手放した光は二度と戻らない

プロモーションを読み込み中...

手放した光は二度と戻らない

GoodNovel 完結

「白石さん、脳内の血腫が神経を圧迫しており、いつ記憶を失ってもおかしくない非常に危険な状態です。ましてや、その腕では……」 医者は心配そうに、白石陽葵(しらいし ひまり)の装着したばかりの義手をちらりと見た。 「ご家族にご連絡の上、すぐに入院して経過観察されることをお勧めします」 「いいえ、結構です。ありがとうございます」陽葵は静かに首を横に振った。 結城蒼真(ゆうき そうま)にとって、彼女はただの嘘つきであり、たとえ話したところで信じてもらえるはずもなかった。 1ヶ月前、彼の最愛の人である水瀬栞奈(みなせ かんな)は、陽葵の絵が指導教官によってコンクールに出展されたことに嫉妬し、カッとなって陽葵に車で突っ込んできた。 夫であるはずの蒼真は、コンクールの出場辞退届を陽葵の前に投げつけた。 「どうしてお前は、何から何まで彼女と張り合おうとするんだ。この書類にサインして、出場枠を栞奈に返してやってくれ」 だが蒼真は知る由もなかった。陽葵の右腕はあの交通事故で既に切断されており、彼女が二度と筆を握れない体になってしまったことなど。

チャプター (1)

第1話

「白石さん、脳内の血腫が神経を圧迫しており、いつ記憶を失ってもおかしくない非常に危険な状態です。ましてや、その腕では……」 医者は心配そうに、白石陽葵(しらいし ひまり)の装着したばかりの義手をちらりと見た。 「ご家族にご連絡の上、すぐに入院して経過観察されることをお勧めします」 「いいえ、結構です。ありがとうございます」陽葵は静かに首を横に振った。 結城蒼真(ゆうき そうま)にとって、彼女はただの嘘つきであり、たとえ話したところで信じてもらえるはずもなかった。 1ヶ月前、彼の最愛の人である水瀬栞奈(みなせ かんな)は、陽葵の絵が指導教官によってコンクールに出展されたことに嫉妬し、カッとなって陽葵に車で突っ込んできた。 夫であるはずの蒼真は、コンクールの出場辞退届を陽葵の前に投げつけた。 「どうしてお前は、何から何まで彼女と張り合おうとするんだ。この書類にサインして、出場枠を栞奈に返してやってくれ」 だが蒼真は知る由もなかった。陽葵の右腕はあの交通事故で既に切断されており、彼女が二度と筆を握れない体になってしまったことなど。 第1話 診察室を出ると、廊下の陰からひそひそと囁き合う声が陽葵の耳に届いた。 「あれ、彼女じゃない?なんであの白石陽葵が病院にいるの?」 「彼女を知ってるの?」 「当然でしょ。帝都で彼女を知らない人なんている?結城家の御曹司である結城蒼真には、長年付き合ってた幼馴染の恋人がいて、彼が病気の時も献身的に看病してたのよ。 それなのに、この陽葵って女が薬を盛って蒼真のベッドに潜り込んで、結城家に自分を妻として認めさせて、あの二人を無理やり引き裂いたのよ」 「ええっ、いくらなんでも図々しすぎるわね」 二人の声は次第に大きくなり、陽葵への軽蔑の念を一切隠そうともしなかった。 蒼真と結婚して以来、陽葵はこうした冷ややかな視線にはとっくに慣れっこになっていた。足を踏み出し、その場を離れようとしたちょうどその時、蒼真が栞奈を抱きかかえ、友人たちを引き連れて血相を変えて駆け込んでくるのが見えた。 「先生、彼女は1ヶ月前に交通事故に遭ったんですが、今日急に手が激しく痛むと言い出して……画家だから、手だけは何があっても助けてやってください!」 蒼真は焦燥感を露わにし、状況を一気にまくしたてた。 栞奈は涙を浮かべて訴えた。「蒼真、痛い……」 「怖がらなくていい、俺がついてるから」 その優しげな口調に、陽葵は一瞬、息を呑んで立ちすくんだ。 かつての蒼真も、彼女に対してこれほどまでに優しかった。だが今や、その温もりはとっくに彼女のものではなくなっている。 陽葵はこれ以上見ていられず、背を向けた。その時、蒼真の視界の隅に彼女の姿が入り、彼はそのまま追いかけてきた。 彼は陽葵の手からカルテを奪い取り、瞳に冷ややかな光を宿した。 「こんなものを印刷してどうするつもりだ?まだ栞奈の事故の責任を追及しようって言うのか?医者は栞奈の手が使い物にならなくなるかもしれないと言っているんだぞ、これ以上彼女をどうしたいんだ!」 陽葵は胸の奥で様々な感情が渦巻き、眉をひそめた。「どうして追及しちゃいけないの?車で私を撥ねたのは彼女よ!彼女の手はだめになるかもしれないけれど、私の腕はもう……」 「お前の腕がどうしたって!」 蒼真は無情にも彼女の言葉を遮った。「まさか腕でも折れたとでも言いたいのか?たとえ折れていたとして、それがどうしたって言うんだ!栞奈はうつ病を患ってるんだぞ。お前はもう彼女から俺の妻の座を奪い取っただろう。これだけ手に入れて、まだ足りないのか!」 そう言いながら、蒼真はカルテを粉々に引き裂いた。 陽葵はあまりの怒りに、かえって笑いが込み上げてきた。欠損した体以外に、自分が一体何を得たというのだろう。 それもそのはずだ。自分はとうの昔に、蒼真の母の結城裕子(ゆうき ひろこ)へ身を売り渡していたのだから。 かつて蒼真が不慮の事故で失明した時、栞奈は彼のもとを去っていった。蒼真を悲しませないため、裕子は声も体格も栞奈にそっくりな陽葵を連れてきた。 蒼真が失明していた2年間、陽葵もずっと彼のそばに寄り添い続けた。 その2年間、蒼真は彼女にとても優しかった。目は見えなくても、陽葵を寝かしつけるために物語を聞かせてくれ、彼女が疲れた時には背負って家まで帰ってくれた。 蒼真は甘やかすように言ったものだ。「馬鹿だな、俺は目が見えないだけで足が不自由なわけじゃない。これからはお前が俺の目になり、俺がお前の足になる。お前を背負って世界中を旅しようか、栞奈?」 陽葵は甘い幸せの中に、胸を締め付けられるような切なさを感じていた。自分がただの身代わりであり、本気になってはいけないと分かっていたのに、それでも蒼真を愛してしまった。 このまま一生、こうして幸せに生きていける。陽葵がそう思い込んでいた矢先、蒼真の視力が回復した。 彼は周囲の反対を押し切り、栞奈を探し出した。 裕子はこの2年間の出来事を蒼真に話すしかなかったが、彼は信じないどころか、陽葵が自分と栞奈の仲を引き裂くために裕子が連れてきた女だと決めつけた。 ところが、ある酒に酔った夜、裕子はなんと泥酔した蒼真を陽葵の部屋へ押し込み、無理やり一夜を共にさせて体の関係を持たせると、その既成事実を盾に強引に結婚を迫った。 当時、陽葵が幼い頃に過ごした孤児院が資金難に陥っており、これ以上お金がなければ、孤児院にいる何十人もの子供たちが路頭に迷う可能性があった。 彼女にはお金が必要だった、それも大金が。だから裕子の要求を飲むしかなかった。 だからこそ、蒼真が自分を骨の髄まで憎んでいると分かっていても、彼女は結城家に嫁いだのだった。 「あなたは……ずっとそんな風に思っていたの?」 「違うとでも?」目の前に立つ蒼真は、恐ろしいほど別人のようで、その瞳の奥には冷酷さしか宿っていなかった。 「お前が欲しかったものはすべて手に入れただろう。栞奈はただお前にちょっとぶつかっただけだ。こうして何事もなく無事に生きているじゃないか。これ以上、何を根に持つ必要がある!」 陽葵はその言葉を聞き、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたように締め付けられた。 もし自分の腕がまだ残っていたなら、力いっぱい蒼真の頬を平手打ちしてやりたかった。 だが、唯一残された左腕すら、もう持ち上げることすらできなかった。 第2話 二人が言い争っていると、蒼真の取り巻きたちが傍らで囃し立てた。 「俺に言わせりゃ、陽葵なんて女は、結局金が目当てなんだろ」 「そうそう、金が欲しいならはっきり言えよ。回りくどい真似して楽しいか?」 その言葉に合点がいったのか、蒼真の瞳に嘲りの色が浮かんだ。 「分かったぞ。お前がずっとサインを渋っているのは、金が欲しいからだな!言ってみろ、いくら欲しいんだ!」 その侮蔑に満ちた口調は、見えない平手打ちとなって陽葵の頬を張った。 蒼真はポケットから財布を取り出すと、キャッシュカードを陽葵の顔に向かって投げつけた。「この中に2000万円入ってる。これで十分だろう!」 弾かれたカードが床へと滑り落ちる。まるで陽葵の自尊心そのもののように、蒼真の靴の下で無残に踏みにじられていた。 「蒼真、どこにいるの?怖いよ……」 診察室から栞奈の叫び声が聞こえると、蒼真は一目散に駆け込んでいった。 周囲からどっと嘲笑が湧き起こった。 「陽葵、見たか。蒼真が一番愛してるのは栞奈だけだ。さっさと金をもらって消え失せろ!」 陽葵はそのカードを拾おうともせず、逃げるようにその場を立ち去った。 彼女の手は、二度と絵筆を握れない。あの「少女の秘めた想い」は、彼女が賞を獲れるかもしれない唯一の作品だった。 しかし3日も経たないうちに、陽葵は再び無情な現実に打ちのめされることになる。 幼い頃から彼女を育ててくれた孤児院の院長、佐藤佳代(さとう かよ)が病に倒れ、心臓移植手術に最低でも1億円が必要になったのだ。 病院に運ばれて検査を受けた結果、佳代の心臓病はすでにかなり進行しており、ここ数日の間に移植手術を行わなければ、いつ命を落としてもおかしくない状態だと陽葵は知らされた。 すっかり白髪交じりになった髪でベッドに横たわる佳代は、弱々しい声で呟いた。「人の寿命ばかりはどうにもならないものよ。陽葵ちゃん、そんなに悲しまないでおくれ」 陽葵は佳代の手を握りしめ、必死に首を横に振った。「だめ、佳代さんは絶対に大丈夫。佳代さんはとてもいい人だから、絶対に長生きするのよ」 佳代は慈しむように陽葵の頭を撫でた。「陽葵ちゃん、私が一番気がかりなのはあなたのことなの。でも最近、あるご婦人が私を訪ねてきてね。彼女、あなたと全く同じネックレスを持っていたのよ。もしかしたら……」 陽葵は涙を浮かべて首を振った。「佳代さん、もう私のことで心配しないで。たとえ一生家族が見つからなくても、佳代さんがそばにいてくれれば、それだけで十分なの」 「この子は、何を馬鹿なことを言ってるの」 陽葵はそっと涙を拭って病室を出ると、裕子にお金を借りようと電話をかけた。 しかし使用人によれば、裕子は友人と海外へバカンスに出かけており、いつ帰ってくるか分からないという。 陽葵にはどうすることもできず、蒼真を訪ねるしかなかった。 蒼真は不在で、代わりに栞奈がいた。 交通事故に遭って以来、蒼真は彼女を邸宅に迎え入れて世話をしており、ここの使用人たちも彼女に対して恭しく接し、まるで彼女こそがこの家の主人であるかのようだった。 「蒼真をお探し?彼なら私のために新鮮な鯛を買いに行ってくれたわ。骨の回復にはカルシウムが一番だからって、わざわざ自分で一から丁寧にあら汁を作ってくれるって張り切っちゃって」 「じゃあ、ここで彼を待つわ」陽葵は諦めきれなかった。 栞奈は鼻で笑った。「陽葵、蒼真にまとわりついて楽しい?彼はあなたのことが嫌いだって、顔を見るだけで鬱陶しいって私に言ってたわよ。紙切れ一枚の婚姻届で彼を縛り付けられるとでも思ってるの?彼は一生あなたには指一本触れないって約束してくれたわ」 陽葵は驚愕した。蒼真が夫婦間のそんなことまで栞奈に話しているとは思わず、恥ずかしさと怒りが込み上げた。 栞奈は彼女のそんな様子を見て、さらに得意げになった。 「蒼真が教えてくれたのはそれだけじゃないわ。彼があなたを罵った言葉の数々、一言一句まで私に話してくれたの。これで彼がどれだけあなたを嫌っているか、よく分かったでしょう?」 陽葵は深く息を吸い込んだ。「じゃあ、あの2年間、誰が彼を看病していたか、あなたは蒼真に言う勇気はあるの?」 栞奈はあざ笑うように肩をすくめてみせた。「あなたと彼のお母さんが、もう彼に話したんでしょう?彼が信じないのに、私にどうしろって言うの?陽葵、認めなさいよ。あなたはただの身代わりで、一生私には勝てないのよ」 陽葵は夜の8時まで待ち続け、ようやく蒼真が足早に帰ってきた。 外は風が吹き荒れ、陽葵は寒さで震えていた。彼女が前に出て蒼真に事情を説明しようとしたその時、栞奈が走り出てきて、哀願するように彼女の腕にすがりついた。 「陽葵、私のネックレスを返して!あれは私が生まれた時にお母さんがプレゼントしてくれたものなの。お願いだから、返してちょうだい!」 陽葵は訳が分からず当惑した。「何のネックレス?あなたが何を言っているのか全く分からないわ」 「今日私がつけていた三日月のネックレスよ!さっきあなたに会った後になくなっちゃったの」 蒼真は陽葵の腕を荒々しく掴んだ。「数日見ないうちに、泥棒の真似事まで覚えたのか?」 「盗んでなんていないわ」 「じゃあ何をしに来たんだ?」 「私……」陽葵は少し言葉を濁した。「お金を借りに来たの。私がコンクールを辞退すれば、お金をくれるって言ったでしょう?辞退するわ。もし私をまだ邪魔だと思うなら、今すぐあなたと離婚してもいい。私はただ1億円が必要なだけよ」 今は何よりも佳代の命が重要だった。 蒼真は複雑な表情を浮かべた。「ただ1億円だと?ずいぶんと大口を叩くようになったじゃないか、陽葵。いつから1億円すら端金のように見下すようになったんだ?」 第3話 「そういう意味じゃないわ。本当に命を救うためにこのお金が必要なの。お願い、1億円貸して。そのためなら何だってするから!」 蒼真は数秒ほど陽葵をじっと見据え、あの日自分が目を覚ました時、この女が同じベッドに寝ていた忌まわしい光景を思い返した。 金のためなら平気で身を売るような女だ。心の底から虫酸が走る。 蒼真は冷酷に顔を背けた。「手遅れだ。くれてやると言った時に突っぱねたのはお前だろう。今さら欲しがったって、もう遅いんだよ」 栞奈が口を挟んだ。「陽葵、いくらお金に困っているからって、人の物を盗むなんていけないことよ」 陽葵は声を荒らげた。「だから、あなたのネックレスなんて盗んでないって言ってるじゃない!」 「お前が盗んだんじゃないとしても、お前のせいで失くなったことに変わりはない。ここで探せ。見つからなければ、1億円の話はなかったことにする」 蒼真はそう言い捨てるなり、栞奈の腕を引いて屋敷の中へと入っていった。 夜の闇が深まる中、陽葵は懐中電灯のか細い明かりを頼りに、地面を這いずり回って探すほかなかった。吹き荒れる風は刻一刻と激しさを増し、やがて滝のような土砂降りの雨が容赦なく降り注ぐ。 全身はたちまちずぶ濡れになり、骨の芯まで凍りつくような冷たさが陽葵の体を刺し貫いた。 少しでも雨を凌ごうと屋敷の玄関へ向かったが、屈強なボディガードに立ち塞がれ、「ネックレスを見つけるまで一歩も中に入れるなと仰せつかっている」と冷酷に追い返されてしまった。 陽葵はただ、激しい雨がバラバラと体に打ちつけるのに耐えるしかなかった。顔を上げて滴る雨水を拭ったその瞬間、巨大なガラス窓の向こう側で、蒼真と栞奈が我を忘れたように熱い口づけを交わしているのが見えた。 彼の口づけは強引で、痛いほど情熱的だった。まるで腕の中の愛しい人が消えてしまうのを恐れているかのようだった。 陽葵の心臓は再び鋭い痛みに貫かれた。だが、記憶の中の蒼真は、決してあんなふうではなかったはずだ。 初めて口づけを交わした時、陽葵は息継ぎの仕方も分からず、心臓が早鐘のように鳴り響いていた。 蒼真はそんな彼女をからかい、「ずっと一緒にいるのに、どうしてそんなに照れるんだ」と笑ったものだ。 陽葵はさらに顔を赤くした。それが恥じらいからなのか、それとも自分が身代わりであるという真実を知られる恐怖からなのか、自分でも分からなかった。 蒼真は優しく、穏やかな声で囁いた。「いいんだ。俺たちには一生の時間がある。お前がゆっくり俺に慣れるまで、いつまでも待つから」 あの記憶が、まるで前世の出来事のように遠く霞んでいく。陽葵は思った。私たちに残された時間は、もう本当に僅かなのだと。 部屋の中では、ふと心ここにあらずになった蒼真に気づき、栞奈が両手で彼の顔を包み込んでいた。 彼女は甘えるように唇を尖らせた。「蒼真、何を考えてるの?もっと私に集中して」 「もちろん、お前のことを考えていたさ」蒼真は彼女に微笑みかけたが、その視線は無意識のうちに窓の外にいる陽葵の姿へと向かっていた。 降りしきる雨の向こう、今にも崩れ落ちそうな陽葵の立ち姿はひどく弱々しく、見る者の胸を締め付けた。 だが、蒼真はすぐさま頭の中の馬鹿げた雑念を振り払った。 虚栄心に目が眩み、どんな汚い手を使ってでも結城家に嫁ごうとしたのはあの女だ。こんな目に遭うのもすべて自業自得だ。 大雨は夜通し降り続き、陽葵の体は凍りついてとうに感覚を失っていたが、それでもネックレスは見つからなかった。 見つかるはずがないのだ。それは栞奈のでっち上げだったのだから。 夜が明け、ようやく扉が開いた。蒼真は紫色に変色した陽葵の唇を一瞥すると、冷たく言い放った。 「入れ。サインしたらさっさと金をもらって失せろ」 結局のところ、蒼真は絆された。 陽葵は屋敷の中へと駆け込んだ。字を書くことができない彼女は、左手で拇印を押すほかなかった。 蒼真はわずかに眉をひそめたが、それ以上は気にも留めなかった。 「お金は?」陽葵はすがるように尋ねた。 いつの間に来ていたのか、栞奈の母親である水瀬美香(みなせ みか)が部屋へ入ってくるなり、嫌悪も露わに吐き捨てた。 「薄汚くて、臭くてたまらないわ。こんな女が蒼真さんを誘惑しようとしてたわけ?鏡を見てごらんなさいよ。そんな惨めな姿で、うちの娘の足元にも及ばないわ」 陽葵は相手にする気力もなく、蒼真だけを見据えて叫んだ。「お金は?1億円をちょうだい!」 その態度に美香は激怒した。「この女、目上の人間が話しかけてるのに何て無礼な態度なの!まるで親なしの野良犬ね。ろくな躾も受けてないのが丸わかりだわ!」 栞奈がせせら笑いながら同調した。「お母さん、怒らないであげて。陽葵は元々親に教わったことなんてないんだから。孤児だもの」 陽葵は拳をきつく握りしめ、煮えくり返る感情を必死に押し殺した。「蒼真が私にお金をくれるって約束したの」 蒼真の顔に苛立ちが走り、彼はキャッシュカードを床に向かって投げ捨てた。「金、金、金!お前の頭の中には金しかないのか!」 陽葵が拾おうと身を屈めた瞬間、栞奈がキャッシュカードを冷酷に踏みつけた。 「陽葵、手を使っちゃだめよ。命を救うためのお金なんでしょ?手で拾うなんて誠意が足りないんじゃない?」 栞奈は最初から、すべてを分かっていてやっている。 あの交通事故さえ、陽葵の右手を奪うために故意に車を突っ込ませたのだから。 美香は意地悪く唇を歪めた。「だったら犬みたいに口でくわえて拾いなさいよ。どうせあんたみたいな下賎な人間は、金のためなら何だってするんでしょう?」 屈辱が一本一本の棘となって陽葵の全身に深く突き刺さる。彼女は血が滲むほど強く唇を噛み締めた。 陽葵がいつまでも動かないのを見て、蒼真は冷たく目を細めた。「拾わないなら、誰か他のやつにくれてやってもいいんだぞ」 「私にちょうだい!」陽葵は切羽詰まった声で叫んだ。 佳代の命より大切なものなんて、この世にはない。 陽葵は屈辱を無理やり飲み込み、ゆっくりと床に膝をつくと、そのキャッシュカードを口でくわえ上げた。 その惨めな姿を見て蒼真は溜飲を下げるはずだった。だが、なぜか自分でも分からないほどのどす黒い怒りが突然込み上げてきた。 「お前は金のためならプライドすら捨てるのか!さっさと俺の目の前から消え失せろ!」 陽葵は転がるようにして屋敷を飛び出し、そのままタクシーに飛び乗って病院へと急いだ。 病室に飛び込むなり、医師や看護師たちが佳代を囲んで必死に蘇生措置を行っている光景が目に飛び込んできた。陽葵の心臓がどくっと嫌な音を立てる。やがて、一人の医師が静かに彼女の方へ歩み寄ってきた。 「申し訳ありません。我々も尽力いたしましたが、残念ながら佐藤さんはお亡くなりになりました。死亡確認時刻は、本日14時45分です」 第4話 陽葵の頭の中で、激しい轟音が鳴り響いた。まるで突然巨大な岩石で打ち据えられたかのような衝撃に襲われ、頭が割れてしまいそうに痛む。 「嘘よ……嘘でしょう!」 目の前が真っ暗になり、力なく佳代のベッドの前に崩れ落ちた陽葵は泣き叫んだ。「お金なら、用意できたのに。これでまた元気になれるはずだったのに!どうして待っててくれなかったの……どうして……」 火葬はあっという間に済んだ。魂を抜き取られた抜け殻のようになっていた陽葵が再び対面した時、佳代はすでに冷たい骨壺の中に収められていた。 骨壺を渡される際、看護師が一つの書類袋を差し出した。これが佳代が最後に遺したものだという。 陽葵が急いで中を開けると、そこには美香の写真と、陽葵自身の写真が入っていた。 さらに一枚のDNA鑑定書が同封されており、そこには美香と陽葵の名前とともに、二人が実の母娘であるという鑑定結果がはっきりと記されていた。 あまりの衝撃に手が震え、指先から書類袋が滑り落ちる。 佳代が言っていた人とは、他ならぬ美香のことだったのか。けれど、よりによってどうして、栞奈の母親なのだろう。 一方その頃、栞奈の父親である水瀬和彦(みなせ かずひこ)と美香を連れて病院へやって来ていた栞奈は、廊下の向こうから歩いてくる陽葵と鉢合わせた。 「どうしてどこに行っても、この忌々しい女に出くわすのかしら」美香は露骨に不快そうな顔を歪めた。 陽葵は目の前に立つ美香を見つめた。身に纏う衣服はどれも華美で上質、その指先は白く滑らかだ。一目で、温室育ちの恵まれた生活を送ってきたことがわかる。 陽葵は自分のこれまでの過酷な歳月を思い返した。ゴミの山を漁っては使えそうなものを探し出し、他人が食べ残した残飯を拾い食いして、冬になっても寒さを凌ぐ分厚い上着すらなく、凍傷で体中を青紫に腫らしていた日々。 もしあの時、孤児院に引き取られていなければ、とうの昔に道端で野垂れ死んでいたはずだ。 陽葵は涙を浮かべて美香に尋ねた。「あなたには……栞奈の他に、もう一人娘がいるんじゃないの?」 美香の目に一瞬、戸惑いの色がよぎった。栞奈を産む前、水瀬家には確かに別の娘がいたが、3歳の時に行方不明になっていたのだ。 それは和彦と美香にとって長年消えることのない心の傷であり、今日に至るまで水瀬家はずっとその子の捜索を諦めていなかった。 だが、美香はすぐに目を吊り上げた。「どうしてそれを知っているの?ああ、分かったわ。うちのことを嗅ぎ回ったのね?言っておくけれど、もし栞奈に少しでも危害を加える気なら、この私が絶対に許さないわよ!」 「お母さん、彼女に腹を立てるだけ無駄よ。あんな惨めなピエロに、私をどうにかできるわけないじゃない」 和彦が冷たく言い放った。「栞奈、お前は人が良すぎるんだ。あんな親なしの野良犬は、幼い頃からまともな躾を受けていない。どんな汚い手を使ってくるか分かったもんじゃないぞ」 栞奈は鼻で笑った。「お父さん、そんな言い方しちゃだめよ。正確に言えば、陽葵は親がいないんじゃなくて、実の親を見つけられない孤児ってだけだもの」 美香が同調する。「親が見つからなくてかえって幸いだったわね。もし実の親がこんな出来損ないの姿を見たら、さぞかし疎ましく思ったでしょうから」 その言葉を浴びるうちに、陽葵の瞳からボロボロと涙がこぼれ落ちた。 「ええ、そうよ。私には親がいないわ。そんなに私に何をされるか怖いなら、二度と私に構わないで!」 彼女は佳代の骨壺を抱きしめ、逃げるようにその場を走り去った。これ以上一秒でも長くここにいれば、耐えきれずに美香に向かって真実を叫んでしまいそうだったからだ。 この忌まわしい、出来損ないの私こそが、あなたたちの実の娘なのだと。 誰もいない片隅まで駆け抜けると、陽葵はようやくその場にしゃがみ込み、冷たい骨壺をきつく抱きしめながら声を上げて泣き崩れた。 ――佳代さん。私のお父さんとお母さんを見つけてくれたのに、どうしよう。あの人たちは、私のことなんて少しも好きじゃないみたい。 この世界で一番私を愛してくれたのは佳代さんだけだったのに……今度は佳代さんまで、私を置いていってしまったのね。 ひとしきり泣きはらし、陽葵が立ち上がろうとしたその時、不意に目の前が真っ暗に沈み、頭の中が真っ白になった。 茫然と前を見つめたまま、彼女は自分が帰るべき道すら思い出せなくなっていた。 第5話 陽葵の記憶力は、日に日に衰え始めていた。玄関を出た途端に行く先を忘れ、気づけば見知らぬ場所に立ち尽くし、どうやってそこへ来たのかすら思い出せない。 やがて、彼女の記憶からこぼれ落ちていくものはどんどん増えていった。 それでもいいと、陽葵は思った。このままいけば、すぐにでも蒼真のことも、この胸を切り裂くような苦しみも、すべて忘れ去ることができるのだから。 数日後、裕子は自身の誕生日の当日に屋敷へと帰ってきた。 招待客への挨拶をひと通り済ませると、裕子は陽葵を人目のつかない場所へと連れ出した。留守の間に起きた出来事は使用人から耳にしており、陽葵と蒼真の間で何があったのか、ある程度の事情は察していた。 陽葵はそこで初めて、自ら離婚を切り出した。 「陽葵ちゃん、この3年間、蒼真があなたに辛い思いをさせてきたことは分かってるわ。でも、あの子が栞奈なんて女に騙されたままでいいの?」 陽葵は掠れた声で言った。「私と蒼真の間に、愛なんてありません。このまま一緒にいても、彼も私も苦しいだけなんです。どうか私をここから去らせてください」 裕子が何かを言いかけようと口を開いたその時、突然乱暴にドアが押し開けられた。 蒼真の整った顔立ちには、激しい怒りが満ちていた。 「陽葵、お前ってやつは本当に浅ましい女だな。1億円を手に入れた途端に離婚だと?いいだろう、今日この家を出て行くというなら、二度と戻ってこられると思うなよ!」 「ああ……」誰にも止められないと悟り、裕子は力なくため息をついた。「なんという悪縁かしら」 階下の宴会場は華やかな音楽と歓談に包まれていた。蒼真は栞奈をエスコートして客たちの間を巡り、寄り添い合う二人を見れば、誰もが「お似合いのカップルです」と口を揃えて褒めそやした。 陽葵は自分が着ている安っぽい白いTシャツを見下ろし、自嘲気味に笑いを漏らした。 泥にまみれて生きてきた自分が、あの光り輝く世界に並べるはずもない。彼らこそが同じ世界に住む人間なのだ。自分のような場違いな人間は、とっくの昔にこの舞台から退場しているべきだったのだ。 陽葵は身を潜めるようにメインホールを避け、裏手の非常通路から屋敷を抜け出そうとした。 だがその時、むせ返るような酒臭さを放つ人影が不意に飛び出してきて、彼女の行く手を塞いだ。 「おやぁ、可愛いお嬢ちゃん、どこへ行くんだい?どこの家の子か知らないが、とびきりのべっぴんさんだねえ。いっそ俺と一緒に帰らないか?」 男は下卑た手つきで陽葵の腰に抱きついてきた。陽葵は必死に振り払おうとしたが、義手の右腕ではまったく力が入らない。 彼女が悲鳴を上げても、男は強引に彼女を床へと押し倒した。 男は陽葵の口を塞ぎながら、彼女の服を引き裂こうとする。 絶望の淵に突き落とされたその瞬間、男の体が乱暴に引き剥がされた。 陽葵が恐怖に怯えながら見上げると、そこにいたのは蒼真だった。 彼は男の顔面に強烈な拳を叩き込み、何度も何度も容赦なく殴り続けた。 あまりの恐ろしさに怯えた陽葵は、蒼真を止めようと思わずその体に抱きつこうとした。しかし、振り返った彼の目は血走り、激しい怒りに燃えていた。 「陽葵、お前はどこまで卑しい女なんだ!結城家を出る前から、もう別の男を漁り始めるとはな!」 栞奈がわざとらしく口元を覆った。「陽葵、ここが結城家だと分かっているの?よくもまあ、そんな恥知らずな真似ができるわね。 いくら普段蒼真に冷たくされているからって、彼の目の届くところで堂々と男を誘惑するなんて……こんなに大勢の人が見ているのに、結城家の顔に泥を塗る気?」 騒ぎが大きくなり、事情を知らない客たちが面白半分でこちらへ集まってきた。 社交界の修羅場を数多く見てきた裕子は、すぐさま見物人たちを散らし、酔っ払いの男を病院へ運ばせる手配をした。そして蒼真をなだめるように言った。「蒼真、これはきっと何かの誤解よ。まずは陽葵ちゃんの話を聞いてあげなさい」 「誤解なものか。俺がこの目ではっきり見たんだ、間違いあるはずがない」 かつて結城家に嫁ぐためなら、薬を盛るような卑劣な手段すら使った女だ。今の蒼真の目には、彼女がまた別の男に同じ手を使って誘惑したようにしか見えなかった。 こんな恥知らずな女、顔を見るだけでも虫酸が走る。 「お前、離婚したいと言っていたな?いいだろう。明日の10時、俺のオフィスへ来い!」 陽葵はもう弁解する気力すら湧かなかった。ただ一刻も早く、この地獄を終わらせたかった。 「分かったわ」 第6話 裕子はもう、陽葵を引き留めることはできないのだと悟っていた。 「陽葵ちゃん、ごめんなさいね。あの時、あなたに栞奈の身代わりをさせて蒼真の世話を頼んだりせず、最初からあの子に真実を打ち明けていれば……こんな仕打ちを受けることもなかったはずなのに。あの子はね、本来は誰に対しても礼儀を弁えた優しい子なのよ」 確かに、蒼真は誰に対しても礼儀正しく振る舞う。ただ一人、陽葵のことだけを忌み嫌っているというだけの話だ。 陽葵は何も答えず、ただ静かに笑みを浮かべた。 裕子が再び尋ねる。「これからどうするかは決まっているの?もしお金が必要なら、私に言いなさいね」 実際のところ、この数年間、裕子は陽葵にとても良くしてくれた。世界中で佳代の次に陽葵を大切にしてくれた人だ。だからこそ、陽葵は一度たりとも裕子を恨んだことなどなかった。 彼女の手元には蒼真から渡された1億円がある。これからの生活を立て直すには十分すぎる額だった。 陽葵は固い決意を込めて告げた。「ありがとうございます。でも、お気遣いは無用です。私はここから去りますから」 今度こそ、彼女は本当にここを去るのだ。 裕子は最後にただ力なく首を振るしかなかった。 翌朝、陽葵は約束の時間通りに蒼真のオフィスへ足を運んだ。 だが、蒼真はすぐに離婚協議書へサインしようとはしなかった。陽葵のことなど目に入らないとばかりに放置し、これ見よがしに栞奈と甘い睦み合いを見せつけていた。 栞奈は最新号のウェディングドレスの雑誌を手に蒼真の膝の上に座り、甘ったるい声を上げている。「ねえ蒼真、このドレスどうかしら?私に似合う?」 蒼真は優しく甘い声で答えた。「当然似合うさ。栞奈は何を着ても綺麗だ」 傍若無人にいちゃつく二人を前に、陽葵の忍耐はついに限界に達した。 「そっちの用事は終わった?いつになったら離婚協議書にサインしてくれるの?」 蒼真は立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄ると、冷ややかな声で言った。「なんだ?3年も俺を待たせたくせに、たかだか30分待たされただけで腹を立てるのか?それとも、もう次の男のところへ行きたくて待ちきれないとでも言うのか! 誰のことだ?昨夜のあの男か?どう見ても大した男じゃなかったがな。俺の拳に数発耐えることすらできなかったぞ」 その冷酷な嘲りに対し、驚いたことに陽葵は一切否定しなかった。 「確かに大した男じゃなかったわね。だから彼以外にも、また別の男を探すつもりよ。私の時間を無駄にしたくないの、早くサインして」 蒼真の顔色が一瞬にして険しく沈んだ。漆黒の瞳に凄まじい怒りを滲ませると、腹立ち紛れに傍らの椅子を蹴り飛ばす。 「いいだろう、陽葵。いい度胸じゃないか」 スマホを取り出しアシスタントへ電話をかけようと顔を上げたその瞬間、栞奈のすぐ横にあった大型の本棚が、突如として倒れかかってきた。 「栞奈、危ない!」蒼真は咄嗟に飛び込み、栞奈をかばってその身の下に覆い隠した。 高さ2メートルはある重厚な本棚が、二人をまとめて下敷きにしてしまった。 栞奈は痛みにボロボロと涙を流した。「蒼真、痛い……」 蒼真は陽葵に向かって怒鳴りつけた。「何突っ立っている!早くこれをどかせ!」 陽葵はその場に立ち尽くし、一時的にどうしていいか分からずおろおろとしていた。手伝いたくないわけではない。義手の彼女には、到底そんな重い家具をどかせる力などないのだ。 「ちょっと待ってて!」陽葵は背を向け、助けを求めるためにオフィスの外へ走り出した。 だが、その光景は蒼真の目に「見殺しにして逃げた」ようにしか映らなかった。 陽葵が社内の人間を呼び集め、皆が協力して本棚を持ち上げた。ようやく二人が救出され、陽葵が様子を見ようと駆け寄った瞬間、蒼真は乱暴に腕を振り上げて彼女を激しく突き飛ばした。 「今更いい人のふりなどするな!お前は、俺たちが潰されて死ぬのを見て喜びたかったんだろう!たとえ死んでも、お前だけは絶対に許さない。のうのうと生きていられると思うなよ!」 そう吐き捨てると、蒼真は栞奈を抱きかかえて足早にその場を去っていった。 先ほど突き飛ばされた衝撃で、陽葵が額を机の角に強打し、おびただしい鮮血を流していることなど――彼は欠片も気づかないまま。 第7話 ほどなくして、陽葵は蒼真が言い放った「のうのうと生きていられると思うな」という言葉の真意を痛感することとなった。 彼は陽葵の収入源を徹底的に断ち、クレジットカードを凍結したばかりか、孤児院への資金援助まで全て撤回した。そのうえ、もし少しでも援助の手を差し伸べる企業があれば、この結城家を敵に回すものとみなす、とまで公言した。 離婚にはすでに同意したというのに、なぜここまで残酷に追い詰められなければならないのか、陽葵には理解できなかった。 だが、蒼真が突きつけてきたのはたった一言だった。「栞奈に謝れ」 「どうして私が彼女に謝らなければならないの?」 「お前のせいで、栞奈の手はまた傷を負ったんだ。医者からは、向こう1年は絵を描けないと言われた。謝って当然だろうが!」 これ以上心が傷つくことなどないと思っていた陽葵だったが、蒼真の言葉を聞いた瞬間、心臓を無数の針で刺し貫かれたような鋭い痛みが走った。 ――じゃあ、私はどうなるの?夫婦として過ごしたこの3年間、蒼真はほんのわずかでも私の痛みを気遣ってくれたことがあっただろうか。 「……分かったわ。彼女に謝る」 再び結城家のリビングに立ち、陽葵が栞奈に向かって深く腰を折って謝罪した時、床に一滴の涙がポツリと落ちた。 「これで満足?」陽葵は蒼真に問いかけた。 蒼真はなぜか、陽葵のその強がるような顔を見ると、言い知れぬ苛立ちが胸の奥で渦巻くのを感じた。 彼は不機嫌そうに冷たく鼻を鳴らし、何も答えなかった。 代わりに執拗に食い下がってきたのは美香だった。愛娘が再び怪我をしたと聞くやいなや、彼女は胸を痛めて一日中栞奈のそばに付きっきりになっていた。 美香は激昂し、陽葵に何度も容赦なく平手を叩きつけた。「この疫病神!あんたのせいで栞奈が怪我をしたのよ。栞奈の手がどれほど大切なものか分かっているの! どうしてあんたは栞奈から何でも奪おうとするの。どうして怪我をしたのが、あんたの手じゃないのよ!」 その瞬間、陽葵の目頭が赤く染まった。美香を見つめ返すその両目は、真っ赤に血走っていた。 かつて、彼女は数え切れないほど思い描いてきた。もしもいつの日か実の母親に巡り会えたなら、どんな言葉をかけてもらえるのだろうか。 自分を愛してくれるだろうか、と。 佳代は言っていた。迷子になった時、陽葵ちゃんはお姫様のような愛らしいドレスを着ていたから、お母さんはきっと、あなたを深く愛していたはずよ、と。 しかし思いもよらなかった。実の母親がこれほどまでに自分を嫌悪し、自分の手が傷つけばいいとまで呪ってくるなどと。 ――でも、お母さんの願いはとうに叶っているわ。私の右手は、ずっと前に失われているのだから。 「何よ、その目は!」 美香は警戒と怨嗟の入り混じった声で陽葵に言い放った。「また何か企んで私たちに復讐しようって魂胆でしょ。うちの栞奈がやられっぱなしになると思ったら大間違いよ。もしこれ以上栞奈に指一本でも触れてみなさい、この命に代えてもただじゃおかないからね!」 栞奈がか弱い仕草で、美香の服の裾を引いた。「お母さん、そんな恐ろしいこと言わないで。私だって、お母さんに何かあるのは嫌よ。陽葵、文句があるなら私に言って。お母さんを傷つけないで」 互いを庇い合う母娘の茶番を目の当たりにし、陽葵は涙を滲ませながら自嘲の笑みを漏らした。 「安心して。私にそんな真似ができるわけないわ。あなたを傷つけたりしないし、あなたのお母さんを傷つけることもないから」 俯いた拍子に、陽葵の首元からネックレスがするりと滑り落ちた。 拾い上げようと陽葵が身をかがめた途端、美香が横から素早くそれを奪い取った。 「このネックレス……」美香は訝しげに声を上げた。「これ、栞奈のじゃない!どうしてあんたが持っているの?」 その三日月型のネックレスは、陽葵が迷子になる前から身につけていたもので、幼い頃からずっと肌身離さず持っていたものだった。 「返して、それは私のよ!」 陽葵はそう言って取り戻そうとしたが、蒼真に力ずくで押さえつけられた。 栞奈がすかさず口を挟む。「それはどう見ても私のものよ。ねえ蒼真、この前私がネックレスをなくしたって言ったの覚えてる?まさにこれのことよ!」 蒼真は陽葵を乱暴に突き飛ばし、怒声を浴びせた。「見つからなかったと言っていなかったか?なぜお前が持っている!お前は金に困って狂ったのか?ネックレス一本すら盗むとはな!」 「あの日、私は栞奈のネックレスなんて見ていないわ。このネックレスは私のものよ」 だが、陽葵がどれほど弁解しようと、彼らが信じてくれるはずもなかった。 「何が『私のもの』よ!これは私が自分の娘のために買ったものよ、見間違えるわけがないでしょう!」 美香は激怒し、陽葵の頬を力任せに張り飛ばした。「あんたって子は、どうしてここまで性根が腐っているの!栞奈の夫を奪い、彼女の手に怪我をさせたうえ、ネックレスまで盗むなんて。一体どんな親なら、あんたみたいな性悪な娘を産み落とせるっていうの!実の親が心底哀れだわ!」 強烈なビンタを食らい、陽葵の脳内でごうと耳鳴りが鳴り響いた。強く握りしめた拳の中で、爪が手のひらの肉に深く食い込んだ。何かを言い返そうと口を開きかけたものの、しばらくの間、何の声も発することができなかった。 自分が何を言ったところで全て無駄なのだと悟り、一瞬にして全身から力が抜け落ちていくのを感じた。 「……じゃあ、彼女に返して。もう要らないわ」 第8話 陽葵はただ、一刻も早くこの場から逃げ出したかった。幾度となく自分を絶望の底へ突き落としてきた、この忌まわしい場所から。 だが、蒼真がそうあっさりと彼女を解放するはずもなかった。 栞奈の手に怪我を負わせたのはお前なのだから、その責任を取れ――蒼真はそう言い放ち、栞奈が完治するまで結城家を出て行くことを禁じた。 そう言い捨てると、彼は陽葵を地下室へと冷酷に放り込んだ。 栞奈は蒼真の腕にすがりついて言った。「蒼真、私、陽葵に責任なんて取ってほしくないわ。ただあなたに、早く彼女と離婚してほしいの。そうすれば、私たちが早く堂々と夫婦になれるでしょう?」 蒼真は一瞬だけ表情を強張らせた。「離婚など遅かれ早かれ時間の問題だ。だがその前に、あいつにはお前の手の怪我の代償を払わせる」 地下室はじめじめとして底冷えがした。彼らは陽葵に一枚の毛布すら与えなかった。 陽葵は凍える体を丸め、暗い地下室の片隅でただ縮こまっていることしかできなかった。 夜更け、重い扉が開く音がして、栞奈が姿を現した。 彼女は地下室の酷い有様を鼻持ちならない様子で見回すと、嘲るように笑った。 「ほらね、陽葵。言ったでしょう、あなたは私には勝てないって。どうしてあなたのこと、見れば見るほど虫唾が走るのかと不思議だったのよ。まさかあなたが、私の忌々しいお姉ちゃんだなんてね。私たち、よっぽど悪縁で結ばれてるみたい」 陽葵は驚愕に目を見開いた。「どうして、知っているの?」 すると栞奈は、二本のまったく同じネックレスを取り出して見せた。 「このネックレスね、お母さんが特注で作らせたものなの。お母さんが言っていたわ。私が一本、お母さんが一本、そして最後の一本は、行方不明になったもう一人の娘が身につけているって。 あなたはこのことを知っていたはずなのに、どうして自分がその娘だって打ち明けなかったのかしら?」 栞奈は意地悪く鼻を鳴らした。 「どうやら、少しは賢くなったみたいね。本当のことを言ったって、誰も信じてくれないって悟ったんでしょう?蒼真の時と同じようにね。失明した彼をずっと世話していたのが自分だったと打ち明けたところで、どうなった? 彼は変わらずあなたを憎んでいるわ。お母さんも同じ。お母さんがあなたをどれほど毛嫌いしていたか、その目でちゃんと見たでしょう?あなたのこと、薄汚くて見苦しい疫病神だって心の底から嫌悪しているのよ!たとえあなたが実の娘だと知ったところで、絶対に認めやしないわ!」 「……それ以上、言わないで!」 栞奈が吐き捨てる一言ひとことが鋭利な刃となって、陽葵の胸を深く抉り、呼吸することすらままならなかった。 栞奈は狂ったように甲高い笑い声を上げた。「いいえ、まだまだ言い足りないくらいよ!私が座るはずだった結城夫人の座を奪ったんだから、当然の報いよ!あなた、あの孤児院を一番大事にしているんでしょう?安心して、私が絶対にあの孤児院を潰してあげるから!」 陽葵はさっと血の気を引かせた。「栞奈、あなた血も涙もないの!?これは私たちの問題でしょう、孤児院の皆は関係ないじゃない!」 「そんなこと私の知ったことじゃないわ。私はね、あなたが不幸のどん底で苦しむ姿を見られれば、それで大満足なのよ」 「そっちが約束を反故にするというなら、私が交わした約束だって、守る義理はないわね」 栞奈が不快げに眉をひそめた。「どういう意味よ?」 陽葵は静かに告げた。「知らないでしょうけど、指導教官は私の辞退届に目を通したうえで、諦めるなと引き留めてくれたのよ。私が思い直すなら、あの書類なんてなかったことにして、もう一度私をエントリーさせてあげるってね」 それはつまり、栞奈が再びコンクールの出場資格を剥奪されることを意味していた。 それを聞いた瞬間、栞奈は血相を変えて激昂し、陽葵に飛びかかるとその細い首を力任せに締め上げた。「ふざけるんじゃないわよ!もし彼女にもう一度エントリーなんてさせたら、ただじゃおかないからね!」 陽葵は喉を締め上げられて息も絶え絶えになりながらも、その瞳に微塵の怯えも見せなかった。 「あなたが孤児院を潰すというなら、私はあなたからコンクールの資格を永遠に奪ってやる!」 さすがの栞奈も、人を殺す度胸まではなかった。彼女は苛立ちをぶつけるように手を離すと、腹立ち紛れに地下室の物を手当たり次第に破壊して回った。 蒼真が屋敷へ戻ると、そこには目を真っ赤に腫らして泣きじゃくる栞奈の姿があった。 彼は痛ましそうに尋ねた。「どうしたんだ、何があった?」 栞奈はしゃくりあげながら陽葵の言葉を並べ立て、いたたまれないといった様子で蒼真の胸に縋りついた。 「蒼真……私、手がこんなになってしまって。今年コンクールに出られなかったら、来年も出られる保証なんてないわ、どうしよう!ぜんぶ私が不注意なのがいけないのよ。手がどれだけ大事か分かっているのに、何度も怪我をしてしまうなんて……」 「お前のせいなわけがないだろう。悪いのは陽葵のやつだ!あの嘘つきの卑劣な女め、また金を強請り取るつもりか?」 栞奈は弱々しくすすり泣いた。「陽葵ったら、どうしてこんな酷いことをするのかしら。あなたはもう1億円も渡してあげたのに。私たちはこれから先もずっと、彼女に脅されて、底なし沼に金をつぎ込むように搾取され続けなきゃいけないの?」 蒼真は顔を強張らせ、怒りに任せて勢いよく立ち上がった。栞奈が不安げに尋ねる。「蒼真、どこへ行くの?」 「心配するな。あの女のふざけた企みを、完全に絶たせてやる方法がある」 第9話 蒼真は少し離れた場所へ歩み寄り、アシスタントに電話をかけた。今すぐ陽葵の指導教官のところへ向かい、コンクールに出展していたあの絵――「少女の秘めた想い」を結城家へ持ち帰るよう命じた。 アシスタントが突然押しかけてきたため、指導教官は訳が分からなかったが、強引な引き取りを止めることもできず、こっそり陽葵に電話をして知らせるしかなかった。 陽葵は瞬時に事態を悟り、這い上がるようにして蒼真のもとへ向かおうとした。 だが図らずも、蒼真が栞奈を伴い、彼女の絵を手にして部屋へ入ってきた。 彼は使用人に命じ、地下室に火鉢を持ち込ませて火を起こさせた。 「陽葵、お前は一体いくら金を巻き上げれば気が済むんだ!俺が甘やかしすぎたせいで、お前は図に乗って何度もこの絵を盾に栞奈を脅しやがって。今、お前の目の前でこれを燃やしてやる。二度とこんな物で姑息な真似ができないようにな!」 陽葵は恐怖のあまりパニックに陥り、火鉢の前に立ちはだかって泣きながら懇願した。 「蒼真、お願い、やめて!私は何も要らない、お金も要らないから、どうかその絵だけは返して。お願いだから燃やさないで……それは、私の最後の夢なの。 コンクールになんて絶対に出さないと約束するわ。この絵を持って、あなたたちの前から永遠に消えるから。二度と邪魔はしない、だからお願い!」 陽葵にとって、それは単なる一枚の絵ではなかった。この世界に残された、たった一つの心の拠り所だったのだ。 これからの何十年もの間、自分が廃人のように生きていかなければならないと思うと、人生に何の希望も見出せなかった。 けれど、この絵を見るたびに、過去の自分に出会えるような気がした。少なくとも自分はかつて鮮やかに生きていて、夢を抱いていたのだと。 「何も要らないだと?お前のような強欲で浅ましい女の言葉を、誰が真に受けると思うんだ!」 蒼真は彼女の悲痛な哀願に耳を貸そうともせず、力任せに陽葵を脇へ突き飛ばすと、一切の容赦なく絵を炎の中へと放り込んだ。 栞奈はわざと陽葵の腕を掴んで引き留め、その耳元でひっそりと言った。「陽葵、あなたには何一つ守れない。これで、本当に何もかも失ったわね」 そして栞奈は不注意を装い、わざと火鉢を蹴り倒した。 火鉢の中のガソリンが撒き散らされ、火勢は一気に増した。絵は瞬く間に激しい炎に包まれた。 それを見た陽葵は半狂乱になって火の中へ飛び込んでいき、栞奈は手を離してもう彼女を止めようとはしなかった。 炎は獰猛な獣のように勢いを増し、もはや制御不能な状態へと陥った。閉ざされた地下室に、黒々とした濃煙が立ち込める。 陽葵は絵を包む火を消そうと手を伸ばしたが、悲しいことに腕はまったく持ち上がらない。焦りのあまり、彼女は自分の袖で、足で、そして身を挺して必死に火を揉み消そうとした。 蒼真が彼女に向かって怒鳴った。「陽葵!たかが絵一枚に、そこまで命を懸けるか!」 栞奈が蒼真の腕を引いて外へ向かおうとする。「蒼真、早く出ましょう。ここ、すぐに火の海になっちゃうわ」 「だが……」 「いいから!陽葵があなたを見殺しにしようとしたこと、忘れたの?これくらいの火、彼女なら一人で逃げ出せるわ」 蒼真は数日前、自分が本棚の下敷きになった時、振り返りもせずに立ち去った陽葵の冷酷な背中を思い出し、瞬時に心が氷のように冷え切った。彼は栞奈の手を引き、外へと駆け出した。 しかし彼は見ていなかった。二人が飛び出したその瞬間、大型のスチールラックが激しい音を立てて倒壊し、崩れ落ちた荷物が唯一の出口を完全に塞ぎ止めてしまったことを。 陽葵は炎の中から半分だけ救い出した絵を口にくわえ、必死に体当たりして障害物を押しのけようとした。 けれど、背後の炎はまるで大鎌を振りかざした死神のように、じりじりと距離を詰めてくる。 喉が張り裂けんばかりに声を枯らし、陽葵は必死に救いを求め続けた。 しかし、濃い煙が彼女を完全に飲み込むまで、その助けを呼ぶ声に誰かが応えることは、ついに一度もなかった。 陽葵は絶望の中で床に崩れ落ち、固く閉ざされた扉を見つめた。 彼女は思った。もし来世があるのなら、もう二度と蒼真には出会いたくない、と。 彼を愛してしまったことこそが、この生涯で最も後悔したことだった。 彼女はゆっくりと目を閉じ、完全に意識を手放した。炎が自分を呑み込んでいくのになすがままに任せた。 第10話 蒼真は地下室から出ると、執事を見つけて声をかけた。 「地下室で火が出た。誰か呼んで処理させろ。栞奈が煙を吸ったから、俺は病院へ連れて行く。あと、もし地下室で絵を見つけたらすぐに処分しろ。二度と俺の目に入れるな」 彼は陽葵の存在について一言も触れず、指示を終えると車を出して栞奈を病院へ連れて行った。 栞奈にこれといった異常はなかったが、念のため医師がさらに詳しい検査を行っていた。廊下に立つ蒼真の胸には、なぜか得体の知れない焦燥感がざわめいていた。 彼がふと外へ出ると、向こうから顔を覆って泣いている裕子の姿が目に入った。 裕子が邸宅へ駆けつけた時、まさに執事が陽葵を外へ運び出している最中だった。重度の酸欠により、陽葵の顔は生気を失い、凄惨なほど土気色に変色していた。 執事から事の顛末を聞かされた裕子は、胸を刺すような罪悪感に駆られ、横たわる陽葵の手を握りしめようとした。だがその瞬間、指先に不自然な感触を覚えた。 袖をめくり上げ、陽葵の腕がシリコン製の義手であるのを目にした時、裕子は息を呑んで硬直した。 陽葵が緊急処置を受けている間、裕子は自分が留守にしていた数日間に何が起きたのか、人を遣って徹底的に調べ上げた。 陽葵が受けていたあまりに無惨な仕打ちを聞き、裕子は胸を張り裂かせるようにして涙を流した。 ――すべては私のせいよ。あの時、私が陽葵ちゃんに蒼真の看病なんて頼まなければ。あの子を無理やり結城家に嫁がせたりしなければ……あんなに生気に満ちていた子が、こんな無惨な姿になるはずがなかったのに。私とこの結城家が、陽葵ちゃんの未来をめちゃくちゃにしてしまったのよ。 「お母さん?そこで何をしているんだ?」蒼真が歩み寄って尋ねた。 裕子は激しい怒りに任せ、蒼真の胸を何度も叩きつけた。「この大馬鹿者!陽葵ちゃんになんて酷い仕打ちをしたの!あの子があなたのために、どれほど苦しい思いをしてきたか分かっているの!」 「あいつ、またお母さんに告げ口したのか!」 蒼真はひどく苛立った声で言い放った。「お母さん、あいつの言うことなんか真に受けちゃ駄目だ。俺はすでに1億円も渡してやったのに、あいつはまだ栞奈を脅して金を強請り取ろうとしたんだ。あの女は金のことしか頭にないんだよ!」 「1億円?あなた、陽葵ちゃんがその1億円を何のために必要としていたか、本当に分かっているの!」 「他に何があるっていうんだ。あんな見栄ばかりの女だ、どうせ自分の贅沢のために湯水のように使う気だったに決まってる」 「あなたって子は……本当に……」裕子はここでようやく、陽葵がこれまで突き落とされてきた底知れぬ絶望を、身をもって思い知らされた。 自分の産んだ息子は、ここまで人の心が通わない、救いようのない人間になってしまっていたのだ。 その時、手術室からマスク姿の医師が出てくると、無力感に満ちた表情で裕子に向かって静かに首を横に振った。 裕子は膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。 蒼真が咄嗟に彼女の体を支える。「お母さん、一体どうしたんだ?誰か運び込まれたのか?」 「あなたには関係のないことよ。どうせ、あなたにとっては取るに足らない人間のことだわ。栞奈と一緒に来たんでしょう?さっさとあなたの大事な栞奈のところへ行きなさい。これからはもう、あなたたちの邪魔をする人なんて、誰もいなくなったんだから」 裕子は無情にも蒼真の手を振り払い、医師の後に続いて歩き去っていった。 蒼真には、裕子の言葉の真意がまったく理解できなかった。 ――お母さんは俺と栞奈が一緒になることを、ついに認めてくれたということか? 確かめようと後を追おうとしたその時、背後から栞奈に呼び止められた。 ――まあいい、後で聞けば済む話だ。確かめる機会など、この先いくらでもある。 蒼真が栞奈の検査を終えて邸宅へ戻ると、室内はすでに使用人たちの手によって綺麗に片付けられ、まるで何事もなかったかのように静まり返っていた。 蒼真は執事に尋ねた。「あの絵は処分したか?」 執事は答えた。「私どもが駆けつけた時には、地下室は炎でひどく焼け焦げておりました。あの絵も、おそらくすでに灰になっているかと」 「ひどく焼け焦げていた?」 蒼真も、火の手がそこまで凄まじい勢いだったとは予想しておらず、一瞬だけ胸がざわついた。 「それで、人はどうなった?誰か怪我でもしたのか?」 執事は一瞬言葉を詰まらせたが、静かに答えた。「いえ、怪我人は一人もおりません」 確かに怪我人などいなかった。先ほど裕子から、陽葵はすでに息を引き取ったと直接知らされていたからだ。 もし蒼真が追及してきたとしても、一切知らないと突き通すつもりだった。 どうせこの冷酷な主は、陽葵の生死など少しも気にかけてはいないのだから。 それを聞いた蒼真は、深い安堵の息を漏らした。 それからの数日間、蒼真は栞奈をこれ以上ないほど手厚く世話し、彼女に寄り添うために会社の重要な仕事すらすべて後回しにしたほどだった。 彼は言った。「栞奈、俺が一番暗くどん底にいた時、お前は見捨てずに側にいてくれた。だから俺も、一生お前を大切にするよ」 栞奈は不自然に口角を引き攣らせた。 しかし、陽葵はここ数日まったく姿を現さない。本当にどこかへ消え去ってくれたのかもしれない。 二人が離婚さえすれば、結城夫人の座は自分のものになるのだ。 栞奈は蒼真に抱きついた。「ねえ蒼真、今の言葉、絶対に忘れないでね。私の一生、あなたが面倒を見てくれるって」 「ああ、約束する」 美香は、自分の娘が結城家へ嫁ぐことが決定的になったと知るや否や、有頂天になって喜んだ。 「やっぱり、あなたと蒼真さんこそお似合いの夫婦だわ。あの陽葵とかいう忌々しい女さえいなければ、あなたたちはとっくに結ばれていたはずなのに。そういえば、ここ数日彼女の顔を見ないけれど、どこへ消えたのかしら?」 栞奈は優雅に林檎をかじりながら答えた。「さあね、誰にも分からないわ。どこかの路地裏で本当に野垂れ死んでいるかもしれないわね」 「死んでくれたなら清々するわ。あんな性悪女、生きていたって他人の物を奪い取るだけなんだから」 美香は顔をほころばせて話題を変えた。「最近バタバタしていて言うのを忘れていたのだけれど、あなたのお姉ちゃんのことで進展があったのよ! あの孤児院に連絡がついたんだけど、彼女にとてもよく似た情報を持つ女の子がいたんですって。念のために、私と和彦の血液サンプルを渡してDNA鑑定に回してもらったの。 数日前に孤児院の院長が突然亡くなってしまったらしくて少しゴタゴタしたけれど、大丈夫よ。病院に直接連絡をつけたから、今日中には鑑定結果が私のスマホに送られてくる手はずになっているわ」 言い終わるか終わらないかのうちに、美香のスマートフォンが短い通知音を鳴らした。 「きっと鑑定結果だわ。栞奈、ついにあなたのお姉ちゃんが見つかるのよ!」

More GoodNovel Novels