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死後3年、婚約者は私に罪を着せる
私・杉本美夕(すぎもと みゆ)が炎に包まれて死んでから、3年が経った。それなのに、社長である私の婚約者・木下辰哉(きのした たつや)は、またしても妹・木下遥香(きのした はるか)の罪を私に被せようとしている。 辰哉は偽造した供述書を手に、かつて私が暮らしていたアパートへ押しかけ、遥香の代わりに放火の罪を認めろと迫ってくる。 しかし、私はもうとっくに死んでいる。 辰哉は信じようとせず、大家の肩をつかんで、怒鳴り散らした。 「杉本美夕はどこだ!」 辰哉の剣幕に怯えながらも、大家は哀れむような目を向けて告げる。 「美夕ちゃん?3年前の商業ビルの火事で亡くなったんだよ。 逃げ遅れた小さな女の子を助けようとして、落ちてきた梁に足を挟まれて、動けなくなったまま炎に巻き込まれて……」 辰哉の顔から、血の気が引いていく。けれど次の瞬間、鼻で笑った。 「俺から逃げるつもりか?どうやら、あいつは自分の立場を分かってないな。 美夕に伝えろ。今すぐ姿を見せないなら、あいつの弟の移植用の心臓は、すぐにでも他の奴に回すってな!」 大家は目の前の男を見つめた。その目は、まるで正気を失った人間を見るようだ。 「心臓って、何の話? 美夕ちゃんの初七日に、弟の律希くんは病院の屋上から飛び降りたんだよ。 姉ちゃんが向こうで一人きりだと、暗くて寂しいから、自分がそばにいてあげなきゃって……」
チャプター (1)
第1話
私・杉本美夕(すぎもと みゆ)が炎に包まれて死んでから、3年が経った。それなのに、社長である私の婚約者・木下辰哉(きのした たつや)は、またしても妹・木下遥香(きのした はるか)の罪を私に被せようとしている。
辰哉は偽造した供述書を手に、かつて私が暮らしていたアパートへ押しかけ、遥香の代わりに放火の罪を認めろと迫ってくる。
しかし、私はもうとっくに死んでいる。
辰哉は信じようとせず、大家の肩をつかんで、怒鳴り散らした。
「杉本美夕はどこだ!」
辰哉の剣幕に怯えながらも、大家は哀れむような目を向けて告げる。
「美夕ちゃん?3年前の商業ビルの火事で亡くなったんだよ。
逃げ遅れた小さな女の子を助けようとして、落ちてきた梁に足を挟まれて、動けなくなったまま炎に巻き込まれて……」
辰哉の顔から、血の気が引いていく。けれど次の瞬間、鼻で笑った。
「俺から逃げるつもりか?どうやら、あいつは自分の立場を分かってないな。
美夕に伝えろ。今すぐ姿を見せないなら、あいつの弟の移植用の心臓は、すぐにでも他の奴に回すってな!」
大家は目の前の男を見つめた。その目は、まるで正気を失った人間を見るようだ。
「心臓って、何の話?
美夕ちゃんの初七日に、弟の律希くんは病院の屋上から飛び降りたんだよ。
姉ちゃんが向こうで一人きりだと、暗くて寂しいから、自分がそばにいてあげなきゃって……」
第1話
私は宙に浮いたまま、辰哉を見下ろしている。
尊大なまでに自信に満ちていた辰哉の顔が、見る間に青ざめ、次第に土気色へと変わっていく。やがて信じられないと言わんばかりに、その顔が引きつった。
彼は大家をつかんでいた手を乱暴に離すと、よろめきながら後ずさり、階段の手すりに背中をぶつける。ドン、と鈍い音が響き渡る。
「そんなはずない」
歯を食いしばり、喉の奥から無理やり絞り出すように呟く。
「美夕は、あの病弱な弟を何より大事にしてたんだ。あいつが、弟を死なせるわけがない。
俺の気を引くために、こんな真似をしてるだけなんだろ?」
大家は哀れむように辰哉を見つめ、首を横に振った。それ以上は何も言わず、震える足取りで自分の部屋へ戻っていく。そして、静かにドアを閉める。
薄暗い廊下には、辰哉の荒い息遣いしか聞こえない。
私は冷ややかな目で、その姿を見つめる。
確かに、私は弟・杉本律希(すぎもと りつき)を何よりも大切にしていた。
心臓移植の費用を工面するため、学業もプライドも捨てた。そして、人として生きることすら、諦めた。
まるで忠実な飼い犬のように辰哉に付き従い、何を言われても、逆らわなかった。
遥香が私を気に入らないと知れば、言われる前に自分から姿を消した。
辰哉が不機嫌なときは、八つ当たりされながらも、必死に笑顔を作って耐えた。
すべては、律希を救ってやると辰哉が約束してくれたから。
しかし今、私も律希も、もうこの世にはいない。
それなのに辰哉は、私が死んで3年が経った今も、放火をした遥香の罪を私に被せようとしている。
これほど滑稽な話があるだろうか。
辰哉はその場に長く立ち尽くしていた。あまりにも長くて、廊下の人感センサーライトまで消えてしまう。
暗闇の中、スマホを取り出す。画面の冷たい光がその歪んだ顔を青白く照らし出した。
そして、どこかへ電話をかける。
「……俺だ。美夕と、その弟の律希が今どこにいるか調べろ。
そうだ。国内の病院を全部調べろ。出入国の記録もだ。どんな手を使っても、夜が明けるまでに、あいつらの居場所を突き止めろ!」
電話を切ると、辰哉は拳を壁に叩きつけた。
「美夕、絶対に見つけてやる。
死んだら、すべてが終わったと思うなよ」
階段を下りていくその背中を見つめながら、私の心は完全に冷え切っていた。
辰哉、あんたは間違っている。
死こそが、本当の始まりなのだから。
……
辰哉の車は夜の街を猛スピードで駆け抜け、やがて高級住宅街にある1軒の豪邸の前で急停車した。
辰哉の妹、遥香が暮らす家だ。
私はそのまま辰哉の後を追って屋敷の中へ入る。
リビングでは、遥香が落ち着かない様子で歩き回っている。辰哉の姿を見るやいなや、命綱にすがりつくように駆け寄る。
「お兄ちゃん!やっと帰ってきた!警察からまた電話があったの。もう一度、事情を聞きたいって!」
辰哉はジャケットをソファに放り投げ、険しい顔で言う。
「慌てるな」
遥香の目がたちまち潤む。
「慌てるに決まってるじゃない!あの火事で人が死んだのよ!もし私がやったってバレたら……」
「黙れ!」
辰哉は苛立たしげな目を向け、鋭い声で遥香の言葉を遮った。
「ちゃんと始末したんじゃなかったのか?どうして警察に目をつけられている?」
遥香は唇を噛み、恨めしそうに答える。
「そんなの知らないわよ!私はただ、あの女が目障りで、あいつのしょぼいギャラリーを燃やしてやりたかっただけだもん!
まさか、あの馬鹿な女が、ガキを助けるために火の中へ飛び込むなんて思わなかったのよ!」
第2話
私は宙に浮いたまま、辰哉と遥香を見下ろしている。まるで氷水を浴びせられたように、魂の芯まで冷え切っていた。
遥香が言っている「あの馬鹿な女」、つまりギャラリーのオーナーは、穏やかで優しいシングルマザーだった。
「ガキ」とは、彼女の5歳の娘のことだ。
そして私は、その子を助けるために炎の中へ飛び込み、落ちてきた梁に足を挟まれ、そのまま焼け死んだ。
それなのに、彼らにとって人の命なんて、こんなにも軽いものなのか。
辰哉はこめかみを押さえ、少しだけ声を和らげて言う。
「もう泣くな。美夕の奴は見つかった。あいつにお前の罪を被せればいい」
遥香の泣き声がぴたりと止まる。
「本当!?あいつ、納得したの?」
「あいつの意思など関係ない。拒否する権利もない」
辰哉は鼻で笑う。その声には、すべてを自分の思い通りにできるという傲慢さがにじんでいる。
「ただ……」
そこで言葉を切る。その目に、一瞬だけ私には読み取れない感情が浮かんだ。
「今日、あいつのいたアパートへ行ったんだが、大家が言うには……あいつは3年前に死んだそうだ。
弟も、飛び降りて死んだってな」
「はあ?」
遥香は目を大きく見開き、次の瞬間には鼻で笑った。
「お兄ちゃん、騙されてるよ!美夕って、昔からずる賢いじゃない?私たちが身代わりを探してるって知って、逃げおおせるためにわざとこんな芝居を打ってるのよ」
そう言いながら遥香は辰哉のそばへ寄り、腕に絡みつく。
「よく考えてみてよ。あいつにとって弟は何より大切な存在だよね。そんな弟を死なせるわけないじゃない。絶対に嘘よ!」
辰哉の顔から険が落ちる。どうやら遥香の言葉に納得したようだ。
「お前の言う通りだ。あいつは昔から、こういう小細工ばかりするからな」
「お兄ちゃん、絶対に同情なんかしちゃだめよ」
遥香の目に、ぞっとするほど冷たい光が宿っている。
「今回は絶対に、あいつに罪をかぶせるの。そうしないと、私たちまで巻き込まれるんだから!」
「分かっている」
辰哉はなだめるように、遥香の手を軽く叩いた。
「もう部下に調べさせてる。すぐに結果が出るはずだ。
あいつを見つけ出したら、たっぷりと思い知らせてやる」
兄妹が仲睦まじく寄り添う姿を見下ろしながら、私はただ、あまりにもバカバカしくて笑ってしまった。
辰哉、あんたはもうすぐ思い知る。
真実は、嘘なんかよりずっと残酷だということを。
……
空がまだ白み始める前、辰哉のスマホが鳴った。
彼はほとんど反射的に電話に出る。
「分かったか?」
電話の向こうから、部下の緊張した声が聞こえてくる。
「社長、確認が取れました。杉本律希は……確かに3年前に亡くなっています」
辰哉の顔がこわばる。
「なんだと?」
「病院の死亡診断書と、除籍の記録を確認しました。杉本律希は3年前の秋、心臓病の悪化による多臓器不全で亡くなっています。死亡診断書には、当時の主治医の署名もあります」
辰哉の呼吸が、にわかに荒くなる。
「主治医は誰だ」
「心臓血管外科の高橋先生です」
「そいつに代われ」
電話の向こうが数秒、沈黙する。何かためらっているようだったが、すぐに指示通りに動いた。
やがて、年老いた、疲労のにじむ声が響く。
「どちら様ですか」
「木下辰哉です」
辰哉の声は、ひどく掠れている。
「高橋先生、杉本律希のことですが……」
「木下……さん?」
高橋先生は辰哉の言葉を遮る。その声には、隠そうともしない冷たさと嫌悪がにじんでいる。
「今さら何の用ですか?律希くんのお墓がどこにあるのかでも聞きたいんですか?」
辰哉は言葉に詰まり、顔をさらにこわばらせる。
「俺はただ、あいつが本当に……」
「本当ですよ」
高橋先生の声が急に大きくなる。怒りが、堰を切ったように爆発した。
「美夕さんの初七日の直後、律希くんは亡くなったんです。病室でずっと美夕さんのことを話していました。向こうで一人ぼっちになって、暗くて寂しいだろうって……
鎮静剤を使っても、カウンセリングを受けさせても、どうにもならなかったんです。
律希くんは何度も言ってましたよ。木下さんが美夕さんに、必ず適合する心臓を見つけて、律希くんを助けると約束したって。
その約束だけを信じて、ずっと待っていました。しかし、美夕さんが亡くなったと知って、律希くんの最後の希望まで絶たれてしまったんです。
看護師の目を盗んで、体につながっていた管を全部抜いて、病院の屋上から飛び降りました。律希くんの最後の言葉を知ってますか?
美夕さんのところへ行って、暗くないように照らしてあげるんだって……
これで満足ですか、木下さん」
高橋先生の言葉が、氷の刃となって辰哉の胸に突き刺さっていく。
スマホを握る手が、激しく震えている。手の甲には青筋が浮き出ている。
「……そんなはずない」
辰哉はまるで、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「俺は……ちゃんと美夕に金を渡して、律希の治療費にしろって……」
「お金?」
高橋先生が冷たく笑った。
第3話
「お金など、1円も受け取っていません。最後のときは、入院費も払えなくなりました。美夕さんは土下座して、もうすぐ金を用意できるから、あと数日だけ待ってほしいって泣いて頼み込んできました。
しかしそのあと、彼女が火事で亡くなりました。
木下さんが彼ら姉弟にしたことは、一生かかっても償いきれませんよ!」
電話は一方的に切られた。
辰哉は凍りついたように動けなくなった。力の抜けた手からスマホが滑り落ち、絨毯の上に音もなく転がった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、紙のように青白い顔を照らしている。
彼の信じていた世界が、今この瞬間、音を立ててひび割れ始める。
よろめきながら部屋を飛び出し、車のエンジンをかける。
調べなければならない。あの火事のことを、すべて調べる。
――美夕、お前は一体どこにいるんだ?
頼むから、生きていてくれ。絶対に、生きていてくれ!
辰哉は狂ったように警察署へと車を走らせた。
木下家の権力とコネを使い、3年前の商業ビル火災に関するすべての捜査資料を取り寄せる。
分厚いファイルの束を机に叩きつけると、ほこりが舞い上がった。
辰哉の手はひどく震えており、紙の1枚をつかむことさえままならない。
震える指で1ページずつめくっていく。読み進めるほど、顔から血の気が引いていく。
火災調査報告書、現場検証の写真、目撃者の証言……
すべての証拠が、一つの事実を突きつけている。
――美夕は、本当に死んだ。
報告書には、はっきりとこう記されている。
【死亡者・杉本美夕。女性、23歳。大量の煙を吸い込み、さらに焼け落ちた梁に左脚を挟まれ、逃げられないまま焼死。発見時には全身が炭化しており、DNA鑑定により身元を確認】
炭化……
辰哉の体がぐらりと揺れ、机の縁に手をついて、かろうじて倒れるのをこらえた。
私が最期にどれほどの苦しみと絶望を味わったのか、彼は想像することさえできないだろう。
辰哉は、私が遥香の身代わりになったという自白調書を探すため、さらにページをめくっていく。
しかし、最後まで目を通しても、私が罪を認めた記録などどこにも存在しなかった。
代わりにそこにあったのは、1枚の表彰状だ。
【杉本美夕殿。あなたは11月23日に発生した大規模火災に際し、自身の危険を顧みず冷静かつ勇敢な行動をもって、女児を救出されました。よってここにその功績を深くたたえ表彰いたします……】
その下には、救出された女児の家族から寄せられた感謝の手紙が添えられている。
手紙の中で、女児の母親は飾らない言葉で、私のことを娘に2度目の命を与えた英雄と称え、何度も感謝の言葉を綴っている。
辰哉の目から、何の前触れもなく涙がこぼれ落ちる。黄ばんだ紙の上に、涙がいくつもの染みを作った。
「英雄、か……」
辰哉は笑った。泣いているようにしか見えない、歪んだ笑みだ。
彼はこれまでずっと、私を金のためなら何でもする女だと思っていた。呼べばすぐに駆けつけ、追い払えば黙って消える。そんな都合のいい存在だと思っていた。
まさか、そんな私が英雄と称えられているとは思いもしなかったのだろう。
一方で、真の元凶である遥香は、何事もなかったかのように自由に暮らしている。
まるで全身から力が抜けたように、辰哉は椅子に崩れ落ちた。
しかしそのとき、彼の目が、添付された1枚の書類に止まる。
それは救出された女児の身元情報だ。
そこには、信じがたい名前がはっきりと記されている。
【保護者氏名:木下遥香
女児氏名:木下安奈】
ドンッ。辰哉の頭の中で、何かが爆発する音がした。
遥香に……娘がいる?
自分も、木下家の誰もその存在を知らなかった……隠し子?
あのギャラリーは、見ず知らずの人間が経営していたものではない。
遥香が、誰にも知られたくない娘を住まわせるために、ひそかに買い取ったものだ。
あの火事も、ただの事故などではない。
自分の隠し子という汚点を消すために、遥香が自ら火を放ったのだ。
遥香が焼き殺そうとしたのは、自分の実の娘だ。
そして彼ら兄妹から蔑まれ、踏みにじられ、虫けら同然に扱われていた私が、命の最後の瞬間に、木下家の最もおぞましい秘密、遥香の娘を救い出した。
辰哉の背後に浮かびながら、その顔からみるみる血の気が引いていくのを見つめている。極度の衝撃と恐怖にさらされ、辰哉の瞳は焦点を失っている。
この瞬間、ようやくすべてを理解した。
私は不運な事故で死んだわけでも、ただの放火事件に巻き込まれて死んだわけでもない。
綿密に計画された、卑劣な殺人によって殺されたのだ。
私は自分の命と引き換えに、悪魔が自らの手で葬り去ろうとした命を救った。
私の死は、悲劇ですらない。
あまりにもバカバカしい、最悪の笑い話だ。
魂が抜けたように座り込む辰哉の姿を見ても、不思議と何の感情も湧かない。
ただ、骨の髄まで凍りつくような深い空虚さと悲哀だけだ。
私の魂は、かつてないほどに、冷たく澄み切っている。
第4話
辰哉は、まるで魂の抜け殻のように、車を走らせて遥香の住む豪邸へ戻った。
ドアを押し開けると、遥香はパックをしたまま、ソファに寝そべってスマホをいじっている。
辰哉の帰宅に気づくと、気だるそうにまぶたを持ち上げる。
「お兄ちゃん、どうだった?美夕、見つかった?身代わりになることを引き受けたの?」
辰哉は答えず、ただじっと遥香を見つめている。
その視線は氷のように冷たい。まるで、敵を見るかのような目だ。
遥香はその異常な空気に薄気味悪さを感じたのか、苛立たしげに身を起こす。
「なによ、その目。まさか失敗したの?」
辰哉は何も言わず、遥香に近づいていく。その足音が響くたび、私の胸まで踏みつけられているようだ。
やがて、喉の奥から絞り出すような声で言う。
「木下安奈って、誰だ」
遥香の顔に貼りついていたパックが、床に落ちた。
彼女の表情が凍りつき、あからさまに動揺している。
「な……何を言ってるの?私、知らないわ」
「知らない?」
辰哉は笑った。その笑い声には、絶望と狂気がにじんでいる。
テーブルの上に置かれていた書類をつかみ上げ、そのまま遥香の顔に叩きつける。
「自分で見ろ!」
紙が床に散らばる。その中の1枚、「木下安奈」の名が記された身元登録のページが、ひらひらと遥香の足元に舞い落ちた。
遥香の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「どうして……お兄ちゃんが、これを……」
「どうして俺が知ってるのか?」
辰哉は低く言い放つ。次の瞬間、遥香の首をつかみ、ソファに押し倒した。真っ赤に充血した目には、抑えきれない怒りが宿っている。
「あのギャラリーがお前のものだってことも、お前がなぜ火をつけたのかも知ってるぞ!
ギャラリーのオーナーが目障りだからじゃないよな。お前は、自分の娘を殺そうとしたんだ!」
首を絞められ、遥香の顔が赤黒くなる。彼女は必死にもがきながら、辰哉の腕を爪で引っかく。
「はな……して……っ!」
しかし辰哉はさらに手に力を込める。その目には、今にも溢れ出しそうな殺意が宿っている。
「どうしてこんなことをした!?自分の娘だろう!親なら、どんなことがあっても子どもを守るものじゃないのか!遥香、お前はそれでも人間か!」
「ク、クッ!」
遥香が窒息し、白目をむきそうになったそのとき、ようやく辰哉は我に返った。残されたわずかな理性で、かろうじて手を離した。
遥香は床に崩れ落ち、貪るように空気を吸い込む。涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしている。
だが、怒り狂っている辰哉を見上げると、彼女は突然、糸が切れたように甲高い声で笑い出した。
「アハハハハ!そうよ!私がやったの!それがどうしたっていうのよ!」
遥香はソファにつかまりながら立ち上がる。乱れた髪の隙間から覗く顔は、醜く歪んでいる。
「あのガキ、生まれてこなければよかったのよ!私の人生の汚点よ。あいつのせいで、全部めちゃくちゃになった!あいつさえいなければ、私はとっくに西園寺家の奥様になったのに!
あいつの顔を見るたびに、吐き気がしたわ!死ねばいいってずっと思ってた!
火をつけて焼き殺して、何が悪いのよ!?」
辰哉はよろめきながら後ずさった。目の前にいる妹が、まるで見知らぬ化け物のように思えたのだろう。
「お前……狂ってる」
「私は狂ってなんかない!」
遥香は甲高い声で叫び、辰哉を指差す。
「一番死ぬべきだったのは美夕よ!あいつが余計なことをしなければ、あのガキはとっくに死んでたのに!
全部あいつのせいよ!あいつが私の人生を壊したの!」
パァンッ!乾いた音が、リビングに響き渡った。遥香の頬を打った辰哉の手が震え、唇もわなないている。
「お前、分かってんのか。美夕はお前の娘を助けるために、落ちてきた梁に挟まれて……生きたまま焼かれたんだぞ!
美夕はお前に殺されたんだ!」
遥香は赤く腫れた頬を押さえ、憎しみに満ちた目で辰哉を睨みつける。
「だから何よ?あんなバカ女、死んで当然よ!お兄ちゃん、まさか赤の他人のために、私を責めるつもり?
私たちは、家族じゃないの!」
これほどおぞましいことを当たり前のように言い放つ遥香の顔を見て、辰哉は、心臓を握り潰されたかのような痛みに襲われ、呼吸すらできなくなってしまう。
家族……
辰哉はその「家族」のために、私を追い詰め、律希を死に追いやった。
結局のところ、彼が血眼になって守ろうとしていたのは、自分の娘を殺そうとした、正真正銘の化け物だったのだ。
目の前が真っ暗になり、辰哉は完全に意識を失った。
第5話
辰哉が目を覚ますと、そこは病院の特別個室だった。
鼻をつく消毒液の匂いに、思わず眉をひそめる。
体を支えて起き上がると、手の甲に点滴の針が刺さっているのに気づく。
木下家のかかりつけ医がベッドのそばに控えており、辰哉が目を覚ましたのを見ると恭しく口を開く。
「社長、お目覚めになりましたか。精神的な負担と過労が重なっただけですので、少し休まれれば問題ありません」
辰哉は何も言わず、点滴の針を引き抜き、布団をはねのけてベッドから降りようとする。
「社長、どちらへ行かれるのですか!」
「失せろ」
ひどくかすれた声が響いた。
靴を履くと、そのまま魂の抜けたような足取りで病室を出ていく。
家にも帰らず、会社にも行かない。辰哉は何かに導かれるように車を走らせ、かつて私と暮らしていた高級マンションへ向かった。
その部屋には、3年前に私が「失踪」して以来、一度も戻っていない。
うっすらとほこりの積もったドアの前に立ち、震える手でポケットから長いあいだ使われず、錆びついた鍵を取り出す。
何度か試して、ようやく鍵穴に差し込むことができた。
カチャッ。ドアが開く。
淀んだカビの匂いが、一気に鼻をつく。
部屋の中は、どこも分厚いほこりに覆われている。汚れた窓から差し込む光が、空中を舞う無数のほこりを浮かび上がらせている。
辰哉は中へ足を踏み入れるのをためらっている。まるでここが、魂が眠っている神聖な場所であるかのようだ。
その背後にふわりと浮かびながら、かつて私たちの思い出や言い争いが詰まったこの部屋へ、辰哉が入っていくのを見つめている。
彼の視線が、玄関のシューズボックスに止まる。
そこには、私がよく履いていた白いスニーカーが置かれたままだ。何度も洗ったせいで、すっかり色あせている。
私が「これ、すごく履きやすいの」といつも言っていたことを、彼は覚えているのだろうか。
辰哉はあのとき、安っぽくて、木下グループの社長の婚約者にはふさわしくないと嫌がっていた。何度も捨てようとしたが、そのたびに私が止めた。
伸ばした手が、靴に触れる寸前で止まる。まるで手に、目に見えない血がべっとりとこびりついているかのようだ。
辰哉はリビングへ入る。
そこにあるベージュの布張りソファは、私が食費を切り詰め、3か月かけてようやく買ったものだ。
座面の1箇所がわずかにへこんでいる。それは辰哉がひどく酔っ払って帰ってきて、私一人ではベッドまで運べず、ここで寝かせるしかなかったときにできた跡だ。そんな夜、私は決まって朝までそばに付き添っていた。
壁には、二人で撮ったたった1枚の写真が飾られている。
遊園地で撮ったものだ。私は子どものように笑いながら、大きな綿あめを手にしている。その隣では、無理やり腕を引っ張られた辰哉が、いかにも不機嫌そうな顔をしている。
しかし今、自分の仏頂面を見つめながら、辰哉の目頭が赤くなる。
辰哉は寝室へ入る。
ドレッサーの上には、私が使いかけのまま残したスキンケアが並んでいる。どれもプチプラブランドばかりだ。
辰哉は、それを何度も馬鹿にしていた。「そんな安物、よく使えるな」そう言って、私を笑った。
彼は、私が節約して貯めたお金を、すべて律希の治療費のために貯金していたことを知らなかった。
ベッドサイドの引き出しを開ける。
その中には、小さな箱が静かに横たわっている。
蓋を開けると、シンプルなデザインの銀色の指輪が、2つ並んで収められている。内側にはそれぞれ文字が刻まれている。
【辰】と【夕】。
それは、私が初めてデザインの仕事でもらった報酬で、内緒でオーダーメイドしたものだ。
辰哉の誕生日に、サプライズで渡すつもりだった。
しかし誕生日当日、彼はずっと帰国したばかりの遥香と一緒にいた。
私は一晩中彼を待ったが、結局帰ってくることはなかった。
この指輪を渡す機会も、二度と訪れなかった。
辰哉は「辰」の字が刻まれた男物の指輪を手に取ると、強く握りしめた。硬い金属の縁が、手のひらに食い込んで、鈍い痛みが走った。
「あぁ――っ!」
突然、押し殺していた感情を抑えきれなくなり、辰哉は獣のような叫び声を上げた。
その場に崩れ落ち、冷たい床に顔を伏せる。肩が激しく震えている。
涙が静かにこぼれ、分厚く積もったほこりを濡らしていく。
「美夕……美夕……」
私の名前を、何度も呼び続ける。ひどくかすれた声は後悔に満ちている。
「すまない……許してくれ……」
泣き崩れる辰哉の姿を、私はただ冷ややかに見下ろしている。
辰哉、あんたの謝罪はあまりにも遅すぎる。
私にはもう、聞こえない。