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嵐の夜、身代わりの姉は死んだ
私たちの町には、古い掟がある。 双子が生まれたら、片方を罰を受ける「見せしめ」とし、もう片方にそれを見せて戒めなければ、子供は無事に育たないというのだ。 私、柚木静音(ゆずき しずね)は妹の柚木結衣(ゆずき ゆい)より4分早く生まれたというだけで、その「見せしめ」に選ばれた。 妹がこっそり川へ泳ぎに行った時、母は妹をただの一言も叱らず、私の頭を何度も川の水に沈めた。 妹が恐怖のあまり「もう二度と川には行かない」と泣き叫んで、ようやく母は手を離した。 妹が炊飯器のスイッチを押し忘れ、母が仕事から帰ってきた時、中の米はまだ生のままだった。 母は生米がよそわれた茶碗を2つ、私の前にドンと置いた。 「全部食べなさい。一粒も残すんじゃないわよ」 生の米を噛み砕くうちに口の中は血だらけになった。母はその間ずっと妹の表情を見つめ、妹が泣き出すのを見てようやく満足げに茶碗を下げた。 私は16年間、ずっと「見せしめ」として生きてきた。 あの年、台風の特別警報が発令され、町民全員が夜通しで避難することになった。 しかし妹は、深夜まで同級生と遊び呆け、全身ずぶ濡れでヘラヘラと笑いながら帰ってきたのだ。 母は妹を避難用の車に押し込むと、私を振り返り、ひどく淡々とした声で言った。 「あなたは残りなさい。台風が過ぎれば、結衣もこれからは早く帰ってくるようになるでしょう」 町の人間は、全員いなくなった。 屋根の瓦が、1枚、また1枚と吹き飛ばされていく。 お母さん。見せしめ、見せしめって言うけれど。 今回ばかりは、見せしめにされた私は本当に死んでしまうよ。 これで、満足してくれただろうか。
チャプター (1)
第1話
私たちの町には、古い掟がある。
双子が生まれたら、片方を罰を受ける「見せしめ」とし、もう片方にそれを見せて戒めなければ、子供は無事に育たないというのだ。
私、柚木静音(ゆずき しずね)は妹の柚木結衣(ゆずき ゆい)より4分早く生まれたというだけで、その「見せしめ」に選ばれた。
妹がこっそり川へ泳ぎに行った時、母は妹をただの一言も叱らず、私の頭を何度も川の水に沈めた。
妹が恐怖のあまり「もう二度と川には行かない」と泣き叫んで、ようやく母は手を離した。
妹が炊飯器のスイッチを押し忘れ、母が仕事から帰ってきた時、中の米はまだ生のままだった。
母は生米がよそわれた茶碗を2つ、私の前にドンと置いた。
「全部食べなさい。一粒も残すんじゃないわよ」
生の米を噛み砕くうちに口の中は血だらけになった。母はその間ずっと妹の表情を見つめ、妹が泣き出すのを見てようやく満足げに茶碗を下げた。
私は16年間、ずっと「見せしめ」として生きてきた。
あの年、台風の特別警報が発令され、町民全員が夜通しで避難することになった。
しかし妹は、深夜まで同級生と遊び呆け、全身ずぶ濡れでヘラヘラと笑いながら帰ってきたのだ。
母は妹を避難用の車に押し込むと、私を振り返り、ひどく淡々とした声で言った。
「あなたは残りなさい。台風が過ぎれば、結衣もこれからは早く帰ってくるようになるでしょう」
町の人間は、全員いなくなった。
屋根の瓦が、1枚、また1枚と吹き飛ばされていく。
お母さん。見せしめ、見せしめって言うけれど。
今回ばかりは、見せしめにされた私は本当に死んでしまうよ。
これで、満足してくれただろうか。
第1話
「結衣のやつ、またどこへほっつき歩いてるの!今夜は超大型台風が来るっていうのに!」
母である柚木春子(ゆずき はるこ)は、居間をぐるぐると歩き回っていた。
窓の外は異常なほど暗く、暴風が庭のブリキのタライを転がし、ガンガンと壁にぶつかる音を立てている。
町の防災無線は、すでに3回も同じアナウンスを繰り返していた。
「特別警報発令。全町民は直ちに避難してください。20分後に救助車両が町の入り口に到着します」
母が猛烈な勢いで私を睨みつけた。その目には怒りの炎が燃え盛っている。
「あんた!今すぐ結衣を探してきなさい!」
私は窓の外に目をやった。
雨は降っているというより、バケツをひっくり返したように叩きつけている。
庭の木々は風で地面に張り付くほどしなり、塀のそばの鶏小屋は吹き飛ばされ、数羽の鶏がバタバタと軒下へ逃げ込んでいた。
「お母さん、結衣は友達の家に遊びに行くって……それに、今は外……」
「誰の家だろうと知ったことじゃないわ!今すぐ連れ戻してきなさい!見つかるまで帰ってくるんじゃないわよ!」
母は私の言葉を乱暴に遮った。
私は無意識に、部屋の隅に座っている父、柚木健一(ゆずき けんいち)を見た。
父の唇がわずかに動く。
「外はさすがに風が強すぎる。もう少し待ってみては……」
「あなたは黙ってて!」
母は振り向きもせずに怒鳴りつけた。
「結衣に何かあったら、責任取れるの!」
父はそれきり、口を閉ざした。
私は底が剥がれかけたサンダルを履き、玄関のドアを開けた。その瞬間、突風に煽られて吹き飛ばされそうになった。
壁伝いに、よろめきながら前へ進む。道路の冠水はすでに足首の高さを超えていた。
町の西側にある、結衣の友達の家へ向かおうとした時のことだ。
「わあ、風が強くて涼しい!」
背後から、ヘラヘラとした笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、路地の入り口から結衣が走ってくるのが見えた。濡れた髪が顔に張り付いているが、その表情は興奮に満ちている。
母はいつの間にか、玄関の前に飛び出していた。
母は結衣を強く抱きしめ、全身をくまなく触って確かめながら、心底心配したような、安堵したような声を出した。
「やっと帰ってきた!濡れなかった?寒くない?早く家に入って着替えなさい、風邪を引くわよ」
私は豪雨の中に立ち尽くし、全身ずぶ濡れで、寒さと風のせいでガタガタと震えていた。
母は、私には一瞥もくれなかった。
ちょうどその時、救助車両が到着した。
ヘッドライトが雨の中に2筋の光の柱を作り、拡声器が何度も急かしている。
「町民の皆様は直ちに車に乗ってください!緊急避難です!」
母は毛布で結衣を包み込み、車の後部座席に押し込んだ。
私もその後ろに続き、車のステップに足を掛けようとした、その瞬間だった。
「何してるの?」
母が私の腕を強く掴んで引き留めた。
「うちの掟は分かってるわね。結衣が遊び呆けて、こんな夜中まで帰ってこなかった。
あなたはここに残って、恐怖というものを結衣に教えなさい」
私は呆然とした。
車の中の妹が焦ったように窓に張り付き、叫んだ。
「お母さん、やめて!お姉ちゃんが残ったら死んじゃうよ!外はこんな台風なのに……」
「今になって怖くなったの?遊びに行った時は随分楽しかったじゃない!」
母は鋭い声で結衣を遮った。
「お姉ちゃんはね、あなたのせいで罰を受けるのよ!」
結衣は怒鳴られて身を縮め、大粒の涙をポロポロとこぼした。
近くにいた町民が見かねて声を上げた。
「春子さん、今回の台風は死人が出るレベルだ!あんたの家の瓦屋根じゃ、絶対に持ちこたえられない!」
しかし、母は全く動じなかった。
彼女は一度家に戻り、再び出てきた時には、飼い犬の太郎(たろう)を抱えていた。
母は太郎を最後の空席に押し込み、堂々と言い放った。
「太郎は犬だから隠れる場所も分からないでしょう。連れて行かないと」
そして顔を上げ、私をちらりと見た。
「静音、あんたは人間なんだから、自分で隠れる場所くらい見つけられるでしょう!」
助手席に座っていた父が口を開きかけた。
しかし母が鋭く睨みつけると、父は窓の外へ顔を向けてしまった。
車のドアが閉まった。
雨水でぼやけた窓ガラス越しに、結衣が必死にガラスを叩き、何かを叫んでいるのが見えた。
だが風の音が強すぎて、何も聞こえない。
母は結衣の頭を押さえつけ、私を見ないようにさせた。
エンジンがかかり、テールランプが豪雨の中に2筋の赤い線を引いて、どんどん遠く、小さくなっていく。
やがて、何も見えなくなった。
霞丘町(かすみがおかちょう)の街灯が、1つ、また1つと消えていく。
私だけが、暴風雨の中に取り残された。
その時、暗闇の中から誰かの声が響いた。
「ここ、席が空いてるぞ!」
第2話
声は、列の最後尾にある車から聞こえてきた。
私は必死に目を細めたが、雨が視界を遮ってよく見えない。
車のドアの陰から、背中の曲がった人影が身を乗り出し、私に向かって手を振っていた。
隣に住む、佐藤のおじいさんだった。
彼には子供がおらず、奥さんにも早くに先立たれ、町の入り口の家で一生を過ごしてきた。
物心ついた頃から、佐藤おじいさんは私を本当の孫のように可愛がってくれた。
私が母に食事を抜かれる罰を受けた時は、母の目を盗んで裏口から温かい料理を差し入れてくれた。
お正月には私と結衣にそれぞれお年玉をくれるのだが、毎回こっそりと、私の袋にだけ2000円多く入れてくれた。
彼は座席から身を乗り出し、わずかなスペースを作って私に叫んだ。
「静音ちゃん、早く乗りな!詰めれば座れるから!」
私はその車に向かって全力で走った。
おじいさんはすでに私を引き上げようと手を伸ばしている。
私の指先が、おじいさんの手に触れようとした、まさにその時だった。
「その佐藤の爺さんは人さらいよ!」
突然、前の車から母の叫び声が響き渡った。
母はいつの間にか窓を開け、半身を乗り出して佐藤おじいさんを指差し、金切り声を上げていた。
「その男はうちの娘を拉致しようとしてるのよ!娘をその車に乗せちゃ駄目!」
私の手は宙に浮いたまま凍りついた。
佐藤おじいさんも、一瞬呆然としていた。
彼は72年間生き、この町に72年間住み続けている。
今まで誰一人として、彼をそんな風に呼んだ者はいなかった。
「は、春子、何を言ってるんだ?」
佐藤のおじいさんの声は震えていた。
「私だ!佐藤茂(さとう しげる)だよ!あんたの家の隣にもう何年住んでると思ってる?あんたの父親が生きてた頃は、私のことを兄貴分だって慕ってくれてたじゃないか!」
「誰だろうと関係ないわ!身寄りのない爺さんが、他人の家の女の子にばかり構って。どんな下心があるか分かったもんじゃないわ!」
車に乗っていた町民たちが一斉にざわめき、怒りの声を上げた。
「春子さん、頭おかしくなったのか?佐藤さんはあんたが子供の頃から知ってるんだぞ!」
「そうだ!よくそんな酷いことが言えるな!」
1人のおばさんが立ち上がって罵倒した。
「こんな猛烈な台風じゃ、あんたの家の瓦屋根なんて、一瞬で吹き飛ぶわよ!本気で娘を殺す気なの!」
おじいさんは怒りで唇を白くし、激しく震える手で母を指差した。
「わ、私が静音ちゃんに良くするのは、この子が可哀想だからだ!あんたがこの子にどんな仕打ちをしてるか、町の人間なら誰だって知ってるぞ!」
「私の娘よ!私がどう教育しようと、あなたには関係ないでしょ!」
母は瞬き一つせずに言い返した。
「私の娘はね、自分の家にいるのが一番安全なのよ!」
私は豪雨の中に立ち尽くし、母が乗る車を見た。
助手席に座る父の手が、ドアハンドルにかかっているのが見えた。
次の瞬間、母がゆっくりと首を回し、父を睨みつけた。
「もしそのドアを開けたら、明日には娘2人を連れて実家に帰るわよ!
一生、この子たちには会わせないから!」
父は、指を一本、また一本とドアハンドルから離していった。
彼は別の方向へ顔を向け、二度と私を見ることはなかった。
私はそこに立ち尽くしていた。
頭から雨水が降り注ぎ、目の中に流れ込んでくる。それが雨なのか、別のものなのか、もう分からなかった。
救助隊の隊長が先頭の車から飛び降り、空模様を見て青ざめた顔で叫んだ。
「最終警告です!台風の暴風域が1時間後に通過します!今すぐ出発しないと、全員が取り残されます!」
佐藤おじいさんは、2人の町民に抱えられて無理やり車内へ戻された。
彼はドア枠に必死にしがみつき、私に向かって絶叫した。
「静音ちゃん、逃げなさい!町外れの公民館へ走るんだ!あそこは鉄筋コンクリートだから持ちこたえられる!
聞こえるか!公民館へ走れ……!」
車のドアが、強く閉められた。
エンジンが次々と唸りを上げる。
私はその場に立ち尽くし、車が1つずつ走り出すのを見送った。
最後の車の灯りも、やがて見えなくなった。
霞丘町は、完全な闇に包まれた。
私は踵を返し、町外れに向かって走り出した。
佐藤おじいさんが言っていた公民館は町の一番奥にあり、古い商店街を丸々1本通り抜けなければならない。
風が強すぎて、まともに走ることすらできなかった。1歩進むごとに、壁にしがみつかなければ吹き飛ばされてしまう。
頭上の瓦が次々と吹き飛ばされ、地面に叩きつけられて粉々になる。
商店街の真ん中にある大きなクスノキが強風で根こそぎ倒され、道路のど真ん中に激突して、道を完全に塞いでしまった。
私は家に戻るしかなかった。
瓦屋根はすでに半分が吹き飛んでいた。
雨水が室内に降り注ぎ、居間の床は水浸しになっている。
私は土間にある古いかまどの陰に丸く縮こまった。
ここは三方がレンガの壁で囲まれ、上にはコンクリートの板があるため、かろうじて頭上を守ることができる。
ドアの隙間や壁のひび割れから、泥水が絶え間なく流れ込んでくる。
最初は足首、次にふくらはぎまで達した。
私は膝を抱えて丸くなり、歯の根が合わないほど全身を震わせていた。
その時、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。
第3話
結衣からの着信だった。
「お姉ちゃん!無事なの!今どこ!」
結衣の声は涙声だった。
「大丈夫よ」
私は歯を食いしばり、声が震えないようにして答えた。
「そっちは着いたの?」
「着いたよ!市内の避難所になっているホテル。お湯も出るし毛布もあるし、職員の人が温かい豚汁も作ってくれて……」
彼女は話しながら再び泣き出した。
「お姉ちゃん、私怖いよ。お姉ちゃんが1人で家に残されて、どうなっちゃうの……」
頭上で轟音が響いた。
瓦屋根の残っていた半分が、丸ごと吹き飛ばされたのだ。
暴風雨が一瞬にして室内に吹き込み、頭から顔まで容赦なく打ちつけた。
私は悲鳴を上げ、危うくスマートフォンを落としかけた。
「お姉ちゃん!どうしたの!今の音は何!」
「な……なんでもない、瓦が何枚か飛んだだけ……」
電波が途切れ途切れになり始めた。
結衣の声が細切れになって聞こえる。
「お姉……聞こえ……る……」
電波が再び戻ったが、アンテナは1本しか立っていない。
電話の向こうで、結衣が泣き叫ぶ声が聞こえた。
「お母さん!家の屋根が崩れたみたい!早くなんとかしてよ!」
そして、母の声が聞こえた。
「まだ電話ができるんだから、ピンピンしてる証拠でしょ。大げさに騒ぎすぎなのよ」
水かさは、すでに私の膝を越えていた。
「お母さん!大げさなんかじゃないよ!今の音聞こえなかったの!お姉ちゃんが……」
「家の中にいて何があるっていうのよ。一昨年にあのかまどは補強したばかりだから、頑丈にできてるわ!静音がこれくらいの雨風も耐えられないようなら、将来社会に出てやっていけないわよ!」
電話の向こうで、父がこもった声でボソッと言った。
「やっぱり誰かに様子を見に行ってもらった方が……」
「あなたは何も分かってない!」
母の一言で、父はまた黙らされた。
そして母は、電話口の結衣に向かって言った。
「もういいわ、お姉ちゃんに電話を切りなさいって言いな。通話料の無駄よ」
私は水の中にしゃがみ込んだまま、何も言えなかった。
水はすでに太ももまで達している。
アンテナの1本が、点滅している。
結衣はまだ泣きながら、途切れ途切れに私に呼びかけていた。
「お姉ちゃん……なんとかして、高いところへ登って……」
その言葉の直後、電話の向こうから突然、見知らぬ男の切羽詰まった声が聞こえた。
「お嬢ちゃん、誰と電話してるんだ?」
結衣はしゃくりあげながら答えた。
「お姉ちゃん……家にいて、逃げ遅れたの……」
「なんだって!?」
その声は一瞬にして大きくなった。
「あの町にまだ逃げ遅れた人がいるのか!?親御さんはどこだ!あっちはすでに土砂災害警戒情報が出てるんだぞ!死んでしまう!」
電話の向こうが急に騒がしくなった。
何人もの人が同時に話しているのが聞こえる。誰かが「すぐに救助隊に連絡しろ!」と叫び、別の誰かが「一体あと何人残ってるんだ!」と怒号を飛ばしている。
その職員の声が、すべての音をかき消した。
「親御さんはいますか!ちょっと来てください!どうして子供1人をあんな場所に残してきたんですか!」
そして、母の声が聞こえてきた。
「死にはしませんよ。あの子はしぶといですから」
次の瞬間、電話は切れた。
それと同時に、電波も完全に圏外になった。
スマートフォンの画面の光も消えた。
「死にはしませんよ。あの子は悪運が強いんですから」
その言葉が、私の頭の中を何度も何度もぐるぐると回った。
水は腰に達し、胸の高さまで上がってきた。
かまどの下の空間は、どんどん狭くなっていく。
私はレンガの柱に抱きつき、爪を隙間に食い込ませた。
寒い。
水も氷のように冷たく、風も氷のように冷たい。頭からつま先まで、すべてが凍りつきそうだった。
思い出した。小さい頃、結衣が遊びに夢中になって上着を着忘れ、風邪を引いたことがあった。
母はその日の夜、私にパジャマ姿のまま真冬の庭に立つよう命じた。私が40度の熱を出し、結衣が恐怖で大泣きするまで、母は私を家に入れようとしなかった。
今回の寒さは、あの冬の夜の寒さよりも、100倍も冷たい。
水が首まで浸かってきた。
もう柱にしがみつくこともできない。指先の力は完全に抜け落ちていた。
もういい。これ以上もがくのはやめよう。
お母さんは私の悪運が強いって言っていたけれど……お母さん、私、そんなに強くないよ。
耳にはもう何も聞こえない。意識が、少しずつ上へと浮かんでいく。
意識が完全に途切れる直前のこと。誰かが大声で叫ぶのが聞こえた。
「ここに人がいるぞ!」
第4話
ボランティアの救助員が私をボートに引き上げ、3回にわたる心肺蘇生を行って、私はようやく水を吐き出し、微弱な心拍を取り戻した。
市内の病院に搬送された時、救急医は私の状態を見るなり顔色を変えた。
「溺水による長時間の窒息、肺には大量の水が溜まっている!挿管の準備、手術室に連絡!」
そして医師は廊下に向かって叫んだ。
「ご家族は!同意書にサインをお願いします!」
廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
母は慌てる様子もなく、ゆっくりと歩いてきた。
「誰が助けてくれと頼みましたか?」
その場にいた全員が、呆然とした。
「なんだ、死んでないじゃないですか。どうせ死んだふりをしているんでしょう。小さい頃から演技だけは得意なんですよ」
1人の看護師が真っ先に我に返り、厳しい声で怒鳴った。
「何を言ってるんですか!あと半歩遅ければ、この子は死んでたんですよ!今すぐ手術の同意書にサインしてください!これ以上遅れたら、助かる命も助かりません!」
母は看護師を完全に無視した。
彼女は振り返り、壁の隅に立っている結衣を見た。その顔は真っ白で、唇を震わせ、一言も発することができないでいた。
母は結衣を見つめ、淡々とした口調で言った。
「自分が悪いことをしたって、分かった?」
結衣は狂ったように何度も頷き、大粒の涙をポロポロと床にこぼした。
「頷くだけじゃ駄目よ」
母はバッグからボールペンと紙を取り出し、結衣の前にバンッと叩きつけた。
「書きなさい。反省文、300字。書き終わって、自分の過ちを本当に自覚したら、サインしてあげる」
看護師がたまりかねて怒鳴った。
「正気ですか!中で子供が手術を待ってるんですよ!1分遅れるごとに……」
「自分の娘を躾てるんです。あなたに口出しされる筋合いはありません」
母は看護師に目を向けることすらなく、パイプ椅子を引き寄せて座り、スマートフォンを取り出してショート動画を見始めた。
処置室から再び医師が飛び出してきた。
「ご家族!同意書のサインはまだですか!」
誰も医師に答えなかった。
結衣は廊下の長椅子にうつ伏せになり、震える手でペンを握って書き始めた。
涙が紙に落ちて文字を滲ませた。
やがて彼女は手を止め、母を見上げた。
「お母さん……お願い……先にサインしてよ……これは、お姉ちゃんのせいじゃない……」
「お姉ちゃんのせいじゃないわ」
母は顔も上げず、画面を見つめたまま答えた。
「でもね、見せしめが必要なの。お姉ちゃんがああして罰を受ける姿を見てこそ、自分が間違ったということをあなたは一生忘れないでしょう。私に口答えしてる暇があるなら、早く書きなさい」
結衣は唇を噛み締め、うつむいて再びペンを走らせた。
手が震えて文字は歪み、一行書き終わる前に涙でぐしゃぐしゃになった。
父が処置室のランプを見て、スマートフォンを眺める母を見た。
「春子……もう十分だろう。先にサインしてやってくれ、あの子が……」
「あなたはいつも『もう十分だろう』って言うのよ」
母はようやく少しだけ目を上げた。
「だからあの子は毎回学習しないの。あなたは口出ししないで」
父の声は、またしてもそこで途切れた。
その時、結衣のペンが止まった。
彼女は椅子から滑り落ちるようにして床に跪き、涙でびしょ濡れになった紙を頭上に掲げた。
「お母さん!書き終わった!お願いだからお姉ちゃんを助けて!お願い!」
母はその紙を受け取った。
最初から最後まで真剣な目つきで目を通した。
そして言った。
「字が少し汚いね。これじゃ受験で減点されるわよ。今回は許してあげるけど」
母は反省文を丁寧に折りたたんでバッグにしまい、ゆっくりと立ち上がった。
彼女は処置室の方をちらりと見やり、どこか感慨深げな声で言った。
「今回はお姉ちゃんも辛い思いをしたわね。でも、あなたが自分の過ちに気づけたんだから、お姉ちゃんが受けた罰にも十分な意味があったのよ。
台風が過ぎたら、新しいワンピースを買ってあげて、埋め合わせをしましょう。
私も、あの子のためを思ってやってるんだから」
彼女は看護師に向き直り、ペンを取った。
「同意書を貸してください……」
ちょうどその時、処置室のランプが消えた。
医師が出てきて、マスクを外した。
「もう結構です。懸命な蘇生措置を行いましたが、患者さんはすでに亡くなられています」