 暗証番号を押した直後。背後から凄まじい力で腕を掴まれ、体ごと壁に叩きつけられた。 ドンッ、という鈍い衝撃音とともに、目の前に火花が散ったように視界が白く飛んだ。 「このクソ女が!」 我に返る間もなく、頬に平手が飛んできた。頭が大きく傾ぎ、口の中に生臭い血の味が広がる。 「離婚した途端に次の男を作りやがって。俺の目を盗んで浮気しやがって、恥知らずにも程があるだろうが!」 そこでようやく、目の前の男の顔が見えた。 血走った目、酒の匂いをまとわせた男。穂月の元夫だ。あの、日常的に暴力を振るっていたという男だった。 未知瑠はやっとの思いで身を起こし、口の中に鉄の味を感じながら、締めつけられた喉から声を絞り出した。 「人違いです……私は、穂月じゃないっ」 男は一瞬呆けたが、すぐに彼女の首を掴んで壁に押しつけ、歯を食いしばりながら唸った。 「まだ俺を騙す気か?お前が2日前、自分でうっかり漏らしたんだろうが。今夜このマンションに来るってな。じゃなきゃこの俺が、待ち伏せなんてできるわけないんだよ!」 締めつけられ息もできないまま、未知瑠は爪を男の手の甲に食い込ませた。男は痛みに手を離すと、すぐさま反対の手で再び平手を打ちつけてきた。 体ごと吹き飛ばされ、床に倒れ込む。後頭部がテーブルの角にぶつかり、そこから生温かい血がじわりと滲み出し、首筋を伝った。 男は足を振り上げ、彼女の体を蹴りつけてくる。 床に丸まったまま、震える指でポケットのスマホを探り当て、和智の番号にかけた。 呼び出し音もほとんど鳴らないうちに切られた。 男は荒い息を吐きながらしゃがみ込み、未知瑠の髪を掴んで半ば無理やり引き起こすと、もう片方の手でポケットから折りたたみナイフを取り出し、首筋に突きつけた。 「まだ人を呼ぶ気か?」 未知瑠は唇を動かし、絞り出すように言った。 「もう一度言う。私は穂月じゃない。妹の未知瑠だっ!」 一方、下で待っていた和智は、いつまでも降りてこない未知瑠に不安を覚え、穂月を連れて引き返してきた。 ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、息も絶え絶えに床へうずくまる未知瑠と、狂気じみた表情でナイフを構える見知らぬ男の姿だった。 和智は真っ先に飛びかかっていった。 「離せ!」 男の腕を掴んで動きを封じようとしたが、男は体格に勝り、和智を強引に振りほどく。その勢いでナイフの刃が未知瑠の首筋をかすめ、鮮やかな血の筋が瞬時に浮かび上がった。 痛みに、未知瑠の体が大きく震えた。 男は刃の向きを変え、まっすぐドアの前に立つ穂月へと突きつけた。 「なるほどな、だからさっきから人違いだって言ってたのか!本物はこっちにいたのか!」 和智はよろめきながらも体勢を立て直し、両腕を広げて穂月を自分の背後にかばった。 混乱の中、和智は背後にかばった女性を未知瑠だと思い込み、床に倒れている未知瑠を穂月だと勘違いしたまま、鋭く怒鳴りつけた。 「もういい、穂月!これ以上ふざけるのはやめろ!」 「まだ妹に罪をなすりつける気か!妹まで巻き込むつもりか!」 男は背後にかばわれた穂月と、足元で血まみれになって丸まる未知瑠を交互に見やり、口の端を歪めて不気味な笑いを漏らした。 「クソ女が、まだ俺を騙そうってのか!」 完全に激高した男は、手にしたナイフを振りかぶり、未知瑠の喉めがけて突き下ろした。 未知瑠は歯を食いしばり、残る力を振り絞って横に転がりながら、同時に男の手首を死に物狂いで掴んだ。 ふたりで床の上を転げ回りもみ合ううち、指先がテーブルの脚の近くで割れたガラスの破片に触れた。その鋭い縁を握りしめ、力の限り男の肩に突き立てた。 男が絶叫し、よろめきながら後ろに下がる。ナイフがカランと音を立てて床に落ちた。 そのとき、警察が踏み込んできた。すぐさま男を組み伏せ、うつ伏せに押さえ込むと、手首に手錠をかけた。 階下ではまだサイレンが鳴り響き、室内は散乱したガラスの破片と血痕で凄惨な有様だった。 和智の体がびくりと震え、ようやく我に返ったように、よろめきながら未知瑠のそばへ駆け寄ってしゃがみ込んだ。 そこでようやく、自分が守った相手が穂月で、床に倒れているのが未知瑠だったと気づいた。 抱き起こそうと手を伸ばしながら、彼女の名前を呼んだ。 「……未知瑠!」 声はかすれて、ほとんど聞き取れないほどだった。 「俺は……ふたり同時に傷つけたくなかったんだ。さっきの状況じゃ、俺には片方しか守れなかった……本当に、これ以上誰かが傷つくのが怖かったんだ」 未知瑠は血だまりの中で半分目を閉じたまま横たわり、彼を見ることもせず、答える力さえ残っていなかった。 救急隊員が担架を抱えて駆け込んできて、慎重に彼女を担架へ移した。 運び出される途中、壁際で居心地悪そうに立ち尽くす穂月のそばを通り過ぎる瞬間。未知瑠は血にまみれた手を必死に持ち上げ、震える指先で、穂月の袖口をそっと掴んだ。 穂月の体が、びくりと強張った。 未知瑠は残る力を振り絞り、言葉を吐き出した。 「お姉ちゃん……あの人、どうして私のこの部屋の住所を知ってたの?」 第6話 答えは返ってこなかった。未知瑠はそのまま救急隊員によって救急車へ運び込まれた。 しばらくして、両親が慌ただしく病院に駆けつけてきた。 ふたりはベッドの脇まで駆け寄り、その目には一瞬、痛ましげな色がよぎった。 けれど次の瞬間、母は胸を撫で下ろしながら怯えたようにため息をつき、涙まで浮かべて言った。 「ケガしたのがあなたでよかった……穂月じゃなくて、本当によかったわ!彼女は体が弱いのに、こんな殴られ方や刃物沙汰、どうやって耐えられるっていうの!」 父も横で頷き、心底気の毒そうな顔をした。 「そうだな、穂月が前の結婚生活でどれだけ苦労してきたか、考えるだけで胸が痛む。あの子の人生は本当に大変だったんだから」 隣で処置をしていた看護師が、さすがに聞き捨てならなかったのか、手を止めて口を挟んだ。声には隠しきれない怒りが滲んでいた。 「お母さん、今ベッドに横たわって全身傷だらけで、命の危険まであったのは下のお嬢さんの方ですよ。それなのに、上のお嬢さんじゃなくてよかったなんて、よく言えますね」 母はその場で固まり、気まずそうな表情を浮かべた。 その負い目とやらを埋め合わせるつもりなのか、母は自ら申し出て、未知瑠の入院中の一週間、毎日食事を差し入れると言い出した。 けれど丸一週間、届けられた食事はすべて穂月の好みの味付けばかりで、未知瑠が食べられるものはひとつもなかった。 食事のたびに母は病室に居座り、隣に座る穂月に優しくおかずを取り分けながら、そっと慰めていた。 「穂月、あなたが気に病むことじゃないのよ」 一週間の療養を終え、未知瑠は退院して家に戻った。 結婚式当日。母が湯気の立つお吸い物の椀を持って、未知瑠の部屋に入ってきた。 三つ葉と麩の入った、やさしい味のお吸い物。未知瑠が子供の頃からずっと好きだったものだ。 母がわざわざこれを作ってくれるのは、一年に一度あるかないかの、ごく稀なことだった。 椀を差し出しながら、母は優しい声で言った。 「未知瑠、これ飲みなさい。飲み終わったら、今日は笑顔でお嫁に行くのよ。これからは新しい家庭を築いていくんだから」 未知瑠はためらうことなく椀を口元へ運び、最後の一口まで飲み干した。 飲み終えるのを見届けると、両親は目を見交わし、揃ってそっと安堵の息を吐いた。 数分後、彼女は睡眠薬が効いてきたふりをして、わざと目を薄く伏せ、体をふらつかせながら、力尽きたようにベッドの縁へゆっくりと崩れ落ち、完全に意識を失ったふりをした。 ふたりは「眠り込んだ」未知瑠を慎重に奥の寝室へ運び、外から鍵をかけた。 未知瑠はぱっと目を開けると、素早く体を横に向け、ベッドの縁に伏せて、口の中に残っていた汁を残らずゴミ箱に吐き出した。 ドア越しに、外の物音がはっきりと聞こえてきた。 母の、慌ただしくも弾んだ声。 「早く、穂月、急いでドレスに着替えて。時間が迫ってるわ、段取りを遅らせちゃだめ」 穂月が、どこか落ち着かない小声で尋ねる。 「でも……もし未知瑠が目を覚まして、私が代わりに行ったって気づいたら、どうするの?」 そのとき、ドアの向こうから和智の声が響いた。 「最後にこれくらい、俺たちのわがままを許してくれよ。結婚したらちゃんと埋め合わせするから。彼女への説明は俺がなんとかする。あいつは優しいから、きっと許してくれる」 数人の足音が遠ざかっていき、階下に賑やかな喧騒が戻っていった。 未知瑠は手を伸ばし、ずっと録音し続けていたスマホを取り、停止ボタンを押した。 鍵開け業者に電話をかけ、冷静に住所を告げる。 待つ間のわずかな数分、不動産仲介とのトーク画面を開き、静かにメッセージを送った。 【本日いつでも内覧にいらしてください。暗証番号はリセットし、0を8桁に設定してあります】 鍵開け業者が到着し、素早い手際で鍵を開けた。 作業を終えると、業者はスマホ決済で代金を受け取りながら、部屋の中で佇む未知瑠を思わずちらりと見やった。階下からかすかに、結婚式へ向かう賑やかな声が響いてくる。業者はたまらず、感慨深げに呟いた。 「今日はお祝い事みたいなのに、あんたをひとりきりで閉じ込めるなんて。珍しいこともあるもんだな」 未知瑠は指先を一瞬止め、ただ小さく頷いた。 空港へ向かうタクシーの中。 未知瑠はスマホのアルバムを開いた。 防犯カメラの映像。穂月の元夫による傷害事件の一部始終を収めた録音。結婚式当日に花嫁をすり替える計画を話し合った録音。 指先で軽くタップし、送信先を選ぶ。「親族のグループトーク」、「結婚式当日準備・全員グループ」 彼女は無表情のまま、すべてのグループをひとつずつ退出し、両親、和智、穂月、知華、全員の連絡先をブロックした。 陽射しが未知瑠の体に降り注ぐ。スーツケースを引きながら、澄み渡る青空を見上げた。 …… 一方その頃、和智たちを乗せた車が、新居のマンション前に到着していた。 今日の予定では、穂月はこのマンションで身支度を整えたあと、和智たちと一緒に式場へ向かうことになっていた。 和智はエントランスへ進むと、慣れた手つきで以前使っていた暗証番号を入力した。 だが、短いエラー音が鳴る。 眉をひそめ、もう一度入力してみたが、やはり開かない。 登録していた指紋認証も試したが、反応はなかった。 背後で一緒に来ていた友人たちも、次第に落ち着かなくなってくる。 「おい、このままだと式に遅れるぞ!」 和智が未知瑠に電話をかけようとした、そのとき。 人だかりの外から、丁寧な声が割って入った。 「すみません、少し通してください。内覧です」 不動産仲介が客を連れて、戸惑う一同の間をまっすぐに通り抜け、ドアの前に立った。 呆然と見守る全員の視線の中、慣れた手つきで手早く暗証番号を打ち込む。 ピッ。 ドアが、音を立てて開いた。

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