第1話
あの日は、私――白石澪(しらいし みお)の結婚式前日だった。
婚約者の桐生悠真(きりゅう ゆうま)の初恋相手、橘陽菜(たちばな ひな)が、突然こんなことを言い出した。
「お願い……私にあなたの代わりに一か月だけ花嫁にならせてくれない? 一か月だけでいいの。その間だけ、悠真さんを私に貸して……」
そんなの、受け入れられるわけがない。
私は迷わず断った。すると陽菜は泣きながら飛び出し、車にはねられて、そのまま命を落とした。
その日の夜、悠真は私の首を絞めたまま、怒鳴りつけた。
「俺はちゃんとお前と結婚するつもりだった! どうして陽菜の願いくらい叶えてやれなかったんだ!」
陽菜を死に追いやったのは私だと信じ込んだ悠真は、その日から私への復讐を始めた。
陽菜によく似た朝倉念美(あさくら ねみ)という女性をそばに置き、私を苦しめ続けた。
そのうえ、悠真の暴力で、お腹の子まで失うことになった。
父も身に覚えのない罪を着せられ、刑務所で命を落とすまで追い詰めた。
その知らせに耐えきれなかった母は心臓を患い、ICUへ運ばれた。
母の治療費を払ってもらうため、私は何度も悠真のもとへ頭を下げに通った。
その日も分厚い請求書を手に彼の部屋を訪ねた私は、ドアの向こうから甘い囁き声が聞こえてきて、思わず足を止めた。
半開きのドアの隙間から見えたのは、抱き合う二人の姿だった。
「ねぇ、悠真。私、もうあなたの子どもを授かったのよ? 私、いつになったら正体を明かしていいの?」
その声は、死んだはずの陽菜だった。
そして、悠真は乱れた息を整えると、鼻で笑った。
「まだだ。澪にはもう少し苦しんでもらう。あいつはそれくらいじゃないと懲りない。それに、彼女の母親もまだ俺の金を当てにしてるんだから」
陽菜は死んでなんかいなかった!
私はずっと、自分が陽菜を死なせたんだと思い込んでいた。だから、悠真に何をされても仕方がないと、自分に言い聞かせながら耐えてきた。
でも、その全部が嘘だった。「念美」という女性の正体は、最初から陽菜自身だったのだ。
私は最初から、あの二人の手のひらの上で踊らされていただけだった。
失った子どもも、父も、母も……みんな、そのための犠牲だった。
私は部屋の中に乗り込み、請求書を彼の前に突き出し、彼のしたことを問い詰めた。
しかし彼は血相を変えて激怒し、私の持ってきた書類を取り上げ、あろうことか私を冷凍庫に閉じ込めた。
ようやく外に出された時には、すでに翌日の早朝になっていた。
病院へ駆け込んだ私を待っていたのは、母が前の晩に自ら命を絶ったという知らせだった。
母が私に遺した最後の言葉は、たった一つだった。
「澪、ごめんね。もうこれ以上あなたの足を引っ張りたくないの……幸せになって」
第1話
母は冷たい安置室に横たわっていた。もう、ぴくりとも動かない。
私はその場に崩れ落ちるように膝をつき、母の手を握った。
幼い頃、何度も私を抱きしめてくれたその手は、もう氷のように冷え切っていた。
「お母さまが亡くなられたのは、昨夜九時頃です。何度かお電話を差し上げたのですが、つながりませんでした。
白石さん……おつらいお気持ちは分かります。
でも、元々お身体が弱いですし、お腹にはせっかく授かった二人目のお子さんがいるんですから、どうかご無理はなさらないでください」
何か返事をしようと口を開いた。けれど、声にならなかった。
私は悠真に罰として冷凍庫へ閉じ込められていたのは、昨夜九時ごろのことだった。
そのせいで、母の最期に会うことさえできなかった。
昨日目にした光景が頭をよぎった。
あの部屋で、悠真は陽菜を抱き寄せ、幸せそうに微笑んでいた。
その光景を思い出しただけで、全身の力が抜け、その場に崩れ落ちるしかなかった。
悠真を憎みたかった。それなのに、憎む力さえ、もう残っていなかった。
母の遺骨が小さな骨壺に納められるまで、私は涙一つ流せなかった。
けれど、骨壺を抱きしめた途端、張りつめていた糸が切れたように、私は泣き崩れた。
離婚協議書をバッグにしまうと、震える指で、もう二度とかけることはないと思っていた番号へ電話をかけた。
「……お願いします。私をここから連れ出してください」
電話の向こうで、一瞬息をのむ気配がした。
「白石様……ようやくご連絡いただけましたね。航空券のご用意はできております。すぐにお迎えに伺います」
家へ戻ると、庭では悠真が念美と並んで花の手入れをしていた。
庭一面に植えられているのは、私がアレルギーを起こす桃の木ばかりだった。
私は二人の前まで歩いていき、離婚協議書を差し出した。
「悠真、私たち――」
そこまで言いかけた瞬間、頬を強く叩かれ、そのまま地面へ倒れ込んだ。
「お前、どの面下げて帰ってきた!?
念美の部屋にネズミを放つなんて……そこまでして念美を傷つけたいのか!」
口の中いっぱいに血の味が広がった。
「違う……私じゃないの……」
そのとき、念美はスカートの裾を摘まみ、何気ない仕草で母の骨壺を蹴り飛ばした。
「きゃっ! 澪さん、ネズミだけじゃ気が済まなかったの……? この変な容器の中には何が入っているの? まさか、毒が入っているんじゃないよね?
今度は私を毒殺するつもりなの!?」
骨壺は地面に落ちて砕け、母の遺骨は土の上へ散らばり、あっという間に土と混ざってしまった。
「やめてっ!」
夢中で駆け寄ろうとした私を、悠真は容赦なく蹴り飛ばした。息が詰まり、内臓が引き裂かれるような激痛に襲われた。
「澪、お前はどこまで最低なんだ」
悠真は割れた骨壺を拾い上げ、そのまま私の額へ叩きつけた。
額から流れた血が頬を伝い、視界まで赤く染めていった。
「お母さん……お母さん……」
私は這いつくばりながら、土に混ざってしまった母の遺骨を必死に拾い集めた。
第2話
そのときだった。念美が飼っていた犬が突然駆け寄り、母の遺骨を舐め始めた。
「あっ、小春!そんなもの舐めちゃダメよ」
念美は犬を抱き上げると、そのまま母の遺骨を何度も踏みつけ、土の中へ押し込んだ。
「やめて!」
私は我を忘れて駆け寄り、必死に土を掘り返した。爪が割れ、手のひらが血だらけになっても、掘るのをやめられなかった。
「ごめんね……お母さん、ごめんね……」
その瞬間、頭に激しい痛みが走った。
悠真に髪を乱暴につかまれ、そのままリビングまで引きずられ、床へ投げ捨てられた。
「そんな芝居をしたところで、今日の罰からは逃げられない」
そう言って、悠真は念美へ目を向けた。
「念美、君がやれ。思いっきりこいつに罰を与えよう」
念美は悠真の腕に身を寄せ、不安そうに首を横へ振った。
「そんな……私にはできないよ。
また澪さんにネズミを放り込まれたら、どうしよう……」
悠真はそんな念美を優しく抱き寄せ、その頭をそっと撫でた。
「念美、君は本当に優しいな」
けれど私へ向けられた視線だけは、氷のように冷たかった。
「念美にできないなら、お前たちがやれ」
悠真はリビングにいた使用人たちを見渡し、低い声で命じた。
「やれ。こいつの顔をビンタしろ。100回叩くまでやめるんじゃねえぞ」
使用人たちは顔を見合わせたまま、誰も動こうとはしなかった。
パンッ!
静まり返った部屋に、乾いた音が響いた。
悠真の平手が容赦なく頬を打った。焼けつくような痛みが走り、頬はあっという間に腫れ上がった。
「こうするのだ。分かったか、さっさとやれ。やらないなら、この家を出ていけ!」
その言葉を聞いた途端、使用人たちは一斉に私へ群がった。誰もが悠真の怒りを恐れ、容赦なく平手を振り下ろした。
100発目が終わる頃には、私は血を吐いていた。
霞む視界の向こうにいる悠真を、私はじっと見つめた。胸に残っていたのは、もう憎しみだけだった。
「悠真……あなたは、いつか必ず後悔する」
その言葉に、悠真の瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
だが、その揺らぎはすぐに消えた。悠真は私の前にしゃがみ込むと、腫れ上がった頬へそっと手を添えた。
「澪……つらいだろう。でも、お前は償わなきゃいけない」
私は思わず笑ってしまった。涙があふれて止まらないのに、笑いだけはどうしても止まらなかった。
「償う……?」
私は念美を指差し、声を張り上げた。
「悪いのは、あなたたちでしょう! 罪を犯したのも、償わなきゃいけないのも、あなたたちよ! 悠真……私は一生、あなたを許さない! 絶対に!」
その言葉に、悠真は一瞬だけ目を伏せた。けれど何も言わず、視線を逸らした。
すると、念美は指先を押さえながら、今にも泣き出しそうな顔で悠真を見上げた。
「悠真さん……指をネズミに噛まれちゃったみたい。痛いよ……」
悠真はすぐに念美を抱き寄せると、噛まれた指先へ優しく息を吹きかけた。
「痛かったな。もう大丈夫だ。あとは俺に任せろ」
そう言って悠真は私へ視線を向けた。その瞳に、もう迷いはなかった。
あるのは、冷え切った嫌悪だけだった。
「あいつを檻へ入れろ」
私は何も言わず、ただ虚ろな目で悠真を見つめた。
抵抗する気力もなく、使用人たちに引きずられていった。
まさか彼が、私に罰を与えるために鉄の檻まで用意した。いや、檻というよりはむしろ鉄で作られた小屋のようだった。中には無数のネズミが目を光らせ、甲高い鳴き声を響かせていた。
恐怖で体が震えた。逃げようともがいたけれど、扉は外から鍵を掛けられ、逃げ場はなかった。
次の瞬間、ネズミたちが一斉に私へ襲いかかってきた。
鋭い歯が容赦なく肌へ食い込み、肉を噛みちぎられる激痛に、私は悲鳴を上げ続けた。
檻のわずかな隙間から見えたのは、念美を抱き寄せ、荒い息を漏らす悠真の姿だった。
「悠真さん……もう、我慢できない……」
「だめだ。子どもに何かあったら困る」
「じゃあ……私がしてあげる……」
二人の声を聞いているだけで、胸が張り裂けそうだった。
どれほど檻の中に閉じ込められていたのか、もう分からなかった。
息をするたび肺が焼けるように苦しくなり、意識は少しずつ遠のいていった。
やがて檻の扉が軋む音を立てて開いた。
私は彼らに乱暴に引きずり出された。まるでゴミでも引きずっているかのように、そのまま床へ放り投げられた。
誰かが目の前で立ち止まった。
顔を上げると、念美は傷だらけの私を見下ろしていた。
「悠真さん……澪さん、かわいそう……こんな姿になっちゃって……」
そう言いながらも、口元だけはうっすらと笑みを浮かべていた。
悠真はすぐに念美の目を手で覆うと、私には冷たく一瞥をくれただけだった。
第3話
「自業自得だ」
自業自得……ね。私は思わず口元がゆるみ、小さく笑いが漏れた。
「……何がおかしい?」
悠真が訝しげに私を見つめた。
私はその視線をまっすぐ受け止め、一言ずつ噛みしめるように告げた。
「私の人生で一番の間違いは……あなたを好きになったことよ」
この男を愛したせいで、父も母も失った。
生まれてくるはずだった子どもまで奪われ、私は何度も踏みにじられ、辱められた。かつて湊ヶ丘市一の令嬢と呼ばれた私も、今では道端の雑草にも及ばない。
「……今、何て言った?」
悠真の表情が凍りついた。顔から血の気が引き、その瞳が一瞬揺れた。
そのとき、念美はお腹を押さえ、小さく声を漏らした。
「悠真さん……お腹が痛いの……」
「どうした!? 大丈夫か!?」
悠真の表情が一変した。慌てて念美を横抱きにすると、使用人へ声を張り上げた。
「すぐに黒田先生を呼んでこい!」
その焦り切った横顔を見た瞬間、不意にあの子のことを思い出した。
私の最初の子どもを。
まだこの世に生まれることもできず、父親だった男に蹴られ、そのまま失われた小さな命を。
呆然としたまま、私はふらつく足で部屋へ戻った。
救急箱を取り出し、とっくに使用期限の切れた消毒用アルコールを傷口へ流し込んだ。
焼けるような痛みが全身を駆け抜けた。
その痛みがなければ、胸の奥に広がる苦しみに押し潰されていた。
「あんた、ほんとしぶといわね」
ヒールの音が、廊下の向こうからゆっくりと近づいてきた。
部屋へ入ってきた念美からは、いつもの楚々とした雰囲気がもう消えていた。
その口元には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
「まさか、あの名門・白石家のお嬢様が、こんな惨めな姿になるなんてね」
私は顔も上げず、小さく鼻で笑った。
「自分を演じるだけでも一苦労なのに、お腹の子まで隠し通さなきゃいけないなんて……本当にご苦労さま」
念美の笑みがふっと消えた。
「あんた……全部知ってたの? 私が死んでなんかなくて、ただ名前を変えただけだってことを」
けれど次の瞬間、念美はまた勝ち誇ったように口元を緩めた。指にはめたダイヤの指輪を弄びながら、ゆっくりと言った。
「あのとき、私に悠真さんの花嫁にならせてくれてたら、こんな面倒なことにはならなかったのに。
お父さんも死んで、子どもまで失って……
あとは病弱なお母さんだけか。あの人も、あとどれくらいもつのかしらね」
念美はお腹を優しく撫でながら、くすりと笑って続けた。
「そうそう、言い忘れてた。
悠真さんね、この子を桐生家の跡取りにするって約束してくれたの」
胸の奥から込み上げる絶望を押し殺し、私は歯を食いしばって立ち上がった。そして、口の中に溜まった血を念美へ吐き捨てた。
「……あなたには、きっと報いが来るわ」
念美は眉をひょいと上げ、鼻で笑った。
「ふふ……報いを受けるのがどっちなのか、楽しみね」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
次の瞬間――
「きゃっ!」
念美は悲鳴を上げると、わざと後ろへ倒れ込んだ。駆け寄った悠真は、とっさにその体を抱き留めた。
「お前! 念美に何をした!?」
悠真の姿を認めた途端、念美の瞳はたちまち涙で潤んだ。
「悠真さん……違うの。
澪さんを責めないで……私が勝手に転んじゃっただけなの……
私、ただ澪さんのケガが心配で来ただけだったのに……まさか、こんなことになるなんて……」
悠真の呼吸は次第に荒くなり、その表情には怒りが滲んでいた。
「澪……何か言うことはないのか」
昔の私だったら、きっと必死に弁解していた。何もしていないと、ただ信じてもらいたかった。
けれど今は違った。私はただ、悠真を静かに見つめ返した。自分でも驚くほど、心は冷え切っていた。
「……私の言葉を、信じてくれるの?」
悠真は鼻で笑った。
「お前みたいに平気で嘘をつく女の言葉なんて、誰が信じるか」
そう吐き捨てると、悠真は私の髪を乱暴につかみ、そのまま階段まで引きずっていった。
「念美に手を出したこと、後悔させてやる」
そう言うや否や、悠真は容赦なく私の下腹部を蹴り上げた。
激しい衝撃に、私はそのまま階段を転げ落ちていった。何度も体を強く打ちつけ、最後は床へと叩きつけられた。
下腹部に鈍い痛みが走った。
次の瞬間、温かいものが太ももを伝い落ち、赤黒い血が床へと広がっていった。
すぐそばにいた使用人が、思わず悲鳴を上げた。
「奥様が……! 血が……!」
悠真の目に、一瞬焦りが走った。
慌てて階段を駆け下りようとした悠真の腕を、念美がそっとつかんだ。
「悠真さん……私、澪さんが羨ましいな。
ちょっと血が出ただけで、そんなに心配してもらえるんだもの」
第4話
「私とこの子は違うもの……私たちには、頼れる人なんていないんだから……」
そう言うと、念美はぽろりと涙をこぼした。
悠真はたまらず念美を抱き寄せた。
「安心しろ、念美。君を傷つけた奴は、俺が絶対に許さない」
そして私へ向けられた眼差しに、もう温もりは欠片もなかった。
「目障りだ。こいつを地下室へ閉じ込めろ」
使用人たちは、ぐったりした私を引きずるように地下室へ連れていき、そのまま床へ放り投げた。
床には、私の血が一本の赤い筋を残していた。
扉が閉まると、舞い上がった埃が喉に入り込み、息をするのも苦しかった。
私は腹を押さえた。お腹に宿っていた小さな命が、少しずつ消えていくのが分かった。
涙だけが、静かに頬を伝って落ちていった。
二人目の子も、逝ってしまった。
地下室には、私と悠真の結婚写真や、彼が贈ってくれた数々のプレゼントが無造作に置かれていた。
かつて愛し合っていた証だったはずのものが、今では皮肉にしか思えなかった。
私は這うように立ち上がると、近くに転がっていた木の棒をつかみ、結婚写真に向かって振り下ろした。ガラスが砕ける乾いた音が、地下室に響いた。
その音を最後に、私の意識は闇へと沈んでいった。
どれほど時間が経ったのだろう。
突然、頭から冷水を浴びせられ、私ははっと目を覚ました。
「お前、ずいぶん気持ちよさそうに寝てたな」
ゆっくりと目を開けると、そこには険しい表情の悠真が立っていた。
悠真は使用人服を一着、私の足元へ放り投げた。
「明日は念美の誕生日だ。これを着て、一日中ひざまずき、念美に尽くせ」
喉に詰まった血のせいで、声は一言も出なかった。私はただ、無言で悠真を見つめ返した。
念美は、まるでお姫様のように振る舞っていた。
地下室へ向かう道にまで、彼女のためだけに絨毯が敷き詰められていた。
念美は悠真の腕にぎゅっとしがみつき、甘えるように言った。
「でも……澪さんって、とってもきれいだから。隣に並ばれたら、私なんて霞んじゃう……」
悠真は優しく微笑んだ。
「そんな心配はいらない。俺のお姫様」
そう言うと、使用人からナイフを受け取り、ためらうことなく私の頬に刃を走らせた。
かつて何度も優しく触れてくれたこの顔は、見る影もないほど切り裂かれていった。
頬から鮮血が噴き出し、あっという間に顔中を赤く染めた。
私は焼けつくような痛みに床を転げ回った。
割れたガラスに映った自分の顔を見た瞬間、私は喉が裂けるほど叫んだ。
「これで満足か」
悠真はナイフを足元へ放り捨てると、優しい眼差しで念美を見つめた。
「俺の中じゃ、君が一番きれいだ」
念美は両手で目を覆いながらも、肩を震わせてくすくすと笑った。
「澪さん……今のあなた、本当に化け物みたい」
私は顔を押さえたまま、泣いているのか笑っているのか、自分でも分からなかった。
悠真はあの日私から取り上げた請求書の束を私の前に放り投げた。その場にしゃがみ込み、私の乱れた髪をそっと撫でた。
珍しく、その声はどこか優しかった。
「これまでの請求書にもう署名した。医療費は全部俺が払ってやる。
澪。明日一日、大人しくしていろ。そうすれば、全部元に戻してやる。お前のお母さんにも同じだ。最高の医者もつけてやるのだ」
藁にもすがる思いで、私はその書類を胸に強く抱き締めた。
悠真は知らなかった。母は、もうこの世にはいなかったことを。
そして彼が医療費の請求書だと思い込んでいる分厚い書類の束の中には――私が用意した離婚協議書が混ざっていたのだ。
ようやく私は、この地獄から抜け出せる。
……
翌日、屋敷には招待客が次々と訪れていた。
私は使用人服を着せられたまま床にひざまずき、虚ろな目で玄関を見つめていた。
訪れた客たちは私の姿を見るなり思わず息をのみ、足を止めた。
だが、それが私だと気づいた途端、あちこちから嘲るような声が上がった。
「えっ……何あれ。怖っ……化け物?」
「違うわよ。あれ、桐生社長の奥さんでしょ」
「うそ……あんな顔になっちゃって。追い出さないだけでも十分情けをかけてもらってるんじゃない? 桐生社長も念美さんも、本当にお優しいこと。
番犬代わりくらいにはなるってことかしら」
「今日が終われば、もう奥様じゃなくなるんじゃない? 桐生社長、何か発表するって聞いたわ」
「お父さんは犯罪者、お母さんは体を売って病気までうつされて……本人も子どもも産めない体なんでしょ? 桐生社長も、本当に気の毒よね」
第5話
一言一句が、毒を塗った刃のように胸を切り裂いていった。
私は身を縮めるようにうずくまり、顔を伏せた。
「あっ、念美さんがいらしたわ」
「まあ、念美さん、本当にお綺麗……! そのドレス、初めて見るわ。フランスの有名デザイナーによる一点物じゃないかしら」
その声に、私はゆっくりと顔を上げた。そこには、挑発するような笑みを浮かべる念美の姿があった。
そして、彼女のドレスを目にした瞬間――私は息を呑んだ。
「それ……お母さんが遺してくれたドレスよ!」
かすれた声を振り絞り、私はよろめきながら念美に飛びかかろうとした。だが、その前に悠真が立ちはだかった。
「おい、何をする気だ!」
私は涙を流しながら、悠真を睨みつけた。
「悠真……あれは、お母さんが私に遺してくれた、たった一つの形見なの! どうしてあの人に渡したの!?」
悠真は不快そうに眉をひそめた。
「ただのドレスだ。念美が喜ぶなら、それで十分だ」
私はとっさに彼の手へ噛みついた。悠真が痛みに思わず私を放した隙に、私は念美の髪をつかんだ。
「返して! そのドレスを返して!」
念美は胸元を押さえ、悲鳴を上げた。
「悠真さん、助けて!」
そのとき、腰に激しい衝撃が走った。私は床へ叩きつけられ、全身を震わせた。
念美はドレスの裾を乱暴に引き裂き、その切れ端を私へ投げつけた。
「欲しかったんでしょ? ほら、返してあげる! 全部返してあげるわ! あなたのせいで、私の誕生日が台無しよ!」
私は震える手で、ドレスの切れ端を抱き寄せた。ぽたり、ぽたりと零れ落ちた涙が、布を濡らしていった。
「ごめんなさい……お母さん……最後の形見さえ……守れなかった……」
次の瞬間、悠真に髪を乱暴につかまれ、頭に鋭い痛みが走った。私はそのまま無理やり引き起こされた。
「澪! まだ念美に手を出す気か! 今日一日、大人しくしていれば済んだ話だった。それなのに、どうしてお前はいつも余計なことをする!」
怒りに顔をゆがめた悠真は、低く吐き捨てた。
「……いいだろう。
人の服を剥ぐのが好きなら、お前も服なんか着るな」
悠真の命令で、私は大勢の招待客の前で服を剥ぎ取られた。
無数のフラッシュが容赦なく私へ向けた。私は目を閉じ、頬を伝う涙を止めることができなかった。
「こいつを外へ捨てろ」
悠真の護衛たちは私を薄暗い路地裏まで引きずっていき、ゴミ箱の脇へ鎖でつないだ。
そこには、数人のチンピラがたむろしていた。
護衛たちの姿が見えなくなると、男たちはゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。私は必死に身を縮めた。
「やめて……来ないで……! 悠真は……あなたたちを許さないわ……!」
男たちは顔を見合わせると、堪えきれないように笑い出した。
「桐生社長が?」
先頭にいた男は鼻で笑った。
「俺たちは、その桐生社長に頼まれてここで待ってたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私の中に残っていた最後の希望は、音もなく崩れ落ちた。
けれど、その抵抗はあまりにも無力だった。恐怖だけが、静かに私をのみ込んでいった。
向かいの大型ビジョンには、念美の誕生日パーティーの様子が映し出されていた。
念美はまるでお姫様のように、皆から祝福を受けていた。
悠真は片膝をつき、何億円もの価値がある南アフリカ産のダイヤモンドを差し出していた。
絶望だけが、静かに胸を満たしていった。私はかすかに口元をゆるめ、そっと目を閉じた。
――その瞬間。
パンッ!
銃声が響き渡った。温かい血が頬へ飛び散り、誰かがそっと、私の肩に上着を掛けた。
私ははっと目を開いた。
目の前に立っていたのは、あの冷たい眼差しの男だった。
「……あなた。本当に、来てくれたのね……」