死んで五年、兄はまだ私があの子に謝るのを待っている

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死んで五年、兄はまだ私があの子に謝るのを待っている

GoodNovel 完結

死んでから五年、私の遺体は今も安置所に置かれたまま誰にも引き取られていなかった。 親友の岡田由衣(おかだ ゆい)は、残っていたお金をすべてつぎ込んだ。それでも払えた安置費用はあと一週間分だけだった。 職員からはこのまま引き取り手が現れなければ遺体を火葬すると告げられた。 家族の引き取りがなければ、遺骨も施設側で処理されるという。 どうすることもできなくなった由衣は、ついに私の兄の松井直哉(まつい なおや)へ電話をかけた。 「直哉、妹同然に可愛がってるあの子のためなら、実の妹の遺体まで見捨てるつもりなの?」 兄は冷たく笑った。 「自分が悪かったと認めたくないからって、今度は死んだなんて嘘までつくのか?紗良に伝えとけ。死ぬなら今度こそちゃんと死ねって。数日したらまた何事もなかったみたいに戻ってくるのはやめろってな」 由衣にはもうどうすることもできなかった。結局、私、松井紗良(まつい さら)の遺体は火葬された。 そして由衣は私の死亡証明書を手に、兄の家へ向かった。

チャプター (1)

第1話

死んでから五年、私の遺体は今も安置所に置かれたまま誰にも引き取られていなかった。 親友の岡田由衣(おかだ ゆい)は、残っていたお金をすべてつぎ込んだ。それでも払えた安置費用はあと一週間分だけだった。 職員からはこのまま引き取り手が現れなければ遺体を火葬すると告げられた。 家族の引き取りがなければ、遺骨も施設側で処理されるという。 どうすることもできなくなった由衣は、ついに私の兄の松井直哉(まつい なおや)へ電話をかけた。 「直哉、妹同然に可愛がってるあの子のためなら、実の妹の遺体まで見捨てるつもりなの?」 兄は冷たく笑った。 「自分が悪かったと認めたくないからって、今度は死んだなんて嘘までつくのか?紗良に伝えとけ。死ぬなら今度こそちゃんと死ねって。数日したらまた何事もなかったみたいに戻ってくるのはやめろってな」 由衣にはもうどうすることもできなかった。結局、私、松井紗良(まつい さら)の遺体は火葬された。 そして由衣は私の死亡証明書を手に、兄の家へ向かった。 第1章 由衣が玄関のチャイムを鳴らしたとき、兄は石田真奈(いしだ まな)と食事をしていた。 外は雨だった。一刻を争う状況で、由衣には家へ傘を取りに戻る余裕もなかった。 そのせいで全身ずぶ濡れになっていた。 大きな屋敷の中は明るく照らされ、ほどなくして使用人が玄関を開けた。 由衣が中へ入った途端、真奈が眉をひそめる。 「ちょっと待って!そんなびしょ濡れの格好で、誰が入っていいって言ったの?」 由衣は相手にする気もなく、そのまま兄のもとへ向かい、死亡診断書をテーブルに叩きつけた。 「紗良は本当に死んだの!あなた兄でしょ?それでも何もしないつもり?」 直哉は箸を置くと、テーブルの上から紙ナプキンを一枚取り、ゆっくりと手を拭いた。 由衣のほうを見ようともしない。 「金が欲しいんだろ。紗良が戻ってきて真奈に謝るなら、いくらでも払ってやる」 由衣は怒りで顔を青ざめさせると、テーブルの上の死亡診断書をつかみ、直哉の目の前に突きつけた。 「何回言えば分かるの?紗良は死んだの!死んだのよ!死んだ人間がどうやって謝るのよ!これが死亡診断書!私の言うことが信じられなくても、これなら信じられるでしょ?」 直哉が目を細め、不機嫌そうに何か言おうとした、そのときだった。 真奈が突然駆け寄ってきて、由衣の手から死亡診断書を奪い取り、びりびりと何度も引き裂いた。 「こんなの誰が信じるの?あなたは紗良の親友でしょ?お兄ちゃんがあなたの言うことなんて信じるわけないじゃない」 床に散らばった紙切れを前に、由衣は信じられないものを見るように目を見開いた。 それでも直哉は、真奈を咎めるどころか庇った。 「真奈の言うとおりだ。俺の妹は真奈だけだ。紗良とはとっくに縁を切ってる。どうしても謝らないっていうなら、もう帰れ」 宙に浮かびながらそれを聞いていた私は、由衣と同じように苦笑した。 まさか五年も経った今でも、兄がたった一言の謝罪にこだわり続けているなんて。 由衣は目を真っ赤にし、歯を食いしばった。 「紗良に、どうしてあんたみたいな兄がいるのよ……」 そう吐き捨てて踵を返す。 だが玄関まで来たところで、五年前に私が話したことを思い出したのだろう。 由衣は足を止め、涙をこらえながら、震える声で言った。 「紗良が生前、一番望んでたのは死んだら家のお墓に入ることだった。遺骨は今、大通り沿いの葬儀場にある。三日以内に家族が引き取らなければ、施設側で処理される。直哉。あとは自分で決めて」 屋敷を出た由衣は、道端にしゃがみ込むと、声を上げて泣き始めた。 私はそばまで漂っていき、その隣に腰を下ろした。由衣は顔を両手で覆い、泣き崩れながら何度も謝っていた。 「紗良、ごめん……私、頑張ったんだよ。本当に、できることは全部やったの……」 「分かってるよ」 聞こえるはずのない声でそう答え、私はそっと由衣を抱きしめた。 この五年間、本当に由衣には苦労をかけた。 あの頃、私は真奈のことで直哉と大喧嘩をした。 行き場をなくした私を家に迎え入れてくれたのが、由衣だった。何も心配しなくていいからと、自分の家に住まわせてくれた。 でも、その暮らしは長く続かなかった。間もなく私は死んだ。 川から遺体が引き上げられたのは、行方が分からなくなってから一週間後だった。長い間水に浸かっていた遺体は、見る影もないほど変わり果てていた。 あの日も由衣は、今と同じように声を上げて泣いていた。 「紗良、ごめん……!私、家に帰ったんだと思ってた。だから連絡するのがこんなに遅くなって……。どうして……どうしてこんなことに……」 警察官が険しい表情で尋ねた。 「亡くなった方に、ご家族はいらっしゃいますか?司法解剖の結果、生前に性的暴行を受けた痕跡が確認されています。事件に巻き込まれた可能性が高いと見ています」 由衣は驚いて顔を上げた。みるみるうちに顔色が真っ青になり、震える手で慌ててスマートフォンを取り出す。 「い、います!お兄さんがいます。今すぐ電話します!」 由衣は直哉に電話をかけたが、何度呼び出しても兄が電話に出ることはなかった。 第2章 由衣は何度も何度も電話をかけた。ようやく直哉が出たかと思えば、苛立った声で怒鳴りつけられた。 「紗良に伝えろ!謝る気がないなら、二度と連絡してくるな!」 それだけ言うと、直哉は電話を切り、そのまま電源まで落としてしまった。 警察に勧められ、由衣は直哉の家にも足を運んだ。 けれど使用人から返ってきたのは、「直哉様は真奈様と海外旅行に出ています」という言葉だった。 結局、事件はそれ以上進展しないまま、私の遺体だけが安置所に残された。 それから五年間、由衣はずっと私の遺体の安置費用を払い続けてくれた。 そしてようやく、世界一周旅行に出ていた直哉と真奈が帰国した。 由衣は思った。これでようやく、私を両親の眠る墓に入れてあげられる、と。 だが直哉は、由衣が嘘をつき、私と口裏を合わせて芝居をしているとしか思っていなかった。 激しい雨が降りしきる中、由衣は翌朝までずっと泣き続けた。 泣き腫らした目で、顔に張りついた前髪をかき上げ、ようやく家へ帰った。 帰宅すると、由衣は何も感じていないかのような足取りでベッドのそばへ向かった。そして棚の奥から、一冊の日記帳を取り出した。 手早く梱包し、宅配便を手配して、直哉の会社宛てに送る。 荷物を持って遠ざかっていく配達員の背中を見つめながら、由衣は静かに目を閉じた。 「紗良……私にできるのは、もうこれくらいしかないよ」 私は兄の会社へ向かった。オフィスでは、秘書が一冊の日記帳を直哉に差し出していた。 「松井社長、お荷物が届いています。日記帳のようです。差出人は岡田由衣さんです」 直哉は顔も上げず、書類に目を走らせていた。 「読んでくれ」 秘書は日記帳を開き、一ページ目から淡々と読み上げた。 「2020年12月23日。今日、私は兄に家を追い出された」 その言葉が響いた瞬間、部屋の空気が一気に冷え込んだように感じた。 直哉が顔を上げる。その目にはあからさまな嘲りが浮かんでいた。 「今度はこんな芝居か。面白いな。続けろ」 秘書はうなずき、再び日記を読み始めた。 ――今日、私は兄に家を追い出された。真奈を平手打ちしたからだ。 あの子は、私がうつ病と診断されたことを知ると、意地の悪い笑みを浮かべて言った。 「やっぱりね。いっそ、おじさんとおばさんみたいに、あの地震で死んでればよかったのに。そうしたら、直哉お兄ちゃんは私だけのお兄ちゃんになったのに!」 何を言っているんだろう。真奈は家庭環境に恵まれず、兄が不憫に思ってうちに居候させている子だ。私たちとは血のつながりはない。 なのにどうして、兄を自分だけのものにしようなんて思えるんだろう。 私は相手にしなかった。すると真奈は、私のジュエリーボックスを床に叩き落とした。 その中には、私が大切にしまっていた家族写真が入っていた。 真奈はすぐにそれを拾い上げると、目の前でびりびりに引き裂いた。 頭に血が上がった私は、思わず真奈の頬を叩いた。でも私よりずっと力の強い真奈には敵わなかった。あっという間に床へ押さえつけられた。 そして私は、うつ病の治療で飲んでいた薬を全部トイレに流されていくのを、ただ見ていることしかできなかった。 兄が帰ってくると、真奈は先に泣きついた。私に叩かれた、家から追い出されそうになった、と訴えた。 あのときの兄の目は本当に冷たかった。唇をきつく結び、冷たい声で言った。 「まだこの家にいたいなら、真奈に謝れ」 私は家を出るふりをした。本当は兄に引き止めてほしかっただけだった。 だが兄は、私の持っていた現金も、キャッシュカードも、身分証もすべて取り上げた。着替えすら持たせてもらえなかった。 「出ていくなら、俺が与えたものは全部置いていけ。明日には周りにも伝える。お前はもう俺の妹じゃないってな」 兄の後ろに立つ真奈が、勝ち誇ったように笑っていた。 もう二年になる。 二年前、兄が真奈を妹同然の存在として家に連れてきたその日から、私の悪夢は始まった。 両親が亡くなってから、ずっと兄と二人きりで支え合って生きてきた。 私には、兄が突然ほかの女の子を家に連れてくることが受け入れられなかった。 まして兄は、真奈が苦労してきたからかわいそうだと言って、いつも私に我慢させた。 以前なら私だけに買ってくれていたものも、兄は二つ買うようになった。しかも選ぶのはいつも真奈が先だった。 兄が久しぶりに一日休める日、私は映画を観に行きたいと言った。真奈は買い物に行きたいと言った。 すると兄はまた私に言う。 「映画は今度一緒に行こう。今日は買い物に付き合ってやってくれ」 でも兄の言う「今度」はいつまで経ってもやってこなかった。その約束はいつだって真奈に奪われていった。 私はそんな毎日が嫌だった。突然現れた赤の他人が、音もなく私の生活に入り込み、少しずつ私の大切なものを奪っていく。 それなのに私は笑ってうなずき、聞き分けのいい妹でいなければならなかった。 それでも私は兄が大好きだった。だってたった一人の兄だから。 あの地震の日、兄が瓦礫の下で私を必死に支えてくれていなかったら。 私はきっとお父さんとお母さんと同じように、あの瓦礫の中で死んでいただろう。 第3章 だから私は、兄のためなら全部我慢しようと決めた。 たった半年で、兄に言われなくても、いいものは自分から真奈に譲るようになった。 真奈が欲しいものも、やりたいことも、絶対に取り合わない。 だがその代償は大きかった。私はうつ病になった。 病院を受診したときにはすでに重度と診断された。 カウンセラーには、両親を亡くしたときから、心の中にはすでにうつの種があったのだと言われた。 真奈の存在は、その種を芽吹かせるきっかけになっただけなのだと。 私は次第にぼんやりしている時間が増え、笑うことも少なくなった。 兄に「どこか遊びに行こう」と誘われても、何もする気になれなかった。 そんな状態が続くうちに、兄も苛立つようになった。 私のことを冷たい人間だと言った。心が狭い、真奈が幸せになるのが気に入らないんだろう、と。挙げ句の果てには、俺にまでそんな態度を取るのかと責められた。 説明したかったが、何から話せばいいのか分からなかった。 それから兄との関係はどんどん悪くなっていった。 そして今では、お互い意地になって、どちらからも折れられないところまで来てしまった。 私は由衣の家へ向かった。由衣の家までは本当に遠かった。 三時間も歩き続けたせいで、足には靴ずれができて血まで滲んでいた。 由衣は傷に薬を塗りながら、怒ったように言った。 「何なの、あのお兄さん。どう考えてもおかしいでしょ!もう帰らなくていいよ。ここにいればいいから!」 私は由衣に笑いかけながら、胸の奥の苦しさを必死に押し込めた。 「でも帰るよ。きっと何日もしないうちに、お兄ちゃんが迎えに来てくれるから」 もうすぐお正月だった。生まれてから今まで、私たちは一度だって離れて年を越したことがない。 だから信じていた。兄だって私と離れたままではいられないはずだと———— 秘書の声がそこで途切れた。少し間を置いてから、彼女は口を開いた。 「松井社長、このページはここまでです」 直哉は手の中のペンを弄びながら、嘲るような笑みを浮かべた。 「よくもまあ、ここまで話をすり替えられるな。真奈のことが気に入らなくて嫌がらせしてたのは自分のくせに、今度は真奈にいじめられたことにするのか。やっぱり、あのとき家から追い出したのは正解だったな」 そう言って、直哉は冷たい目を秘書に向けた。 意図を察した秘書は、慌てて次のページをめくり、再び読み始める。 …… 2020年12月26日。今日から仕事を探し始めた。 由衣の家だって、決して裕福なわけじゃない。いつまでも養ってもらうわけにはいかない。 でも何社受けても採用してもらえなかった。 学歴も職歴も、応募条件はすべて満たしている。なのにどうしても面接で落とされてしまう。 最後に受けた会社の面接官は、優しそうな女性だった。 思い切って聞いてみた。 「お給料はそんなに高くなくても大丈夫です。月に15万円くらいあれば、何とか生活できます」 その人は気の毒そうに私を見ると、意味ありげに言った。 「もう仕事を探すのはやめたほうがいいと思う。この街じゃ、あなたを採用する会社はないから。上から話が回ってるの。『松井紗良という人間を雇うな』って」 私は呆然とした。会社を出てしばらくしてから、ようやく意味が分かった。 そんなことができる人間は一人しかいない。兄だ。 真奈に謝らせるために、私が仕事に就けないよう手を回したんだ。 でも私は何も悪くない。どうして謝らなきゃいけないの? 「ふっ……」 突然直哉が鼻で笑った。 「つまり紗良は、最後まで自分は悪くないと思ってたわけか。俺に謝らされたとでも思ってるんだな。少しは世間の厳しさを知ればいいと思っただけなのに、まったく分かってなかったらしい。こんなものまで書いて、可哀想なふりをして金でもせびるつもりか?」 秘書は直哉をちらりと見た。何も言わず、次のページをめくる。 今度は、その声が少し重くなっていた。 「2020年12月28日。今日、私はお兄ちゃんに会いに家へ戻った」 …… 私はお兄ちゃんに会いに家へ戻った。雪が降りそうだったから。 毎年冬になると、どれだけ忙しくても、兄は必ず私と雪だるまを作ってくれた。 一緒に雪合戦をして、二人で雪の上に寝転んで、くるくる舞いながら落ちてくる雪を眺めた。 お兄ちゃんに会いたい。 もう私が謝ればいい。いつまでも人の家に居候しているわけにもいかない。 たった一言、謝れば済むことだ。少し甘えれば、きっとお兄ちゃんだって許してくれる。 そう思って帰ったのに、使用人から、兄は真奈と世界一周旅行に出たと聞かされた。 出発するとき、兄はこう言い残したらしい。私から連絡が来ても取り次ぐな、もう顔も見たくない、と。 お兄ちゃんは私を捨てたんだ。 …… そのページは驚くほど短かった。秘書はすぐに読み終えた。 直哉は手にしていたペンを乱暴に机へ叩きつけた。 「俺がいつそんなことを言った!今度は俺まで悪者にするつもりか! 続けろ!紗良が次は何を書くのか、最後まで聞いてやる!」 第4章 秘書は小さくため息をつき、また一ページめくった。 だがそこに書かれた文字を見た瞬間、目を見開いた。声まで震え始める。 「2020年12月31日、大晦日。今日、私はレイプされた」 …… 私は夕飯を買いに外へ出ただけだった。 由衣は自分の実家で一緒に年を越そうと誘ってくれた。でも家族水入らずの時間を邪魔したくなくて断った。 帰り道、ふと兄のことを考えた。お兄ちゃんは今、何をしてるんだろう。 真奈と一緒に雪だるまを作ったり、年越しのごちそうを食べたりしてるのかな。 ああ、そうか。今どこの国にいるのかさえ分からないんだった。 そこに雪が降るのか、そもそも新年を同じように祝う場所なのか。それすら分からない。 私は自嘲するように笑った。うつ病の薬をずっと飲んでいないせいか、頭まで鈍くなってしまったらしい。 道沿いの家々には明かりが灯り、遠くでは年越しのイベントの音楽が響き渡った。 私はゆっくり歩きながら、その光景をぼんやり眺めていた。そのとき突然、視界が真っ暗になった。 次の瞬間には、何人もの男に腕をつかまれ、人気のない路地裏へ引きずり込まれていた。 押さえつけられ、服を剥ぎ取られた。 その夜、私の悲鳴は、新年を祝う音楽にかき消された。 …… 地獄のような時間が終わったのは夜が明ける頃だった。 私は何も考えられないまま、地面に横たわっていた。目の前の景色を、ただぼんやりと眺めていた。 男の一人が私の上から立ち上がり、顔に唾を吐きかけた。 「真奈に手を出した罰だよ。自業自得だ」 私は何も言えなかった。遠ざかっていく男たちの背中を、ただ呆然と見つめた。しばらくしてから体を起こし、服を着た。 そして由衣の家へ戻った。 今の私は、きっとまともな文章を書けていない。何があったのか、一つの出来事として順序立てて書くことさえできない。 文字を書こうとするたび、手が震える。ペンすらまともに握れない。 私は由衣に一枚のメモを残した。 ――私の最後のお願い。死んだら、家のお墓に入れてほしい。お父さんとお母さんの隣に埋めて。 お兄ちゃんには、もういらないって言われたから。私は、お父さんとお母さんのところへ行く。 由衣には私が死んでもあまり悲しまないでほしい。 それから、お兄ちゃんが私の遺体を見たら、もう許してくれますように。もう謝れなんて言わないでくれますように。 …… 秘書の声はいつの間にかかすれていた。 読み終えたあと、オフィスには痛いほどの静寂が落ちた。 しばらくして、直哉がわざと平静を装うように笑った。 「よくここまで作り込んだもんだな。俺から金を取るために、ずいぶん手の込んだことをする」 そう言ってスマートフォンを取り出し、由衣に電話をかけた。 ほどなくして相手が出ると、直哉は冷たい声で切り出した。 「紗良に伝えろ。金が欲しいなら、自分で取りに来い。真奈に一言謝れば、家に戻してやる。こんな芝居がかった日記なんか送ってきても、俺は信じない」 電話の向こうはしばらく無言だった。やがて由衣が疲れ切ったようにため息をついた。 「直哉……私、家を売ったの。もう引っ越すことにした。これからは紗良のことで、私に連絡してこないで」 ―― 由衣の気持ちは分かっていた。本当に限界だったんだと思う。 この五年間、真奈は直哉の影響力を利用して、何度も由衣の仕事や生活を邪魔してきた。 直哉だってそのことは知っていた。それでも私を謝らせるために、見て見ぬふりをしていた。 由衣は何度も仕事を変えた。そのうえ、私の遺体を安置してもらうための費用まで払い続けていた。 稼いだお金のほとんどを、私のために使ってしまった。 何度も私の遺体のそばに座り、泣き崩れながら怒鳴っていた。 「どうして何も言わずに死んじゃったの!死ねば全部終わるとでも思ったの?」 でもひとしきり怒鳴ったあとは、必ず泣きながら謝った。 「ごめんね、紗良……紗良は何も悪くないのに……でも私、もう疲れたよ……本当に、疲れた……」 申し訳なかった。こんなことになると分かっていたら。 五年前、私は真奈の前に跪いてでも、許してほしいと頼めばよかった。 だが未来のことなんて分かるはずもなかった。 電話を切ったあと、直哉は長い間その場に座ったままだった。 秘書は彼の顔色をうかがいながら、恐る恐る口を開いた。 「松井社長……一度、調べてみたほうがいいのではないでしょうか」 「必要ない」 直哉は無表情で立ち上がり、オフィスを出ていこうとした。 「由衣がそこまで言うなら、もう一度だけ信じてやる。遺骨は大通り沿いの葬儀場にあるんだろ。今から直接、確かめに行く」 そして最後に歯を食いしばるように言った。その声は凍りつくほど冷たかった。 「もし俺を騙してたら、今度こそあいつらを許さない」

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