酒は寝かせる、愛は寝かせない

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酒は寝かせる、愛は寝かせない

GoodNovel 完結

朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。 彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。 5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。 「急がば回れ」は彼の口癖だった。 交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。 婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。 両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。 私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。 医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。 私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。 信号無視によって出された青切符を見るまでは。 どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。 昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。 販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。 「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。 昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです…… 10キロもある道のりなのに」 私は切符を見つめた。 胸の奥が引き裂かれていくようだった。 もういい。 彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。

チャプター (1)

第1話

朝倉蓮(あさくら れん)はワイン醸造家だ。 彼は、何をするにも酒造りと同じで、じっくり時間をかけるべきだと信じている。 5年間の恋人生活で、私――高瀬真帆(たかせ まほ)が蓮を必要としたときに、彼が間に合ったことは一度もなかった。 「急がば回れ」は彼の口癖だった。 交際5周年の旅行。彼が空港に現れるのがあまりに遅れたせいで、私が3年も楽しみにしていた北欧のオーロラを見逃した。 婚約の席では、彼がホテルに現れるのがあまりに遅すぎたせいで、すべての段取りが台無しになっていた。 両親は何度も頭を下げ、親戚や友人一人ひとりに謝り続けた。 私が40度の高熱を出したときも、彼の帰宅はあまりに遅すぎた。 医師には、あと少し遅れていたら、脳に一生残る障害が出ていたかもしれないと言われた。 私は、それも彼の職業柄なのだと思っていた。 信号無視によって出された青切符を見るまでは。 どの違反区間も、蓮が水野紗季(みずの さき)の家へ向かうときに必ず通る道だった。 昨日、ワイナリーへ蓮を訪ねたときのことを思い出した。 販売担当の紗季が、首をかしげながら私のそばへ寄ってきた。 「真帆さん、羨ましいです。蓮さんって、本当に優しいですよね。 昨日、うちが停電して一人で怖がってないか心配してくれて、5分で駆けつけてくれたんです…… 10キロもある道のりなのに」 私は切符を見つめた。 胸の奥が引き裂かれていくようだった。 もういい。 彼がそんなつもりなら、私も待つのをやめよう。 第1章 着替えを済ませてクローゼットを出ると、蓮からLINEが届いていた。 【家にある酒造技能検定の資料、持ってきてくれ。紗季が使うから】 【返事は?あまり待たせるんじゃない】 …… わずか1分の間に、蓮から十数件ものメッセージが届いた。 返信しようとしたところで、蓮から電話がかかってきた。 「早く資料を持ってきてくれ。こっちは急いでるんだ。ぐずぐずするな」 私は午後から受ける翻訳資格試験の受験票を握りしめ、唇を噛んだ。 「その試験って、まだ3か月先でしょう?そんなに急ぐ必要あるの?」 「紗季はいつも残業してまで手伝ってくれてるんだ。 時間がないんだよ。それくらいの頼みも、聞けないのか?」 スマホの向こうから聞こえてくる声に、私は一瞬ぼんやりした。 蓮にも、急ぐことがあるんだ。 「……分かった」 電話を切ると、配送代行サービスを探し、資料を紗季の自宅まで届けてもらうよう手配した。 出かける前から言い争うために気力を使いたくなかった。 それに、5年続いた関係に、最後くらいは少しだけ体裁を残しておきたかった。 けれど、そう簡単にはいかなかった。 翻訳資格試験まで、あと1時間。 バッグを手に取り、家を出ようとした。 そのとき、正面から蓮と鉢合わせした。蓮は私を見るなり、怒りをあらわにした。 その後ろには紗季が立っていた。 目には涙を浮かべ、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「よくもこんなくだらないマネをやってくれたな」 蓮はそう言って、束になった写真を私の顔に投げつけた。 拾い上げてみると、目を覆いたくなるような卑猥な写真ばかりだった。 写真に写る紗季の顔は、後から合成されたものであることが誰の目にも明らかだった。 私は呆然とした。 「俺が頼んだのは資料を届けることだけだ。 それなのに、どうしてこんな下劣な真似をする? 紗季を侮辱するために、こんな写真を送りつけるなんて」 蓮が私の顔を指差した。 その腕が大きく動いた拍子に、靴箱の上に置いてあった花瓶が倒れた。 ガラスが床に散らばり、その破片が一瞬で私のふくらはぎを切り裂いた。 「違う。私が送ったのは試験の資料だけ」 私は勢いよく顔を上げ、まっすぐ蓮を見つめた。 蓮は私を見て、わずかに目を見開いた。 「うっ……ごめんなさい、真帆さん。 真帆さんが私に不満があるのは分かっています。 蓮さんが私のことを気にかけてくれるのが嫌なんですよね。 でも、いくら嫉妬したからって、こんな写真を送りつけて脅すなんて……」 紗季は下唇を噛み、怯えた子猫のように身を縮めていた。 その姿は、誰が見ても庇いたくなるようなものだった。 紗季は高校時代の後輩だ。 2年前、北原市で男に騙され、持っていた金をすべて奪われたうえ、その男のために3度も中絶させられた。 行き場をなくした紗季を、私は半年以上、自分の家に置いていた。 お金を一銭も取らなかった。 今の仕事だって、私が探してやったものだった。 私はあれだけ親身になって尽くした。 それなのに、返ってきたのがこれだった。 私は乱れそうになる呼吸を整え、紗季へ視線を向けた。 「どうして私だって決めつけるの?証拠はあるの?」 「確かに、写真を封筒に入れるところを直接見たわけじゃありません。 蓮さん、真帆さんが違うって言うなら、もういいじゃないですか」 紗季は俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。 「この荷物を送ったのはお前だろ。他に誰がいる?とにかく、早く紗季に謝れ」 蓮の冷たい目を向けられ、胸が詰まった。 まだ言いたいことはあった。 けれど、時間は刻一刻と過ぎていく。 試験会場へ急がなければならない。 私は玄関のドアを開けた。 次の瞬間、蓮に手首をつかまれた。 強く握られ、振りほどくこともできない。 「紗季に謝らないなら、どこにも行かせないぞ! さっきの俺のやり方は、確かに少し焦りすぎていたな。 やはりこういうことは、こんな風にゆっくり解決するものなんだ」 蓮は一言一言、噛みしめるように言った。 その声だけが、妙にはっきりと耳に残った。 手首に食い込む指に、さらに力が加わる。 動こうとするたびに痛みが走った。 ふくらはぎの傷と手首の痛みがじわじわと広がり、やがて胸の奥まで届いてくるようだった。 この試験のために、私は半年以上準備してきた。 合格する自信だってあった。 絶対に、このチャンスを失うわけにはいかない。 私はこみ上げてくる涙を必死にこらえた。 「……ごめんなさい、紗季。私が悪かった。どうか許して」 「謝ってくれたなら、もうこの話は終わりにしましょう。 私だって、そんなに心の狭い人間じゃないですから」 紗季はそう言って、私の腕に自分の腕を絡めた。 その口元に浮かんだ笑みを、私は見逃さなかった。 「送っていくよ」 蓮の表情から、わずかに険が取れた。 「いい」 私は腕を引き抜き、バッグを手に玄関へ向かった。 「お前の車なら、もう洗車に出してる。 それにここは郊外だから、タクシーもすぐには捕まらないだろう」 結局、私は2人と一緒に車に乗るしかなかった。 「もっと急げない?遅れちゃう」 時間を計算しながら、私はバッグの持ち手を指先で何度も握り直した。 それでも蓮は、いつもと変わらず焦る様子がない。 「紗季は車に酔いやすいんだ。そんなに飛ばせない。 運転も酒造りも同じだ。急ぐものじゃない」 頭の中に、例の青切符が浮かんだ。 私は突然、吐き気を覚えた。 試験会場に着いたとき、試験監督は淡々と告げた。 「申し訳ございませんが、規定の入室限度時刻を1分過ぎておりますので、これより先の入室・受験は認められません……残念ですが、次回また出直してください」 私は脱いだハイヒールを手にしたまま、目の奥が熱くなるのを感じていた。 スマホを開く。 涙がぽろりと画面に落ち、光が滲んでいく。 私は蓮にメッセージを送った。 【蓮、もう別れよう】 第2章 【別れる?いい歳して、今さらそんなマネするのかよ。 そもそも、お前は俺なしじゃ生きていけないだろ】 想像できる。このメッセージを送る蓮は、鼻で笑っているだろう。 私は彼を相手にしなかった。 家に戻ると、荷物をまとめ始めた。 そのとき、スマホの画面がふっと明るくなった。 紗季がSNSに投稿したものだった。 写真に写っていたのは、蓮のワインセラー。 そこには赤ワインが整然と並び、全部で52本もあった。 投稿には、こう添えられていた。 【ただ1人の特別な人に捧げる♡】 そのワインには見覚えがあった。 カロン・セギュール。 ハートの形をしたラベルが特徴のワインだ。 蓮は以前、このワインを「愛のワイン」と呼んでいた。 揺るぎない愛情と、ただ1人だけを特別に想う気持ちの象徴なのだと。 結婚式の日に、私に贈るつもりだと言っていた。 でも今、それはもう私のものじゃない。 このワインを私が受け取ることも、もうない。 それでも、ここだけは蓮のもとを離れる前に1度、行っておかなければならなかった。 1年前、妹の高瀬遥(たかせ はるか)が私のために1本のワインを預けてくれた。 私が結婚するときに取りに来ればいいと言って。 でも、もう結婚することはない。なら、あのワインを預けておく必要もない。 スタッフに預かり台帳を見てもらい、しばらく探してもらった。 けれど、いくら探しても見つからなかった。 「何を探してるんだ?」 蓮が紗季を連れて、こちらへ歩いてきた。 「遥が私のために預けてくれたワイン。ずっと見つからないの。別の場所に置いてあるのかもしれない」 「もう探さなくていい。俺が紗季にやった」 蓮は当然のように言った。 私の顔を見ることすらなかった。 「そんな勝手な!あれは遥が私に残してくれた、最後の形見なのに!」 信じられなかった。 体が小さく震えた。 「真帆さん、ごめんなさい。全部私のせいです。 あのワインを1度も飲んだことがなくて、飲んでみたいって言ったから…… どうか蓮さんをせめないでください」 紗季はみるみる目を赤くした。 まるで私が悪者であるようだった。 「おおげさだな。たかがワイン1本だろ。 それに、遥はもう死んでる。置いておいたって、場所を取るだけだ」 蓮の声が低くなる。 「ワインならここにいくらでもある。好きなのを選べばいい。 それよりこんなところでみっともない真似するな」 そう言い捨てると、蓮はそのまま背を向けて歩き去った。 私は口を開いた。 何か言いたかったが、何1つ言葉にならなかった。 紗季が私のそばまで歩いてくる。 そして唇を私の耳元に寄せ、2人にしか聞こえない声で囁いた。 「実はね、あのワイン、飲んでないの。適当にそこらへんのホームレスにあげちゃった。 だって、死んだ人の残したものなんて、気味が悪いんだもの」 そこで、とうとう我慢できなくなった。 私は手を上げ、紗季の頬を平手で打った。 「よくもやってくれたね!私を誰だと思っているの?」 紗季はもう取り繕う気もなくなったらしい。 「知ってる?あなたが毎晩1人で寂しく過ごしてる間、蓮さんは私を抱いて、何度も何度も求めてたのよ」 紗季は顎を上げ、嘲るように私を見た。 「愛人ふぜいが、よくそんなことが言えるわね」 私は怒りで唇を噛みしめた。 「愛人?ふふっ。愛されてもいないのに、まだ正室を気取っているの? 実際、真実をその目で確かめてみれば?」 紗季が突然、私の背後へ視線を向けた。 そして、陰湿な笑みを浮かべる。 次の瞬間。 紗季は自分から勢いよくテーブルの角へ頭をぶつけた。 「真帆さん、どうして私を突き飛ばしましたか?あのワインを飲んだからですか?」 額から血が流れ落ちる。 紗季は頭を押さえたまま、床にうずくまり、涙をぼろぼろとこぼした。 「紗季!」 蓮が駆け寄ってくる。 そして私を振り返った。 その目は、まるで刃物のように鋭かった。 「真帆……お前には、本当に反吐が出る。 もう2度と、俺のワイナリーに足を踏み入れるな」 そう言うと、蓮は紗季を抱き上げ、そのまま振り返ることなく立ち去っていった。 蓮は私の話を1言も聞こうとせず、あまりにもあっさりと私を悪者にした。 紗季は私を振り返り、勝ち誇ったような顔で笑っている。 私は、2人が寄り添いながら遠ざかっていく背中を見つめ、自嘲するように笑った。 ――ワイナリーに入るな、だって? 蓮はどうやら忘れているらしい。 このワイナリーの株式は、私が70%を保有している。 つまり、実質的な経営権を握っているのは私だ。 蓮の夢を支えるために、私は貯めてきたお金の大半を、このワイナリーにつぎ込んだ。 そろそろ、きちんと清算するときが来たようだ。 第3章 蓮は丸3日間、家に帰ってこなかった。 もう彼のことなどどうでもいい。 どうせあと数日もすれば、すべて終わるのだから。 私は法律事務所を出ると、南川国際学園の校長に返信した。 【必要な手続きはすべて済ませました。来週からよろしくお願いします】 家の前まで来たところで、焦げたような匂いが鼻を突いた。 これは……まさか、火事? 私は慌ててドアを開けた。 そこで目に飛び込んできた光景に、目の前が真っ暗になった。 蓮と紗季が、1つの箱を燃やしていた。 その箱に入っていたのは、すべて遥の遺品だった。 遥が最後に私に残してくれた、ほんのわずかな思い出の品だった。 双子の妹だった遥とは、幼い頃からずっと仲がよかった。 物心ついた頃から、何をするにもいつも一緒だった。 私にとって、遥はまさしくもう1人の分身のような存在で、いつしか私の人生から切り離すことのできない、大切な一部になっていた。 そんな遥は、去年山間部へ向かう途中、交通事故に遭って突然亡くなった。 両親は深い悲しみに暮れ、一晩で髪が白くなったほどだった。 私は3日3晩、遥の遺体のそばを離れなかった。 泣き続けて、目が潰れてしまうんじゃないかと思うほどだった。 そんな私に寄り添ってくれたのが蓮だった。 蓮に支えられるうちに、私は少しずつ立ち直っていった。 癒えることのない悲しみも、ほんの少しだけ和らいでいった。 遥が私の命そのものだと、蓮だって知っていたはずなのに。 それなのに、どうして…… 「何してるのよ!?」 私は声が枯れるほど叫んだ。 夢中で駆け寄り、2人を押しのけて、必死に火を消そうとした。 でも、間に合わなかった。 残ったのは、遥の日記帳だけだった。 私は炎の中へ手を伸ばした。 手の甲がみるみる赤くなっていく。 それでも痛みなど構わず、日記帳を火の中から拾い上げた。 私は2人を睨みつけた。 目に宿った怒りが、そのまま炎になって燃え上がりそうだった。 「もういい加減にしろよ」 蓮は突然帰ってきた私に、あからさまに苛立っていた。 「どの口がいうの?そもそも私の私物を燃やしてるのはあなたたちでしょう?」 肩が自分の意思では止められないほど震えていた。 それに対し、蓮は淡々と言った。 「紗季はお前に突き飛ばされてから、ずっと体調がよくない。 占い師にも見てもらったら、悪い気に当てられたことが原因だと言われた。 どうせ遥の遺品が紗季に悪い影響を与えてるんだろ。 まったく、死んでからも人騒がせな奴だ」 そう言うと、蓮は私の手から日記帳を奪い取るや否や、もう1度火をつけた。 私は紗季に力いっぱい腕を掴まれた。 必死に振りほどいたときには、日記帳はすでに跡形もなく燃え尽きていた。 私はとうとう立っていられなくなった。 両脚から力が抜け、その場に崩れ落ちた。 紗季が私のそばまで近づいてくる。 そして、私の首にかかったガラスのペンダントに目を留め、口元をわずかに上げる。 けれど、その笑みには温かさなど少しもなかった。 ペンダントの中に入っているのは、遥の遺灰だった。 私は昼も夜も肌身離さず身につけていた。 それがあれば、まるで遥が今も私のそばにいるような気がした。 私は怯えながら、ペンダントを両手で必死に庇った。 「何をするつもり?」 「蓮さん、これを見てください。たぶん、これが1番縁起の悪いものです。 これがある限り、私の体はよくならないと思います」 紗季は私のペンダントを指差し、悲しそうな顔をした。 蓮は私の手を無理やりこじ開け、ペンダントを一気に引きちぎった。 「真帆、たかがペンダントだろ。もっといいものを買ってやる」 私は反射的に蓮へ飛びつき、その腕を必死に掴んだ。 「蓮、やめて!『急がば回れ』って、いつも言ってたじゃない! 紗季のことだって、まだ他に方法があるはずでしょう。 だから、お願い。ペンダントを返して!」 絶望しながら、蓮自身がいつも口にしていた考えにすがって説得しようとした。 「お前の言う通りだ。でも、紗季の体のことがかかってる。もう待っていられない」 蓮は私を見つめた。 その目に、一瞬だけためらうような色が浮かんだ。 けれど、それもすぐに消えた。 「蓮さん、占い師さんは他にも言ってました。 私をこんな目に遭わせた張本人が、ちゃんと土下座して謝らないといけない。 このままだと、年を越せないかもしれないって……」 紗季は何も知らないような顔で言った。 そして私を見る。 「真帆さん、土下座してくれたら、ペンダントを返してあげてもいいですよ」 紗季は蓮からペンダントを軽々と受け取ると、手の中で弄ぶように撫で回した。 「真帆、土下座しろ。2度言わせるな」 蓮はネクタイを緩めた。 私はその場に膝をついた。 冷たい床の感触が額から伝わり、体の奥まで凍りついていくようだった。 私は今にも溢れそうな涙を必死にこらえ、ふらつきながら立ち上がった。 「いいよ。返してあげる」 紗季は笑った。 無邪気に見えるその顔は、ひどく残酷だった。 私が受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。紗季は手を離した。 ペンダントは床に落ちた。 そして次の瞬間、ガラスが粉々に砕け散った。 第4章 私は床に這いつくばり、半ば取り乱しながら、散らばった破片を1つずつ拾い集めた。 灰色の粉が、血の滲んだ指にまとわりつき、たちまち赤く染まっていく。 「高校1年のとき、あなたがいじめられていたでしょう。 遥が、あなたの代わりにいじめる人たちと喧嘩して、最後は学校から処分まで受けた。 高校3年のときは、両親が離婚して誰もあなたの面倒を見てくれなかった。 そんなあなたに、遥は毎日お弁当を届けていた。 3年前、あなたは前の男に酷い目に遭わされて、流産して死にかけた。 そのとき、真夜中にあなたを病院へ連れて行ったのも遥だった。 それなのに、どうして……」 喉が詰まり、声にならなかった。 紗季は爪を弄びながら、まるで他人事のような顔で私を見た。 「真帆さん、私だってわざとやったわけじゃないですよ。 ちゃんと受け取れなかったそちらが悪いんじゃないですか? 蓮さん、真帆さんが私に罪悪感を押しつけようとしてるんです。 私の命って、そんなに軽いものなんですか? 亡くなった人よりも大切にしてもらえないなんて……」 紗季は、いかにも傷ついたような顔をした。 「もういい、真帆。いい加減にしろよ!」 蓮は眉をひそめた。 2人の白々しい顔を見ているうちに、突然、息が苦しくなった。 次の瞬間、心臓が激しく脈打った。 何年も抑え込んできた喘息が、再び発作を起こしたようだ。 「蓮……病院に連れていって。喘息が……発作が出てる……」 私は両手を床につき、激しく肩を震わせた。 「真帆さん。まさか、そんなに演技が上手だったなんて」 紗季は勝ち誇ったように笑い、私を見下ろした。 「紗季、行こう。こいつがそんなに芝居が好きなら、1人で好きなだけやってればいい」 蓮は襟元を整えると、死にかけている私を冷たい目で一瞥した。 そして紗季を連れて、そのまま出ていった。 息ができない。 どんどん呼吸が苦しくなり、意識が遠のいていく。 頭の中では、ただ耳鳴りのような音だけが鳴り響いていた。 そして、意識が完全に途切れた。 目を開けると、頭上には淡いベージュ色の天井があった。 周囲には、消毒液の匂いが充満している。 意識を失う直前、私はスマートウォッチの緊急通報ボタンを押していた。 そのあと、警察が私を病院まで運んでくれたらしい。 起き上がろうとしたそのとき、突然、スマートフォンの画面が光った。 修復されたドライブレコーダーの映像だった。 遥の事故のあと、ドライブレコーダーも壊れてしまっていた。 私は、遥の最後の姿を残しておきたくて、海外の専門家に何度も頼み込み、どうにか映像を復元してもらったのだ。 動画を開くと、映っていたのは遥が事故に遭った日の姿だった。 遥はその日、貧しい山間部へ支援物資を届けに向かっていた。 いつも仕事で忙しい遥に代わって、そうしたボランティア活動に行くのは私だった。 けれど、あの日の遥は「少し気分転換したい」と言って、私の車を借りて出かけた。 突然、ドンッという衝撃音が響いた。 画面が大きく揺れ、映像が一瞬ぼやける。 私は画面を見つめたまま、胸をえぐられるような痛みに襲われた。 遥を失ったあの日の苦しみが、まるで昨日のことのようによみがえってくる。 そのとき、映像から紗季の声が聞こえた。 「真帆さん、ぶっちゃけ…… そうやって寝てるほうが、可愛げがあるのにね。 何をそんなに見てるの?安心して。 ここには監視カメラなんてないし、私がやったって知ってる人もいないから。 もう何も心配しなくていいよ。だからもう死んで」 遥の事故は、ブレーキの故障に加えてドライブレコーダーも大きく損傷していたため、警察には事故として処理されていた。 それが今になって、故意に仕組まれた殺人だったなんて。 紗季が殺そうとしていたのは、私だった。 遥を死なせたのも、私だった。 突然、喉の奥から鉄の味が込み上げてきた。 ぽた、ぽた、と鮮血が真っ白なシーツに落ちていく。 私は震える体を無理やり起こし、口元の血をゆっくり拭った。そして、その映像を弁護士に送った。 【これ、明日までに翻訳して。紗季が使うから】 突然、蓮から20ページ以上にも及ぶ英文が送られてきた。 【かなり難しい英文だから、明日ワイナリーに行って、私が紗季に直接教える】 【急にずいぶんと物分かりが良くなったじゃないか。今回だけは特別に、来るのを許してやろう】 私はスマートフォンの画面を見つめた。 口元に、ごくかすかな笑みが浮かんだ。 深夜0時。 私はSNSに匿名で投稿した。 紗季と蓮のこれまでの出来事を、感情を交えず、事実だけを淡々と書き綴った。 すると、投稿への「いいね」やリポストが凄まじい勢いで増えていった。 あっという間にトレンド1位まで駆け上がった。 【この最低な2人、一体誰なの?】 【人間として恥ずかしすぎる!】 【投稿主は警察に通報したの?この浮気相手、死刑でいいだろう】 【本当なの?いくらなんでも出来すぎてない?】 【バズらせるための作り話じゃないの?】 投稿のコメント欄は瞬く間に騒然となった。 私はスマートフォンを手に取り、メッセージ画面を開いた。 【明日の10時、株主総会を開いて決議を取りましょう】 【承知しました、社長】 その頃、蓮は紗季を抱き寄せ、紗季の髪を弄びながらスマートフォンを眺めていた。 トレンド1位に表示された話題が気になった蓮は、思わず投稿を開いた。 読み進めるうちに、蓮は止まらない震えに襲われた。 そして次の瞬間、スマートフォンが勢いよく床に叩きつけられた……

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