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結婚する前、ウェディングドレスが血に染めた件
SNSで高瀬智哉(たかせ ともや)との結婚を報告した直後、私、水城望美(みずき のぞみ)はまた、彼の幼なじみ小宮莉奈(こみや りな)から嫌がらせを受けた。 突然、頭から何かを浴びせられ、生臭さが鼻をついた。真っ白だったウェディングドレスが、一瞬にして赤黒く染まった。家畜の血だった。 莉奈は悪びれる様子もなく、挑発するように私を見ていた。 私は怯まず、黙ったままの智哉に目を向けた。 「智哉が通報する?それとも私がする?」 今年に入って、もう9回目だ。 車をぶつけられたり、平手打ちされたり、SNSで誹謗中傷を浴びたりしたこともある。 私が智哉のことを投稿するたび、次から次へと嫌がらせが待っていた。 それでも、智哉に頼まれると、私はいつも莉奈を許してきた。 けれど、今回は迷わず110番した。 次の瞬間、それまで黙って見ていた智哉が、私の手からスマホを奪い取り、床へ叩きつけた。 砕けた破片が飛び散る中、智哉は険しい顔で私を睨んだ。 「そこまですることかよ!たかが血をかけられたくらいで!」 私は顔についた血を静かに拭い、頷いた。 「するよ。智哉、この結婚はもうなし」
チャプター (1)
第1話
SNSで高瀬智哉(たかせ ともや)との結婚を報告した直後、私、水城望美(みずき のぞみ)はまた、彼の幼なじみ小宮莉奈(こみや りな)から嫌がらせを受けた。
突然、頭から何かを浴びせられ、生臭さが鼻をついた。真っ白だったウェディングドレスが、一瞬にして赤黒く染まった。家畜の血だった。
莉奈は悪びれる様子もなく、挑発するように私を見ていた。
私は怯まず、黙ったままの智哉に目を向けた。
「智哉が通報する?それとも私がする?」
今年に入って、もう9回目だ。
車をぶつけられたり、平手打ちされたり、SNSで誹謗中傷を浴びたりしたこともある。
私が智哉のことを投稿するたび、次から次へと嫌がらせが待っていた。
それでも、智哉に頼まれると、私はいつも莉奈を許してきた。
けれど、今回は迷わず110番した。
次の瞬間、それまで黙って見ていた智哉が、私の手からスマホを奪い取り、床へ叩きつけた。
砕けた破片が飛び散る中、智哉は険しい顔で私を睨んだ。
「そこまですることかよ!たかが血をかけられたくらいで!」
私は顔についた血を静かに拭い、頷いた。
「するよ。智哉、この結婚はもうなし」
第1話
智哉の顔から、さっと血の気が引いた。
けれど、彼が何か言うより先に、莉奈が声を張り上げた。
「誰を脅してんの?『結婚はなし』なんでしょ?だったら勝手にすれば!この泥棒猫!智哉を横取りしたくせに、今さら被害者ぶらないでよ!」
その一言で、周囲の視線が一斉に変わった。
莉奈にこんなふうに濡れ衣を着せられるのは、これが初めてではない。
智哉と付き合ったことなど一度もないくせに、莉奈はずっと私を浮気相手にしていた。
私の家族に何度も連絡して嫌がらせをし、勤務先にまで押しかけてきては罵声を浴びせる。SNSでは、私が男遊びの激しい女だなんて、根も葉もない話まで広められた。
そのせいで、知らない男から卑猥なメッセージがひっきりなしに届くようになった。
この1年、私は何度も悪夢にうなされて飛び起き、髪もひどく抜け、心身ともに限界を迎えて重度のうつ病と診断された。
けれど、智哉の言うことはいつも同じだった。
「まあまあ、莉奈もまだ若いんだし、そのうち落ち着くって。望美もいちいち相手にしないで、少しくらい大目に見てやれよ」
耐えて、耐えて、耐え抜いてきた。けれど、我慢すればするほど、莉奈の嫌がらせはエスカレートしていった。
もう、うんざりだ。
私は血まみれのベールを静かに外した。周囲から驚きの声が上がる中、そのまま振り返ることなくブライダルサロンを出た。
背後から、慌ただしい足音が追ってくる。けれど、その手が私に届くより先に、莉奈が胸元を押さえ、甲高い悲鳴を上げた。
「智哉!」
その瞬間、智哉はぴたりと足を止めた。振り返ると、苦しそうにうずくまる莉奈を見るなり、すぐに抱き上げ、そのまま慌ただしく外へ向かった。私の横を通り過ぎるときでさえ、こちらを一度も見なかった。
その腕の中で、莉奈がそっと目を開けた。そして私に、嘲るような笑みを向けた。
私は冷めた目でそれを見ていた。あんな見え透いた仮病の芝居、もう数え切れないほど見せられてきた。
それなのに、頭の切れる智哉は毎回きれいに騙される。
一度だけ、どうしても納得がいかなくて、智哉を引き留めようと腕を掴んだことがあった。
智哉は怒鳴りもしなかった。ただ、私をじっと見つめて言った。
「うつ病って、心の優しい人ほどなりやすいって言うけど……あれ、嘘だったのかな」
その瞬間、全身から血の気が引いた。死んでしまいたいとさえ思った。
結局、智哉は莉奈のもとへ行った。私は一人取り残され、うつが悪化して、家で狂ったように自傷を繰り返した。
床が血の海になったその夜、莉奈は智哉と二人でクレーンゲームをしてはしゃぐ写真をSNSにアップしていた。
あの日できた醜く歪んだ傷跡は、今も私の手首に残っている。私はそこへ目を落とし、ふっと笑った。
家に帰ると、SNSのトップに固定していた結婚報告を削除した。
それから浴室へ入り、全身についた血をシャワーで洗い流す。
温かい湯が肌を伝った瞬間、あちこちに細かな傷ができていることに気づいた。
あの血には、細かく砕いたガラスまで混ぜられていたのだ。
刺すような痛みに耐えながら傷口を洗っていると、不意に背後から熱い体が密着してきた。
耳元で、智哉の掠れた声が降ってくる。
「望美……今日は俺が悪かった。許してくれないか?」
そう言いながら、彼の手がいやらしく私の体を這っていく。
私はその手首を掴んで振りほどき、バスタオルを取ると浴室を出た。
智哉は不満そうに顔を曇らせたものの、そのまま私についてきた。
私の隣に腰を下ろすなり、俯いたままぶつぶつと言い訳を始める。
「莉奈もさ、別に悪気があったわけじゃないんだよ。ちゃんと反省してるし、今日だって泣きながら、どうしても望美に謝りたいって……俺からもきつく叱っておいたからさ……」
智哉は一方的に話し続け、私の体が傷だらけになっていることにも、まるで気づかないまま。
第2話
目の前に婚約者がいるというのに、智哉の頭の中は莉奈のことでいっぱいらしい。
私が何も言わずにいると、智哉は次第に苛立ち始めた。
「望美もさ、莉奈がああなのは分かってるだろ。なんでわざわざ怒らせるようなことするんだよ」
頭の奥で、何かが切れたような気がした。私はゆっくり顔を上げ、智哉をまっすぐ見つめた。
こうして私のせいにされるのは、初めてではない。
去年、智哉と旅行に出かけたときのことだ。一緒に来ていた友人たちまで妙によそよそしく、何かを隠しているのは明らかだった。
もしかして、プロポーズされるのかもしれない。そう思った私はいつも以上におしゃれをして、浮かれた気分のまま写真をSNSに投稿した。
そのとき、うっかり位置情報まで載せてしまった。
そして、待ちに待ったプロポーズの最中。突然現れた莉奈に頬を平手打ちされ、私はその場に倒れ込んだ。着ていたキャミソールまで乱暴に引っ張られ、胸元が大きくはだけた。
友人たちが慌てて莉奈を取り押さえてくれたが、私が殴り返そうとした瞬間、智哉が莉奈を庇うように、私の前に立ちはだかった。
「なんで居場所なんか載せたんだよ!莉奈が見たらどうなるか、分かってただろ!」
唇から血を流し、髪を乱したまま、私は呆然と彼を見つめていた。
私がプロポーズされたその夜、智哉は友人たちの前で私を置き去りにし、莉奈を連れて行った。
あの日、私は誰からも哀れまれる存在になった。
そして1年後。同じことが、また繰り返されている。
でも、今度はもう我慢しない。
白い照明に照らされた部屋で、私は自分でも驚くほど冷静だった。
「式は中止よ。……全部、終わりにしましょう」
智哉が勢いよく立ち上がった。みるみる顔が強張っていく。
これまでの5年間、どんなことがあっても私からこんな言葉は口にできなかった。
この恋を始めたのは智哉だったのに、いつの間にか追いかけるのはいつも私になっていた。
だから智哉は、この関係を終わらせるのも自分だと信じて疑わなかったのだろう。
私のほうから離れていくなんて、考えたこともなかったはずだ。
智哉の目に怒りが滲んだ。
「……脅してんのかよ?」
脅しなのか。以前の私なら、別れると言えば、少しは私を大事にしてくれるんじゃないか。そんな期待が、どこかにあったのかもしれない。
でも、そんなものが通じるのは、相手に愛されている人だけだ。けれど、どう見ても智哉は私を愛していない。
私と莉奈、どちらかを選ばなければならない時、捨てられるのは、いつだって私だった。
こんな男はもう、いらない。
動揺を隠せない智哉は、私の手首を強く掴み、傷ついているようにも見えた。
「なんで信じてくれないんだよ!俺と莉奈の間には何もないって言っただろ!あいつ、父親がいないから放っておけないだけなんだ」
また「放っておけない」か、もう聞き飽きた。
智哉にとって、莉奈は少しわがままなだけの、放っておけない女の子なのだ。
私を殴っても、罵っても、人前で辱めても。それは全部、莉奈の「わがまま」で済まされる。
なのに、私が一度でもやり返せば、たちまち私が「悪女」扱いされる。
私みたいな「悪女」が、智哉を5年も愛してきた。
智哉が仕事を始めたばかりの頃から、うまくいかない時もずっとそばで支えてきた。
仕事関係の飲み会では、智哉ばかりが酒を飲まされないよう、私は進んで酒に付き合った。
すると莉奈は、私が男遊びの激しいアル中だという噂を広めた。
智哉、私……もう限界よ。
目尻から涙が一筋こぼれた。智哉のためではなく、この5年間、こんな恋にしがみついてきた自分が、ただ哀れだった。
智哉はしばらく私を見つめていた。やがて突然私の腕を掴むと、そのまま外へ連れ出し、車に押し込んだ。
行き先は、私たちが付き合い始めた場所だとすぐに分かった。
椎代山の山頂。
そこには、私たちの一番幸せだった頃の思い出がある。
けれど、智哉は知らない。私にとって、あの場所には忘れたくても忘れられない記憶もあることを。
付き合って2年目のことだった。二人で山頂から日の出を見ようと約束していた。
夜中の3時まで一緒に待っていたとき、莉奈から電話がかかってきた。
「望美、ここで待ってて。すぐ戻るから」
そう言い残し、智哉は泣いて引き止める私を置いて行った。
それから1時間ほどして、雨が降り始めた。
私は仕方なく、一人で真っ暗な山道を下りることにした。
ところが、山道を半分ほど下ったところで、不意に薄汚れたチンピラが現れた。
男はいやらしい目で私をじろじろ見たかと思うと、いきなり飛びかかり、地面に押し倒した。
男は臭い息を吐きながら私の顔に口を押しつけ、私が悲鳴を上げると、すぐさま頬を平手打ちした。
頭がくらくらして、次第に抵抗する力もなくなっていった。そんな中、地面についた手がふと石に触れ、私はとっさにそれをつかむと、力いっぱい男に叩きつけた。
その隙に一気に逃げ出し、そのまま山を駆け下りた。ようやく家までたどり着き、ドアを開けると、智哉は何事もなかったかのように、莉奈のためにホットココアを作っていた。
第3話
あの頃の私は、つまらない意地を張っていた。
あんな目に遭ったと知られたら、智哉に嫌われるんじゃないか。そう思うと、どうしても言えなかった。
結局、あの日のことは誰にも話せないまま、ずっと一人で抱えてきた。
車が椎代山へ近づくにつれ、息が苦しくなっていく。
「行かない……!絶対に行かないから!」
体が勝手に後ずさる。
そんな私を見て、智哉もとうとう声を荒らげた。私を強く抱きしめ、苦しげに叫ぶ。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!もう莉奈とは会わない。それでいいんだろ!」
夜の闇に、悲痛な声が響いた。
まるで追い詰められているのは智哉のほうで、私が無理難題を押しつけているみたいだった。
そのとき、智哉のスマホから聞き慣れた着信音が流れた。莉奈専用の着信音だ。
苛立っていた智哉は、電話に出るなり怒鳴った。
「いい加減にしろ!もう電話してくんな!」
けれど、向こうが何か言った途端、智哉の顔から血の気が引いた。
ついさっきの言葉など、もう頭から消えてしまったらしい。智哉は青ざめた顔で私の肩を掴んだ。
「望美……莉奈が死のうとしてる」
その指がちょうど私の傷口に食い込み、滲んだ血が智哉の指を濡らしていく。けれど、彼はそれにも気づかなかった。
痛みで全身が震えているのに、私の声は不思議なくらい冷静だった。
「……じゃあ、行けば」
智哉は迷いもしなかった。すぐに私から手を離す。
「望美、これで最後にする。約束するから」
私は遠ざかっていく背中をただ静かに見送った。悲しみも怒りもなく、ただやっと解放されたような気がした。
これが初めてではなく、これで最後にもならないと分かっていたからだ。
家に戻り、私は傷の手当てをした。しばらくすると、智哉から電話がかかってきた。
「望美、莉奈は無事だったけど、まだかなり不安定でさ。今から病院に連れてく。卒業のこともあって、最近ずっと参ってるみたいなんだ。だから今回は大目に見てやってくれないか?
あ、それとさ、俺今ここを離れられないから、代わりに莉奈の卒業祝いにドレスを一着見立ててくれないか?少しでも元気出させたくてさ。あいつのサイズはバスト85、ウエスト59で、体重は48キロで……」
莉奈のことなら、何でも知っている。そんな智哉の声を聞きながら、私はぼんやりとリビングを見た。そこには、ウェディングドレスが掛けられている。
人のことには、あんなに気が回る人なのに。私がドレスのウエストを少し大きめに直していたことには、気づかなかった。
結婚式の日に教えて、驚かせるつもりだった。
私はわずかに膨らみ始めたお腹に目を落とした。とうとう涙がこぼれた。
智哉をLINEでブロックした。そして、中絶手術を予約した。
翌朝、激しくドアを叩く音で目が覚めた。
扉を開けるなり、智哉が私の腕を掴んで乱暴に引っ張った。怒りを必死に押し殺しているのが分かった。
「望美、お前はずっと優しいやつだと思ってた。まさか……ここまでやるとは思わなかった」
何を言われているのか分からず、頭が真っ白になった。
智哉は嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てた。
「とぼけんなよ。莉奈が卒業できなくなったの、お前が裏で手を回したんだろ!」
莉奈が講義をサボって単位を落とし、卒業できなくなったことと、私に何の関係があるというのか。
言い返そうとした私を遮るように、智哉が鼻で笑った。
「黒田建吾(くろだ けんご)さん、広栄大学の教授だろ。関係ないなんて言わせないぞ」
――バチンッ!
その言葉を聞いた瞬間、何かがぷつりと切れた。気づけば、智哉の頬を平手打ちしていた。
私が継父の黒田と絶縁していることを、智哉は誰よりも知っているはずだった。
母の再婚後、一時は黒田姓を名乗っていた。けれど、あの男との関係を断ったあと、私は元の姓である水城に戻した。そこまでして、あの男との繋がりを捨てたかった。
5年前、弟と喧嘩したのをきっかけに、酒に酔ったあの男が私の部屋に押しかけてきた。そのままベッドに押さえつけられ、太い手で首を締め上げられた。
どれだけもがいてもあの男はびくともせず、水から引き上げられた魚のように、私は必死に息を求めることしかできなかった。もう駄目だと思ったそのとき、智哉が飛び込んできた。
怒り狂った智哉はあの男を殴り倒し、頭を何度も壁に叩きつけて半殺しにした。私は慌てて後ろから抱きついて止め、そこでようやく智哉は我に返った。
私が黒田をどれほど憎んでいるか、智哉は知っている。それなのに、私が黒田と手を組んで莉奈の卒業を邪魔したと思っているのだ。
指先から感覚がなくなり、全身が冷えていくようだった。
私は玄関を指さした。智哉をまっすぐ見て、一言ずつ告げる。
「出てって。……もう二度と、私の前に現れないで」
そう言い終えたとき、莉奈が飛び込んできて、その場に崩れ落ちるようにして土下座をした。
「望美さん……お願いですから、もう見逃してください!今まで私が悪かったなら謝りますから!でも、このまま卒業できなかったら、せっかくもらった内定まで取り消されるかもしれないんですよ……!私、これからどうしたらいいんですか……?」
第4話
莉奈は涙を流しながら、ひどく悲しげな顔をしていた。まるで、本当に私が彼女を傷つけたかのように。
智哉はそんな莉奈を痛ましそうに見つめ、すぐに体を支えて立たせると、私を睨みつけた。
「望美、いい加減にしろよ!ここまでやったんだ。ちゃんと責任取れ」
そう言うなり、智哉は私の腕を掴んで外へ引きずり出した。
嫌な予感がして、必死に抵抗した。
「待って……どこに連れてくの?」
「黒田さんのところだ」
一瞬、息が止まった。
母はもう黒田と離婚し、私もとっくに縁を切っている。
しかも、黒田は私を憎んでいる。今さらあの家へ行くなんて、自分から地獄へ足を踏み入れるようなものだった。
「嫌……絶対に嫌!」
昔の記憶が一気に蘇り、体が強張ると同時に涙が止まらなくなった。
それでも智哉は手を緩めず、抵抗する私を無理やり車に押し込んだ。
目は真っ赤なのに、一度も私と目を合わせようとしなかった。
「望美……俺、莉奈のお父さんに頼まれてるんだ。莉奈のこと、ちゃんと面倒見るって。今回のことは、お前がやりすぎだ」
車が黒田の家へ近づくほど、息が詰まり、胸が苦しくなっていった。
私は智哉の腕にしがみつき、必死にすがった。
「私じゃない……本当に何もしてない。お願い、智哉……あそこだけはやめて。殺される……!」
けれど、智哉の表情は冷たいままだった。私が何もしていないという言葉を、最初から信じる気などないのだ。
急ブレーキがかかり、車が止まった。目の前にあるあの家は、私には自分の墓のようにしか見えなかった。
智哉は車から降りると、私まで引きずり下ろした。
「もう誰がやったかなんていいんだよ。黒田さんが言ってる。望美を30分ここに置いていけば、莉奈が卒業できるように取り計らうって。
一応、親子だったんだろ。何もされないって」
玄関へ押し込まれる寸前、私はふっと冷静になった。
腹を決め、足を止めてゆっくりと振り返った。
「……私、妊娠してる。このまま入ったら、お腹の子まで殺される」
智哉の動きが止まり、私のお腹へ落ちた視線がわずかに揺れた。
けれど、彼が何か言うより早く、莉奈の冷ややかな声が飛んできた。
「いくらなんでも、その嘘は無理があるでしょ。智哉を引き止めるためなら、妊娠まで持ち出すなんて……」
智哉が躊躇したその瞬間、背後にいた莉奈が冷たく笑い、私の背中を強く突き飛ばした。
私は前につんのめり、革靴の前に倒れ込んだ。
背後で扉がゆっくりと閉まり、まるで私の命までそこで閉ざされたような気がした。
そこには、黒田がいた。口元にぞっとするような笑みを浮かべている。
「久しぶりだな、望美」
髪を掴まれ、一気に引き起こされた。
「痛っ……!」
悲鳴を上げた途端、大きな手で口を塞がれる。そのまま、昔使っていた部屋へ引きずられていった。
「母親そっくりだな。恩を仇で返しやがって。
昔はずいぶん威勢がよかったよな?そのお前が、今じゃ男にここまで連れてこられるとはな。どんな気分だ?」
次の瞬間、拳が私の頬に叩き込まれ、目の前が真っ暗になった。
助けを呼びたかった。けれど、仮に智哉がまだ外にいたとしても、私の声など届くはずもないだろう。それでも、今の私には、彼に助けを求めるしかなかったのだ。
私は震える手でどうにかスマホを手に取り、智哉に電話をかけた。
呼び出し音が何度か鳴った。
出て……お願い、出て。
その願いを断ち切るように、電話が切れた。
鼻から流れた血が、ぽたぽたと床に落ちる。暗くなった画面を見つめたまま、心の中で何かが完全に死んだ。
黒田は不気味な笑い声を漏らすと、長年の恨みを晴らすかのように、私の腹を力任せに蹴りつけた。
「そういや、お前の母親は今、海外だったよな?頼みの彼氏はわざわざお前を俺のところまで連れてきてくれた。助けを呼んだって、もう誰も来ねえよ。つくづく運のない女だな」
お腹を抱えてうずくまった瞬間、下腹部に激痛が走り、何かが止めどなく流れ出した。
それでも黒田の怒りは収まらず、濁った目でいやらしく私の胸元を見つめると、突然覆いかかって服を引き裂こうとした。
ところが、まるで死んだようにぴくりとも動かない私を見て、黒田もようやく異変に気づいた。
手を止めて私の足元へ目をやった途端、黒田は顔色を変え、よろめきながら後ずさった。
「お、おい……」
黒田はためらうことなく私を乱暴に抱え上げ、ゴミでも捨てるように外へ放り出した。
智哉が慌てて私の体を受け止めたが、ぐったりと目を閉じた私を見るなり、息を呑み、取り乱したように叫んだ。
「望美!おい、望美!どうしたんだよ!」
莉奈が冷たく言い放つ。
「ふん、どうせまた芝居でしょ」
その直後、智哉の動きが止まった。私を支えていた手にぬるりとした感触を覚え、恐る恐る目をやると、手のひらが真っ赤な血に染まっていた。