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隠れ妻の座はもういらない
秘密の結婚生活も3年目。 家の靴箱には、相変わらず三足のスリッパが並んでいる。 高橋修一(たかはし しゅういち)のもの、学生のもの、そして友人のもの。 私、結城咲希(ゆうき さき)の分だけが、ぽつんと欠けている。 彼が新しい使い捨てスリッパを差し出してきたとき、私は淡々とした声で口にした。 「私が買ったあのスリッパは?」 彼は私を見ようともせず、「あいつらが来る前に捨てた」と答えた。 私は「そう」とだけ声を漏らした。 胸の奥がツンと痛むのを押し殺し、何気ない風を装って尋ねる。「美波も今回来たの?」 「いや、来てない」 彼は嘘をついている。 なぜなら、ついさっき星野美波(ほしの みなみ)から挑発するようなメッセージが届いたばかりだからだ。 【実のところ、あなたってすごく可哀想。私たちが遊びに行くたび、清掃員のふりをしてゴミを持って下へ降りなきゃいけないんだから。 考えたことない?彼は関係を公表できないんじゃなくて、ただ公表したくないだけかもしれないって】 スマートフォンの画面を消し、私は洗面所へ向かった。 洗面台の鏡にべったりと残された無数の手形は、まるで何かの宣戦布告のようだった。 修一のそばを通り過ぎる時、なぜ私に嘘をついたのか。 それに、なぜ彼のトークアプリで一番上にピン留めされているのが私ではなく、星のアイコンの彼女なのかと彼を問い詰めなかった。 リビングで彼に付き合ってテレビのサッカー中継を観て、窓の外の星をしばらく眺めたあと、私は金庫の中に隠されていたスリッパを取り出し、笑みを浮かべながら彼の前に押し出した。 「そんなに彼女が大切なら、いつまでもコソコソ隠してないで、堂々と表に出してあげればいいのに」
チャプター (1)
第1話
秘密の結婚生活も3年目。
家の靴箱には、相変わらず三足のスリッパが並んでいる。
高橋修一(たかはし しゅういち)のもの、学生のもの、そして友人のもの。
私、結城咲希(ゆうき さき)の分だけが、ぽつんと欠けている。
彼が新しい使い捨てスリッパを差し出してきたとき、私は淡々とした声で口にした。
「私が買ったあのスリッパは?」
彼は私を見ようともせず、「あいつらが来る前に捨てた」と答えた。
私は「そう」とだけ声を漏らした。
胸の奥がツンと痛むのを押し殺し、何気ない風を装って尋ねる。「美波も今回来たの?」
「いや、来てない」
彼は嘘をついている。
なぜなら、ついさっき星野美波(ほしの みなみ)から挑発するようなメッセージが届いたばかりだからだ。
【実のところ、あなたってすごく可哀想。私たちが遊びに行くたび、清掃員のふりをしてゴミを持って下へ降りなきゃいけないんだから。
考えたことない?彼は関係を公表できないんじゃなくて、ただ公表したくないだけかもしれないって】
スマートフォンの画面を消し、私は洗面所へ向かった。
洗面台の鏡にべったりと残された無数の手形は、まるで何かの宣戦布告のようだった。
修一のそばを通り過ぎる時、なぜ私に嘘をついたのか。
それに、なぜ彼のトークアプリで一番上にピン留めされているのが私ではなく、星のアイコンの彼女なのかと彼を問い詰めなかった。
リビングで彼に付き合ってテレビのサッカー中継を観て、窓の外の星をしばらく眺めたあと、私は金庫の中に隠されていたスリッパを取り出し、笑みを浮かべながら彼の前に押し出した。
「そんなに彼女が大切なら、いつまでもコソコソ隠してないで、堂々と表に出してあげればいいのに」
第1話
星の刺繍が施されたそのスリッパを見て、修一の口元の笑みが一瞬引きつった。
それでも、彼はまだ言い訳を試みた。
「美波がうちで一番悪ふざけの過ぎる学生だって、お前も知ってるだろう。ただのいたずらさ」
そう言いながら、彼の指がすっと絡みつき、昔のように私の掌を軽くくすぐってきた。
私は何の反応も示さなかった。
ただ、聞きたかった。
どういう図太い神経をしていれば、一介の学生が、指導教員の家を自由に出入りできるのか。
二人は洗面所で何をして、どれだけ長く留まれば、鏡にあれほど無数の痕跡を残せるのか。
出かかった言葉を、私はグッと飲み込んだ。
絡みつく彼の手も避けた。
私は彼を見つめた。「つまり、あなたの学生は、家の暗証番号も、寝室の暗証番号も、挙句の果てには金庫の暗証番号まで知っているってこと?」
彼は口を固く結び、何も答えなかった。
私を見つめるその瞳には、どこか非難めいた色が滲んでいる。
あの金庫は、私が初任給で彼に贈ったプレゼントだった。
将来、俺たちの婚姻届受理証明書や家の権利書、家族の通帳、そして子どもの出生届受理証明書をここに入れようと、彼は言っていた。
だが今、私の履くスリッパは、この広い家のどこにも置き場所がない。
彼の学生のスリッパは、平然と金庫の中に隠されているというのに。
「最初はスリッパ、次は暗証番号、今度は金庫の話か?咲希、お前は一体何が言いたいんだ?」
痛いところを突かれるたび、彼は決まって話をすり替える。
そして、すべての責任を私に押し付ける。
私が彼に問い詰めた時だって、そうだった。
「いつになったら、この家に堂々と私のスリッパを置けるようになるの?あなたの学生や同僚、友人が遊びに来るたびに、スリッパを捨てられずに済むのはいつなの?」
彼はいつも笑って答えた。「俺たちの関係を公表する日が来たらね」
「じゃあ、いつ公表するの?」
彼は眼鏡を押し上げながら言った。「俺が正教授に昇進するまで待ってくれ。今、自分の教え子と結婚したなんて知られたら、これまでの努力がすべて水の泡になってしまう……」
だから私は、歯を食いしばって待ち続けた。
彼が遠距離恋愛は嫌だと言うから、私は海外留学のチャンスを諦めた。
彼が「胃が痛む」とこぼしたから、私は民間企業で受付の仕事を選んだ。残業も夜更かしもせず、ただ彼の胃を労わるためだけに。
彼の生活に溶け込み、共通の話題を持つために、私は仕事さえ辞め、死に物狂いで彼が勤める大学の職員採用試験の勉強に励んだ。
それなのに、昇進を果たせば、今度は重要なプロジェクトを勝ち取らなければと言い、プロジェクトが終われば、今度は学内の優秀職員表彰を狙うと言い出した。
この3年間、私はまるで雑巾のようだった。
必要な場所を、必要な時に拭くためだけの存在。
彼の同級生、友人、同僚が家で食事会を開くとなれば、仕事を休んで買い出しに行くのは私で、テーブルから溢れんばかりのごちそうを用意するのも私。
料理を作り終え、皿に美しく盛り付け、ワインの準備まで済ませた後、私はパンパンに膨らんだゴミ袋を提げ、マスクをして階段を降りていく。
10フロア分もの階段。
1階降りるごとに、私は考えずにはいられなかった。
スリッパはもう捨てたから、彼らが家に入って靴を履き替える時、何も怪しまれないはずだ。
まな板は元の場所に戻したし、冷蔵庫の食材も補充した。枕に落ちていた髪の毛すら一本残らず拾い集め、ゴミ箱に捨ててすべて下に持ってきたから、証拠は何も残っていないはずだ、と。
あの日々。私は彼の同僚から見れば、料理のうまい家政婦さんだった。
彼の友人から見れば、よく働くお手伝いさんだった。
ただ一つ、彼が対外的に紹介する「高橋夫人」であることだけは絶対にあり得なかった。
それなのに、私がどれほど長く耐えて待ち望んだその居場所を、まさか一人の女子学生にいとも容易く奪われてしまうなんて。
彼は私の存在がバレるのを恐れ、私のスリッパをゴミ箱に捨てた。
彼は美波の存在が私にバレるのを恐れ、彼女のスリッパを金庫に隠した。
私がこれほど尽くし、これほど寛容に振る舞って手に入れた場所は、所詮ゴミ箱と同じだったのだ。
まったく、笑わせてくれる。
そんな回想は、聞き慣れた男の声に遮られた。
「お前もかつては俺の教え子だったんだから、学生の苦労は分かるだろう。美波は身寄りがない孤児で、両親がいないんだ。俺は少し面倒を見てやっているだけだ。変な勘繰りをするのはやめてくれないか?」
修一は少し眉をひそめた。
顔に浮かんだ苛立ちを押し殺すと、彼は息を吐き、私の腰に手を回した。
「分かった、もう怒るな。約束するよ。結婚3周年の記念日に、俺たちの関係を公表しよう」
私は数秒だけ動きを止めた。
そして、彼の指を一本ずつ引き剥がした。
私は顔を上げ、修一の訝しむような視線を真っ向から見据えた。「もう公表しなくていいわ。私たち、離婚しましょう」
第2話
修一はまるで質の悪い冗談でも聞いたかのように鼻で笑った。
「お前、ふざけてるのか?」
私は首を横に振った。
彼は唇を固く結び、すっと表情を冷たくした。彼が怒りを露わにする時のサインだ。
「たかが美波のスリッパ一足のことでか?」
私は唇を動かし、違うと言い返したかった。
だが、ふと気づいた。
私が耐え忍んできた3年、1000日以上も味わってきた惨めさを、彼は見ていない。いや、見ようとしていないのだと。
ならば、言っても言わなくても同じことではないか。
私は伏し目がちになり、初めて彼を無視して、自分の部屋に戻ろうと踵を返した。
だが、手首を力任せに掴み止められた。
「待てよ!」
修一は苛立たしげにリビングを指差した。「これ、片付けないつもりか?」
彼が指し示す方へ視線をやる。
照明の光に照らされた彼の指先が、やけに眩しく目に刺さった。
薬指にあるはずの結婚指輪は、とうの昔に消え失せている。
指輪の跡すら、微塵も残っていない。
結婚した翌日に彼は指輪を外してしまい、当時の私は少し悲しい思いをしたものだ。
彼は私の耳元に顔を寄せ、甘い息を吹きかけながら笑って慰めてくれた。「午後から授業があるんだ。辛い思いをさせてるのは分かってる。後で全部埋め合わせるから、な?」
彼の言葉はひどく甘く響いた。
けれど、その指輪が再び彼の指に戻ることはなかった。
時には、そのことで文句を言ったこともある。
すると彼は決まって、物分かりの悪い子供を見るような目で私を見下ろした。
「咲希、俺は准教授になったばかりで、大学の幹部たちからも期待されてるんだ。今は波風を立てるわけにはいかない。些細なことほど慎重にしておかないと駄目なんだよ」
あの頃の私は、本当に愚かで純粋だった。
彼の言葉なら何でも信じた。
思いもしなかったのだ。あの指輪が、私やこの結婚と同じように、彼の目にはどうでもいい「些細なこと」でしかないなんて。
美波が腹痛を訴えることよりも。
彼女がホームシックでご飯が喉を通らないことよりも。
彼女が奨学金をもらえなくて落ち込み、彼が直接慰めに行かなければならないことよりも、価値がないのだ。
そんな過去を思い返し、再び目の前の惨状に目を向ける。
私はふいに、声を上げて笑ってしまった。
テーブルクロスには茶色い油汚れがべったりと広がり、皿の上の豚の角煮はとうに蝋のように白く固まり、冷たい蛍光灯の下でただただ吐き気を催すだけ。
まるで、私と修一の結婚のようだ。
外見は華やかに繕っていても、実際はとっくに穴だらけなのだ。
私が買い出しに2時間かけ、キッチンで3時間立ちっぱなしで働き、さらにはマンションの階下で何時間も待たされていたことなど、彼は知りもしない。
私がお腹を空かせていないか、疲れていないか、寒くないかなんて、聞きもしない。
頭にあるのは、私に掃除をさせることだけ。
まるで私が本当に、都合よく呼びつけられては追い払われるだけのお手伝いさんであるかのように。
食べ散らかされた冷え切った残飯に、私の寂しげな笑い声が重なり、ひときわ痛々しさを際立たせる。
修一は何も言わず、ただ手を伸ばして私の額に触れ、それから口を開いた。
「お前、一体どうしたんだ?なんだってそんなに神経質になってるんだよ」
私はその手を振り払い、初めて彼を拒絶した。
「疲れたから、休むわ。食べた本人が片付けて。嫌なら、家政婦でも呼べばいいわ」
そう言い捨てて、私はくるりと背を向けた。
「おい……急にヒステリーでも起こしてんのかよ?なんでそんなに訳が分からないんだよ」
聞き慣れた非難の言葉を背に浴びながら、私は以前のように慌てふためき、どう弁解しようかと悩むことはなかった。
振り返ることすらせず、私はそのままバスルームへと足を踏み入れた。
熱いシャワーが毛穴の隅々にまで染み渡る。
それでようやく、私は息を吹き返したような気がした。
修一の言う通りだ。身寄りのない孤児が、見知らぬ土地で学生生活を送るのがどれほど心細く過酷か、私には痛いほどよく分かる。
だからこそ、あの時トイレに閉じ込められ、修一に助け出された時、私は彼に好意を抱いたのだ。
当時の彼は、大学に来たばかりの助手だった。
年齢も若く、物腰が柔らかで、私と目が合うだけで顔を赤らめるような人だった。
彼に助けられることが重なるうち、私たちは自然と惹かれ合い、人目を忍んで付き合い始めた。
そして大学卒業と同時に、婚姻届を提出した。
あの頃の彼は、夜の山頂で自分自身が寒さに震えながらも、コートを広げて私ごとぎゅっと抱きしめてくれたものだ。
「咲希、俺と結婚してくれ。毎日、家に帰ればお前がいる生活がしたいんだ。お前が俺のために灯してくれる、あのあたたかいオレンジ色の明かりが見たい」
耳元でシャワーの音が響き続ける。
鏡に重なり合った生々しい手形が視界を掠めた瞬間、私はハッと我に返った。
スマートフォンを手に取り、鏡の中の自分を見つめながら通話口へ告げた。「先輩、離婚協議書の作成をお願いします」
第3話
朝8時。
私が起きた時、修一はすでに大学へ行っていた。
テーブルには、彼が珍しく用意した朝食と一枚のメモが置かれていた。
【リビングは業者に片付けさせた。子供みたいなワガママは言わず、しっかり寝て、起きたら朝食を食えよ】
修一の筆跡は、息を呑むほど端正だ。どこまでも清らかで気品があり、彼の知的で整った佇まいそのものだった。
メモを見つめながら、温かいご飯と出汁巻き卵を口へ運ぶ。胸にポッカリと空いた穴が、少しずつ塞がっていくような気がした。
だが、それもほんの束の間の錯覚に過ぎなかった。
ピロンと通知音が鳴り、スマートフォンの画面に美波のSNSの投稿が表示された。
私の目の前にあるご飯と出汁巻き卵が、彼女の食卓にも寸分違わず並んでいた。
しかも、私よりも量が多い。
写真にはこんな一言が添えられていた。【超ラッキー!学生と一緒に朝食を食べてくれる最高の指導教員をついにゲット!】
写真に写っている黄色と青のペアのお椀は、見覚えがありすぎて目に刺さった。
それは去年、修一が私を旅行に連れて行ってくれた時、自ら選んでくれたものだ。
このお椀の明るい色合いが、よく私に似ていると言って。
私は口では照れ隠しに文句を言いながらも、胸の中は喜びで満ちていた。
使うのがもったいなくて、宝物のように戸棚に飾り、わざわざ隣に二人のツーショット写真を置いていたほどだ。
その後、あの写真はなぜか忽然と姿を消してしまった。
残されたのは、このペアのお椀だけ。
そして今、彼はそのお椀を使って、美波にご飯をよそっているのだ。
これまで何度もあったことだ。私がまだ退社していないというのに、彼から催促の電話がかかってくる。
「美波がまた胃が痛いって言ってるんだ。お前の作るお汁は美味いから、飲みたいってせがんできてさ」
あれは、私が風邪をこじらせて熱を出し、体温が40度まで上がった2日目のことだった。
朝起きた時、病院まで車で送ってくれないかと彼に頼んだ。
彼は鏡に向かってネクタイを締め直しながら言った。
「午前中に会議があるんだ。会議が終わったら、送っていくよ」
私はその言葉を信じ、会社に座って一分一秒と待ち続けた。
ポケットからスマートフォンを取り出しては、またしまうのを繰り返した。
同僚に「彼氏からの連絡待ち?」と冷やかされ、私は苦笑いを浮かべて唇を噛んだ。
頭がガンガンと割れるように痛む。
待ち焦がれた彼からの着信音が鳴った瞬間、私はバッグをひっつかみ、今にもオフィスを飛び出そうとしていた。
しかし、彼は私が熱を出していることなど、すっかり忘れていたようだ。
私を病院に送る約束も。
ただ、自分の教え子のためにお汁を作れと命じることしか頭になかった。
お汁を作る。
彼は全く分かっていない。
昆布と鰹節から丁寧に出汁を引き、具材の下ごしらえをしてから根菜が柔らかくなるまでじっくり煮込むのに、丸2時間はかかるということを。
言われた通りにお汁を作り終えた頃には、病院の予約時間はとうに過ぎていた。
彼は胃が冷えやすい体質だった。だから私が何十回も失敗を重ねた末に、生姜と大根を組み合わせて体を温めるレシピをようやく見つけ出したのだ。
それなのに彼は、私の身を削るような真心を、いともあっさりと教え子の機嫌を取るためのダシに使ってしまった。
スマートフォンの振動で、私は我に返った。
「結城さんですか?大学の事務局です。先日の筆記試験を通過されましたので、午後から面接にお越しください」
「はい、時間通りに伺います」
私が到着すると、廊下には他の応募者もいた。
なんと、その中に美波もいた。
彼女はニコニコしながら近づいてきて、声を潜めて言った。
「咲希さん、本当は来ない方がよかったのに。わざわざ足を運んだって、どうせ無駄骨なんだから。この採用枠、最初から内定が決まってるのよ」
「どういう意味?」
彼女は私を上から下までジロジロと見て、軽蔑の眼差しを隠そうともしなかった。
「高橋先生があなたのことを馬鹿だってずっと言ってるのも無理ないわね。ここまで言っても分からないの?この枠、先生が私にくれたのよ」
私が言い返そうとしたその時、ちょうど面接室の中から名前を呼ばれた。
中に入って席に着く。
面接官は申し訳なさそうに不採用の通知書を差し出し、気まずげに頭を下げた。「結城さん、本来ならあなたの経歴はこの事務職にぴったりだったのですが、急遽内部の人間を採用することになりまして。本当に申し訳ありません」
次の瞬間、スマートフォンに美波から推薦状の画像が送られてきた。
その末尾、推薦人の欄に記されていた名前は――紛れもなく、「高橋修一」だった。
私は見えない手に首を絞められたように、一言も言葉を絞り出せなかった。
スマートフォンが震え続けている。
修一からの、自分自身すら騙せないような言い訳のメッセージだった。
【咲希、このチャンスは美波に譲ってやってくれないか?あいつは両親もいなくて生活も苦しいんだ。この枠を譲ってやれば、今後の学費や生活費の目処が立って、もうアルバイトで人の顔色を窺う必要もなくなる。お前も昔は同じように苦労したんだから、わかってくれるよな?】
【どうして何も言わないんだ?】
その後は何もなかった。
電話もメッセージもない。
私に対する彼の忍耐力は、たったのこの数秒しかなかった。
私は目を閉じた。
再び目を開けた時、ずっと連絡を取っていなかったかつての恩師に電話をかけ、そして数年遅れの航空券を予約した。
家に帰ると、美波がソファに座って、美味しそうにフルーツを口に運んでいた。
第4話
美波の足元では、星の刺繍が施されたあのスリッパが、得意げにぴょこぴょこと上下に揺れている。一方、私が履いているのは安っぽい使い捨てスリッパのままだ。
キッチンからは油の爆ぜる音が聞こえてくる。
私を見ると、美波は立ち上がった。
昼間の挑発的な態度はすっかり影を潜め、いかにも恩義を感じているような殊勝な顔つきだ。
「咲希さん……」
私は彼女を無視して通り過ぎ、クローゼットへスーツケースを取りに向かった。
その時、修一がキッチンから出てきて、私を咎めるような声を上げた。
「咲希、何ツンツンしてんだよ。美波がわざわざお礼を言いに来てくれたんだ、もう少し大人な対応ができないのか?」
フライ返しを握り、エプロンを身に着けた彼の姿が視界を掠める。
私と結婚して今日に至るまで、修一がキッチンに立ったことなど一度たりともなかった。
鼻炎だから油の匂いは嗅げない、と言っていた。
大学教授である自分の手はペンを握るためのものだ、と言っていた。
それなのに今、可愛い教え子のために、彼は片手にフライ返しを、もう片手に布巾を握っている。
鼻炎も、あの高尚ぶった学者気取りも、すっかり綺麗に治ってしまったらしい。
それでもなお、彼は私が間違っていると思っている。
私はもう、言い争う気力すら失っていた。
ただ首を横に振り、背を向けて立ち去ろうとした。
彼が私の腕を掴み、真摯な目を向けてきた。
「俺たちの関係、美波に話したよ。お前が俺の妻だってこと、あいつにも分かってもらったから」
私は足を止め、何の感情も浮かばない瞳で彼を見つめ返した。
「……それで?」
修一は眉をひそめ、どこか言い淀んでいるようだった。
代わりに美波が目を赤くして近寄ってきた。
「咲希さん、私と先生の関係を誤解なさっています。先生はただ、私の境遇を不憫に思って力になろうとしてくださっただけなんです。
今回の採用試験、咲希さんが合格されて、大学の掲示板にもお名前が貼り出されていますよね。ですから……その」
彼女は私をちらりと見た。怯えたような声色とは裏腹に、その眼差しは冷酷だった。
「ご自分から辞退を申し出ていただけないでしょうか……咲希さんが自発的に辞退してくだされば、私の採用も名実ともに正当なものになりますから」
その言葉が落ちた瞬間、修一はばつが悪そうに目を逸らした。
彼は私を直視できなかった。
ましてや、自分の口から私に頼み込むことなどできるはずもなかった。
だが、美波をこの家に連れ込んだ時点で、彼の答えはすでに出ているのだ。
私はふっと笑みをこぼし、修一の方へ向き直った。
「いいわよ、声明を出しても。でもその代わり、この書類にサインしてちょうだい」
「何だ?」
修一は布巾を置き、エプロンで手を拭った。
私はバッグから離婚協議書を取り出し、彼の目の前に差し出した。
彼は呆然と立ち尽くした。
茶色い瞳が微かに揺れ、そのまま凍りついたように固まっている。
美波は私の手にある書類を見つめ、その目に隠しきれない喜びの色を浮かべた。
だが、口では声を上げて泣きじゃくってみせた。
「咲希さん、嫌ならいいんです!私がこの枠を諦めて、またアルバイト生活に戻ればいいだけですから!離婚だなんて言って、先生を脅さないでください!」
美波の泣き声にハッと我に返ったように、修一の顔にじわじわと怒りが浮かび上がった。
「咲希!いい加減にしろよ!そんなに俺と離婚したいのか!」
「ええ!」
私は頷き、一歩も引かずに彼を睨み返した。
「あの子はあなたがずっと好きで、あなたもあの子が好きなんでしょう?あなたの妻という席は、彼女に譲ってあげるわ。
これからは、あの子のスリッパをわざわざ私の金庫に隠さなくていいわよ。汚らわしい!」
修一の顔が強張った。
私は協議書を彼の手の中に無理やり押し付け、背を向けて立ち去ろうとした。
次の瞬間。
ガシャン。
修一が壁の隅にフライ返しを力任せに叩きつけた。みるみる顔色を険しくさせ、その目には怒りが満ちていた。
「この家は俺がずっと支えてきたんだぞ!お前の一存で勝手に離婚できるわけがないだろう!自分ばっかり辛い思いをしてるとでも思っているのか?美波はな……」
「先生!落ち着いてください!もう言わないで!」
美波は口では止めに入りながらも、私がすでに署名したページを、わざと修一の目の前に突きつけるように手で押しやった。
修一の表情がさっと陰り、冷酷に強張った。
歯を食いしばり、一字一句を絞り出すように言った。
「美波は妊娠してるんだぞ!それでも妻の座を奪おうなんて考えもしないで、ただあの採用枠が欲しいってだけで、わざわざお前に謝りに来たっていうのに。お前は離婚を盾にして俺を脅すのか!
言っておくがな、お前がいなくたって俺はもっと上手くやっていけるんだよ!」
修一は一歩踏み出し、私を射抜くような眼差しを向けた。
「いいだろう、離婚してやる!咲希、絶対に後悔するな!」
私は、あの女の勝ち誇ったような顔には目もくれなかった。
彼女のわずかに膨らんだお腹も見なかった。
ただ、修一の目を真っ直ぐに見据えていた。
この人はかつて、大雪の中私を背負って何キロも歩いてくれた。自分の足に血豆ができても、私には一歩たりとも歩かせようとはしなかった。
なけなしの助手の給料から、こっそりと私の4年間分の学費と生活費を工面してくれた。
自分は食費を切り詰め、固くなったパンをかじるような極貧生活を送りながら、その苦労を何ひとつ口にしなかった。
卒業証書を手にしたあの夜。彼は山頂で膝をつき、夜空に向かって叫ぶように私に誓った。
「咲希!あと3年、いや、1年だけ待ってくれ!准教授に上がったら、絶対に俺たちの関係を公表するから!
お前が俺の妻だって世界中に自慢したくてたまらないんだ!早く俺たちの子供を作りたいんだ!」
けれど、私は1年、また1年と待ち続けた。
今、彼は念願の教授に昇進したというのに、別の女の子供の父親になろうとしている。
胸の奥が、焼け付くように痛んだ。
私は涙をこらえ、ふっと静かに笑い声を漏らした。
「それじゃあ、おめでとう」
「咲希!お前、それ以外に言うことはないのか!?」
修一の表情は冷酷そのもので、その瞳にはこれまで一度たりとも見たことがないほどの刺々しい怒気が宿っていた。
私は首を横に振り、風に吹かれれば消えてしまいそうなほど静かな声で言った。
「協議書にサインしたら、送り返して」
そう言い残すと、私はクローゼットに残したスーツケースのことなど構っていられなかった。
逆上する修一の凄まじい形相に目もくれず、身を翻して玄関を飛び出した。
タクシーに乗り込む。便を前倒しに変更する。チェックインを済ませる。
飛行機のドアが閉まったその瞬間、スマートフォンが壊れんばかりの勢いで激しく震え出した。
通知画面を埋め尽くしているのは、修一からの音声メッセージだった。
「咲希、頼むからスマホを見てくれ。俺たちの関係、もう公表したから……」