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慰謝料が十億?私は一万円しか貰ってないけど
私の名前は森下あずさ(もりした あずさ)。 妊娠3ヶ月の頃、夫の藤田裕翔(ふじた ゆうと)は「妊娠すると夫婦生活に影響が出るから」と言い、幼なじみでもある秘書・遠藤由梨(えんどう ゆり)を通して、私に1万円を渡し、中絶するよう迫った。 私は中絶を拒み、署名済みの離婚届を残し、裕翔の前から姿を消した。 それから5年。 裕翔と再会したのは、市立こども病院だった。 彼はその日、病院に60億円もの寄付をしたらしい。 一方私は、娘・奈々美(ななみ)の面倒を見ながら、病院の食堂で働いていた。
チャプター (1)
第1話
私の名前は森下あずさ(もりした あずさ)。
妊娠3ヶ月の頃、夫の藤田裕翔(ふじた ゆうと)は「妊娠すると夫婦生活に影響が出るから」と言い、幼なじみでもある秘書・遠藤由梨(えんどう ゆり)を通して、私に1万円を渡し、中絶するよう迫った。
私は中絶を拒み、署名済みの離婚届を残し、裕翔の前から姿を消した。
それから5年。
裕翔と再会したのは、市立こども病院だった。
彼はその日、病院に60億円もの寄付をしたらしい。
一方私は、娘・奈々美(ななみ)の面倒を見ながら、病院の食堂で働いていた。
第1話
昼休み。
お腹を空かせた奈々美は、食べ残された唐揚げを見つけると、小さな手を伸ばした。
「奈々美!」
私は慌てて、その手を引き戻す。
「前も言ったでしょう。人が残したものは食べちゃだめだって」
奈々美はしょんぼりしながらも、目だけは唐揚げから離れない。
「でも、お皿に残ってるだけだよ。まだゴミ箱には入ってないもん。奈々美、食べられるよ」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
私は慌てて、朝残しておいた半分のパンを出し、奈々美に渡した。
その時、背後から聞き覚えのある声が落ちてきた。
「……あずさ?」
全身が強張った。
ゆっくり振り返ると、食堂の入口には、院長や記者たちに囲まれた裕翔が立っていた。
5年ぶりに見るその姿は、昔と何も変わっていない。仕立てのいいスーツに、隙のない身なり。袖口で光るカフスボタンひとつでさえ、奈々美に唐揚げを10年食べさせられそうなほど高価に見えた。
そんな裕翔の視線が、私の制服へと落ちる。
何度も洗濯を繰り返して、すっかり色褪せた服。そして、その隣にいる奈々美の手元へ。
半分のパンを握りしめた、小さな手。
裕翔の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……どうしてここに?」
私は表情を変えないまま、パンを奈々美の手から受け取り、バッグへ戻した。
「病院は人手が足りないから。私は、お金が必要だったから」
淡々と答えると、裕翔が眉を寄せる。「離婚の時、俺が振り込んだ10億は?」
「……10億?」
思わず聞き返した。
その瞬間、裕翔の後ろにいた由梨の顔が、さっと青ざめた。
裕翔は私を見据えたまま、低い声で続ける。
「お前は金を受け取って、中絶同意書にもサインした。なのに、由梨から聞いた話では――『10億じゃ足りない。海外へ行って、別の男と結婚する』と言っていたそうだな」
私は堪えきれずに笑いが漏れる。
「藤田社長、あなたの秘書が私に渡したのは、1万円だけだったよ。中絶がうまくいかなくて、運が悪かったら、私も奈々美も死んでいたんだよ」
裕翔の視線が、私から奈々美へ移る。
奈々美は、突然向けられた鋭い視線に怯えたように、私の脚をぎゅっと抱きついた。そして、私の後ろに隠れながら、そっと顔を出す。
「ママ……この人が、ママが死んだって言ってた、ケチなパパなの?」
その場に、しんと静寂が落ちた。
裕翔は、数秒ほど呆気に取られていたが、由梨に確認するのではなく、値踏みするような目で私の頭から足元までをゆっくり眺める。
「……そうか、金に困ってるから、ここに現れたんだな?」
「……何のこと?」
意味が分からず、聞き返す。
「俺が病院に来ると知って、子どもまで連れてきて、お金をせびるつもりだったんだろう。あずさ、5年経っても、お前は何ひとつ変わってないな」
色褪せた私の制服に目を落とし、それから奈々美へ視線を移す。その目に浮かんでいるのは心配でも同情でもなく、露骨な嫌悪だけだった。
「10億を持って海外へ行ったのに、5年で使い果たした。今じゃ、子どもにまともな食事も与えられない。お前、それでも母親か?」
あまりの言い草に、私は思わず笑ってしまった。
「さっきも言ったけど、私は1万円しか受け取ってないよ」
裕翔が眉間に深い皺を刻み、何か言い返そうとした。その前に、人垣の後ろから由梨が歩み出てくる。
「あずささん、今の生活が苦しいことは分かっています。だからといって、5年前お金を受け取ったことまでなかったことにするのは、どうかと思います」
由梨はタブレットを操作し、数枚の書類を裕翔に見せた。
10億円の振込記録、中絶慰謝料の示談書、海外の不動産を購入した記録。そして、残高がゼロになった銀行口座の取引明細。
示談書には、私の名前がはっきりと記されていた。
私はその書類を見つめた。指先から、すうっと血の気が引いていく。
5年前、病院に搬送される前に、由梨から何枚もの書類に署名させられた。
「入院に必要な書類だから」と言われた。
あのときの私は、痛みでまともに字を読むことさえできなかった。書類の内容も分からず、由梨に言われるがまま、名前を書いた。
――あのときから、私は罠に嵌められていたのだ。
書類を確認し終えた裕翔は、再び私を見る。その目に残っていたのは、嘲りだけだった。
「あずさ、金が欲しいならそう言えばいい。子どもまで利用して同情を引こうとするなんて……母親失格だぞ」
その言葉の意味を、奈々美も理解したらしい。焦るように私の首へ腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「ママはそんなことしてない!奈々美がお腹空いただけ。ママは朝、卵を奈々美にくれたから、自分はパンを半分しか食べてなかったの!」
裕翔の表情が、ほんの一瞬だけ強張った。
けれど、すぐさま由梨がその前に立ちはだかる。
「社長。子どもの言葉を鵜呑みにしては危険です。5歳くらいの子なら、大人に言い聞かされたことをそのまま話すこともありますから」
その言葉が途切れた次の瞬間。
奈々美の鼻から、突然、赤い血が流れ出した。
小さな身体から力が抜ける。
「奈々美!」
私は倒れ込む娘を抱きかかえ、そのまま救急外来へ駆け出した。
裕翔も後を追ってくる。
診察と検査にかかる費用は、17万2千円。
けれど、私の口座に残っているのは8万6千円しかなかった。
どうすればいいのか分からず立ち尽くしていると、裕翔がカードを取り出した。
だが、それを由梨がすぐに押しとどめる。
「まだ、この子が本当に社長のお子さんなのか確認できていません。ここでお金を出していたら、きりがありませんよ」
裕翔はしばらく黙っていた。やがて何も言わず、必要な費用の半分だけを支払った。
私は裕翔を見つめた。あまりにも馬鹿らしくて、笑いが込み上げてくる。
こんなことは、今に始まった話じゃない。
裕翔と結婚していた2年間、私が使うお金は、申請しない限り、たとえ1円でも由梨の許可なしには動かせなかった。
初めて妊婦健診を受けたとき、医師から葉酸を摂るよう勧められた。けれど由梨は、サプリにお金を使う必要はないと主張し、「野菜をたくさん食べれば十分ですよ」と言った。
つわりがひどくて、まともに食事もできなかったとき、妊婦用の栄養補助食品を買いたいと申請したこともある。
けれど、それも「そんなのただの気休め、摂る必要がありません」と言われ、却下された。
これから体重が増え、それまで着ていた服が入らなくなると思い、マタニティワンピースを買いたいと頼んだ。
すると今度は、「そんなに見た目を気にしなくてもいいでしょう。無理におしゃれをする必要なんてありません」と返された。
そのくせ後になって知った。
由梨が6桁もする高価な花束を、ただ好きだからと購入したときは、誰の許可も必要なかった。なのに、私が千円ほどのお金でお腹の子のためにサプリメントを買おうとしただけで、その必要性を由梨に説明して、認めてもらわなければならなかった。
さすがに我慢できなくなって、却下された申請書を持って裕翔のところへ行ったこともある。
けれど裕翔は、仕事の書類から目を離すこともなく、私をあしらった。
「お金の管理は、あずさより由梨のほうが詳しい。由梨に任せておけばいい」
あの頃の私は、それをただの人選ミスだと思っていた。
けれど今になって、ようやく分かった。
由梨が決めていたのは、お金の使い道なんかじゃなかった。私が裕翔の人生に、どこまで存在していいのか、それを決めていたのだ。
――けれど、今はもう縛られる必要はない。
ポケットというポケットを探った。小銭や皺の寄った紙幣など、持っていたお金を全部かき集め、どうにか不足していた分を揃える。
「あなたが奈々美ちゃんのお母さんですね?お父さんは?」
看護師に聞かれると、私はあっさりと答えた。
「亡くなりました」
それを聞いた裕翔の表情は、見る間に険しくなった。
第2話
検査結果が出ると、医師は私だけを診察室へ呼んだ。
「お子さんは血液を固める力がかなり弱く、血小板の数値にも異常があります。入院して、さらに詳しい検査を受ける必要があります。退院までかかる費用はまだ分かりませんが、ひとまず400万を用意したほうがいいでしょう。今後、手術が必要になれば、費用はさらにかかるかと」
私は検査結果の用紙を握りしめたまま、しばらく口を開けなかった。
「……支払い期限はいつですか?」
「3日後です」
私は手元にあった貯金をすべて引き出し、さらに医療費の支援制度にも申請した。
昼間は食堂で働き、夜は付き添いの仕事をする。1日の睡眠時間は、たったの3時間ほどだった。
翌日の明け方。
年寄りの患者の介護をしていた時、廊下の端に裕翔が立っているのが見えた。
眉間に皺を寄せた裕翔は、私の腕をつかむと、そのまま廊下へ引っ張り出した。
「……俺に見せつけるために、こんなことをしてるのか?」
「……離して。まだ仕事中なの」
「あずさ、実の娘が危ないのに、俺が何もしないわけがないだろう?どうして俺に頼ろうとしない?まさか、同情を引いて、俺のほうから必要以上の金額を提示させようとしているんじゃないだろうな?」
そう言って、裕翔は1枚の書類を差し出した。
「治療費は俺が出す。ただし、お前には金を渡さない。由梨がすべての支出を確認する。必要な検査や治療にかかる費用は俺が負担する。必要のない薬は、自分で払え。それから、お前と奈々美の食費も、一日合わせて2千円までだ。それを超えた分は出さないし、余った分を勝手に引き出すことも認めない」
私は書類をめくり、最後のページに目を止めた。
管理責任者のところに、「遠藤由梨」という名前が書かれている。
私はその書類を裕翔に返した。
「遠藤さんは医師免許すら持ってないのに、どうして娘に何の薬を使うかまで、決める権利があるの?」
裕翔は苛立ったように眉をひそめた。「由梨はお金を管理するだけだ。医師が必要だと言ったものなら、当然認める」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エレベーターの扉が開いた。
姿を現した由梨は、見るからに高級そうなドレスを身にまとっていた。そのドレスを見せつけるように、彼女は私を一瞥してから、裕翔を見た。
「社長、今夜のパーティー用のジュエリーが届きました。ドレスとアクセサリーを合わせて、合計2520万です」
裕翔はちらりと由梨を見ただけだった。
「気に入ったなら買いなさい。俺に報告しなくていい」
そのとき、いつの間に目を覚ましたのか、奈々美が裸足のまま、病室の入口に立っていた。
奈々美は由梨のドレスを見つめ、それから私の手にある書類へ目を移す。
「ママ……遠藤おばさんは好きなお洋服を買えるのに、どうして奈々美のお薬は、おばさんが許さないと、買っちゃいけないの?」
裕翔の表情が、わずかに強張った。
私は奈々美の目線に合わせてしゃがみ込み、静かに言った。「奈々美、誰かにお金を出してもらうんじゃなくて、自分たちのお金を使えば、ほしいものを好きなだけ買えるよ」
その瞬間、裕翔の顔が強張った。
「お前は、子どもにそんなことを教えているのか?」
由梨が歩み寄ってくる。
「あずささん、これ以上意地を張るのはやめましょう。あなたのためにも、娘さんのためにも、この書類にサインしたほうがいいです」
「しない」私は奈々美の手を取った。「病室に戻ろう」
身体の向きを変えた、そのときだった。
背後で、由梨の身体がふらりと傾いた。
「きゃっ!」
裕翔が反射的に由梨の身体を支える。その勢いのまま、もう片方の手が私の肩を強く突き飛ばした。
身体が後ろへよろめき、背中が瓶の置かれたカートに叩きつけられた。
――ガシャンッ!
いくつかの瓶が床に落ち、ガラスが砕け散った。
鋭い破片が掌を切り裂き、赤い血が指先からぽたぽたと落ちていく。
「ママ!」
奈々美の顔が恐怖で真っ青になった。駆け寄ってくると、私の前に立ちはだかる。
「ママをいじめないで!」
第3話
5歳の奈々美は、ひどく痩せ細っていた。腕の太さは、大人の手首ほどしかない。それでも、私を守ろうと必死になっていた。
裕翔がしゃがみ込み、奈々美に近づこうとする。
「奈々美、俺はパパだ。悪い人じゃない」
「奈々美にパパなんかいない!」奈々美は顔を真っ赤にして叫んだ。
裕翔が一瞬、言葉を失う。その隙に、由梨が慌てて近づいてきた。
「あずささん……お金のことを理由に、娘さんに実の父親を知らせないなんて、さすがにひどすぎますよ」
裕翔はゆっくり立ち上がった。その視線は再び冷えていく。
「……あずさ。こんなやり方で俺から金を引き出せると思ったなら、当てが外れたな」
私はもう、彼らと話す気になれなかった。奈々美の手を引き、痛みを我慢しながら医師を探した。
掌の傷は、7針も縫うことになった。
医師は傷口を縫い終えると、麻酔がまだ切れていないうちに私を廊下へ呼び出した。
「お子さんの今後の検査についてですが、骨髄穿刺や遺伝子検査が必要になりそうです。入院費や薬代もあるので、この間お伝えした400万は、なるべく早く用意しておいてください」
――400万。
今、口座に残っているお金は、2万にも満たなかった。
病室の前では、裕翔が待っていた。手には、先ほどの書類を持っている。
「費用は俺が直接、病院に払う。お前が心配しなくていい」そう言ってから、裕翔は一拍置いた。「ただし、支出は全部由梨に確認させる」
「……あの人に、娘の生死を委ねるっていうの?」
「由梨は俺の代わりに金の流れを確認するだけだ。治療を口実に、お前が必要以上の金を請求しないようにな」
私は書類に記された由梨の名前を見つめた。ふと、笑いが込み上げてくる。
5年前、由梨は私に何も知らせずに、10億円を横取りした。
そして5年後、今度は、娘の命をつなぐためのお金まで、由梨が管理するという。
「……サインしない」
裕翔は何の感情も見せず、書類をカバンにしまった。
まるで、大したことのない取引を打ち切るような、淡々とした口調だった。
「なら、自分でなんとかしろ」
それだけ言い残し、裕翔は立ち去った。
その後、私は持ち物を一つずつ確かめた。今の私が持っているもので、一番価値があるのは――1つの指輪だけだった。
指輪はひどく古びていた。ダイヤモンドだって、米粒ほどの大きさしかない。
裕翔がまだ起業したばかりで、何もかもが苦しかった頃、3ヶ月分の生活費をはたいて買ってくれたものだった。
あのとき裕翔は、私の指に指輪をはめながら、目を赤くして言った。
「いつか、あずさに何不自由ない暮らしをさせるから」
その後、裕翔は事業を軌道に乗せ、何度か新しい指輪に替えようとしてくれた。けれど、私は一度も首を縦に振らなかった。
指輪そのものに価値があったからじゃない。あの頃の裕翔は、本当に私を愛してくれていた。だから、手放せなかった。
――でも、今は違う。
思い出だけでは、奈々美を救えない。
私は奈々美が眠っている隙に、病院の近くにある買取専門店へ向かった。
店主は指輪を念入りに調べると、査定額を告げた。
「4万円ですね」
私は迷わなかった。必要な書類に記入を済ませ、受け取った金を財布に入れ、病院へ戻った。
病院の入口まで来たところで、1台の黒い車が目の前を塞いだ。
ドアが開き、裕翔が降りてくる。その手には、さっき売ったはずの指輪が握られていた。
「あずさ、俺がプレゼントした指輪を売ったのは、俺に『これだけ愛されていた』って思い出させるためか?金を使い果たしたら、今度は情に訴えて、また俺から大金を引き出そうとしてるんだろ?」
私は、裕翔の顔をじっと見つめた。そして、ようやく分かった。
――裕翔にとって、私の行動は何もかもが計算なのだ。
指輪を売ったのも、生活に困って仕方なく手放したからではない。裕翔の同情を引いて、もう一度お金を出させようとしている――彼には、そう見えているのだ。
「……それ、持って帰って」私は裕翔を見上げ、静かに告げた。「私は、あなたの同情なんていらないから」
私は指輪を売ったお金を手に、まず必要だった検査と薬の費用を支払った。
昼頃。
医療費の支援を申請していた窓口から、審査結果が届いた。
――申請は却下された。
理由はこうだった。
私は5年前に10億円の資産を保有していたものの、海外不動産や高級車、ブランド品などの購入によって資産を使い果たした。よって、支援の対象には該当しない。
私は、その数行をじっと見つめた。胸の奥が押しつぶされそうになる。
一度も私の手に渡っていないお金が、5年前には私の命を奪いかけた。そして5年後には、奈々美の生きる道まで塞ごうとしている。
私はすぐに資産状況の再調査を申請した。10億円が入っていたとされる口座について、開設時の資料、ログイン履歴、登録電話番号、そして資金の流れをすべて開示するよう求めた。
それから、隣の県にある公立の医療機関へ電話をかけた。奈々美の診療記録を確認した担当者は、ほどなくして返事をくれた。
「お子さんの治療費は、こちらで大部分を免除できます。3日後に、そちらの地域へ向かう搬送車があります。お子さんの状態が安定していれば、こちらで受け入れます」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがようやくほどけた。
「……ありがとうございます。お待ちしています」
……
その日の夜、由梨は裕翔の執務室をノックした。
「医療費の支援申請、却下されました。あずささんの口座残高は、もう4千円もありません」
裕翔は椅子の背にもたれたまま、何も言わなかった。
由梨はタブレットを操作し、画面を裕翔に見せる。
「400万なんて、彼女には到底用意できません。3日もあれば、必ず書類にサインするはずです」
裕翔の脳裏に、昼間、買取専門店の前で見たあずさの姿が浮かんだ。眉が、ほんのわずかに動く。
「彼女……結婚指輪まで売った」
「社長が気にかけてくれると分かっているから、わざと売ったんですよ」由梨は確信めいた口調で言った。「あの人があなたを動かす方法なんて、昔から変わってません。自分を追い詰めて、かわいそうな姿を見せつけたら、あなたが折れるのを待つんです」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「あなたが情をかければかけるほど、あの人の欲望が膨らむ。そういう人ですよ」
裕翔はしばらく黙っていた。やがて、由梨の言葉を受け入れるように、小さく頷く。
「……あいつは、そう長く持たない。すぐ俺に頭を下げるだろうな」
その頃、病室では。
転院の手続きを済ませた私は、荷物をまとめて、ベッドの下に隠した。
奈々美が目をこすりながら、眠そうに身体を起こした。
「ママ……どこに行くの?」
私は身を屈め、奈々美の額にそっと口づける。
「ここよりずっといい場所に行くの。奈々美はいい子だから、あと3日だけ我慢してね」
第4話
翌朝、目が覚めると、看護師たちから異様な視線を感じた。
病室の外には、スマホを手にした人たちがひしめいている。何人もの配信者が廊下を塞ぎ、私と奈々美に向けて、ひっきりなしにカメラを回していた。
「あいつ、中絶の費用と慰謝料として10億も受け取ったのに、こっそり子どもを産んだんだよ」
「10億を5年で使い果たして、病気の娘を連れて資産家の元夫に金をせびってるらしいよ」
「昨日なんて、結婚指輪まで売ったんだろ?それで同情を誘って、まだお金を出させようとしたって話だ」
私はSNSを確認すると、ようやく状況を理解した。
昨日の深夜、由梨が長文の投稿を公開していた。
そこには、10億円の振込記録、海外不動産の購入履歴、ブランド品の購入明細などが添えられ、さらに、私が買取専門店で結婚指輪を売る様子を撮影した動画まで載せられていた。
けれど、その動画からは――裕翔が200万を払って指輪を買い戻しても、私には1円たりとも渡さなかったことがきれいに切り取られていた。
映像に残っているのは、私がカウンターの前で指輪を査定してもらっている場面。そして、私が去った直後、険しい顔をした裕翔が店へ乗り込んだ場面だけだった。
由梨は投稿の最後に、こう書いていた。
【藤田社長は、お子さんに必要な治療費であれば、すべて負担する意思があります。それにもかかわらず、あずささんは支出の管理を拒み、現金を直接渡すよう要求しています。さらには結婚指輪を売却し、病気のお子さんまで利用して、藤田社長に罪悪感を抱かせようとしているのです】
コメント欄は、すっかり炎上していた。
【子どもまで利用して同情を引こうとするなんて、最低】
【こんな親に育てられる子どももかわいそう】
病院名だけでなく、病棟や病室まで特定されていた。
配信機材を抱えた人たちが次々と押しかけ、まるで見世物でも眺めるように、私たちのいる病室を覗き込んでいる。
私は看護師に頼んで警察を呼んでもらった。けれど、人の波はなかなか収まらない。
そのうちの一人が、奈々美の前にスマホを突きつけた。
「ねえ、お嬢ちゃん、君のママに、病気のふりをしてパパからお金をもらおうって言われたの?」
奈々美が怯えて、私の胸へ身体を縮める。
私はすぐに奈々美の顔を手で覆った。
「この子はまだ5歳ですよ。カメラを向けないで!」
ところが、その男は引き下がるどころか、ますます近づいてくる。
「何をそんなに慌ててるの?子どもを利用して同情を引くようなことをしておいて、本人に本当のことを知られるのが怖いのか?」
「ママは嘘をついてない!」
奈々美が突然、私の腕の中から飛び出した。小さな身体を広げ、私の前に立ちはだかる。
「ママは嘘つきじゃない!ママはね、奈々美のお薬を買うために、毎日ご飯を1回しか食べてないんだから!」
人々の声が、ぴたりと止まった。ほんの数秒ほど、廊下が静まり返る。
けれど、すぐに別の誰かがスマホを掲げた。
「まだ5歳なのに、平然と嘘をつくようになっては、さすがに可哀想だよ」
奈々美の身体が、怒りと恐怖で小刻みに震えた。
そして次の瞬間、鼻から、突然鮮血が溢れ出した。
小さな身体が、ゆっくりと後ろへ倒れていく。
モニターが、けたたましい警告音を響かせた。
医師が駆けつけ、病室にいた人たちを全員外へ追い出した。奈々美はそのまま救急処置室へ運ばれていった。
私はその場にしゃがみ込み、奈々美の血で真っ赤になった手を見つめていた。
指先からこぼれた血が、一滴、また一滴と床のタイルに落ちていく。
医師の話では、強い刺激を受けたことで、血液凝固の働きが急激に弱くなっているという。
このままでは、いつ内臓から出血してもおかしくない。
私は赤く灯った手術中のランプを見つめながら、裕翔に電話をかけた。再会してから、私から連絡するのは初めてだった。
裕翔はすぐに電話に出た。
「……やっと頼る気になったのか?」
声が震えそうになるのを、必死に堪える。
「ネットに出回っている動画、奈々美の顔もカルテも映ってる。今すぐ削除させて」
裕翔は数秒、黙った。
「用はそれだけ?」
「はい、お金はいらない。私のことも、庇ってくれなくていい。ただ、奈々美を守って」
「分かった」
返事は驚くほどあっさりしていた。
けれど、次の瞬間。
スマホから、ファイルの受信を知らせる音が鳴った。
送られてきたのは、例の治療費に関する合意書だった。
「サインしろ。これから奈々美の治療費は、藤田家から病院へ直接支払う。ネットの騒ぎも、俺のほうで抑えさせる」
私は送られてきた書類を見つめた。
「奈々美の動画を削除することと、私がこの書類にサインすることに、何の関係があるの?」
裕翔の声が冷たくなる。
「お前が騒ぎを大きくしたのは、昔のように、自由に使える金を俺から引き出すためだろ?あずさ、奈々美のことなら責任を持って面倒を見る。でも、お前をこれ以上甘やかすつもりはない」
「裕翔。あなたの娘が今、生死の境をさまよってるのよ?こんなことを言ってる場合じゃないでしょ?」
「俺は、穏便な解決策を提示してるだけだ。本当に奈々美のことを思ってるなら、意地を張らずに、こっちの提案を受け入れるべきだ」
私はスマホを握りしめた。指先が白くなるほど、強く。
裕翔には、いつだって自分だけの常識と正義を持っている。
私が頼れば、裕翔に屈したことになる。頼らなければ、娘を利用して金をせびることになる。
何をしても、裕翔の中では私は――欲深い元妻だ。
「……サインしない」
それだけ告げて、私は電話を切った。
その後、ネットに出回っている動画や誹謗中傷の投稿をすべて保存し、弁護士に渡して証拠として確保してもらった。
1時間後、奈々美の容体は、ひとまず安定した。
隣県の公立病院にもその知らせが届き、予定を早めて救急搬送車を手配してくれることになった。
「娘さんをこのままここに置いておくのは危険です」
病院の担当者はそう言った。
「搬送車は今夜こちらに到着します。転院の手続きも済んでいますから、いつでも出られます」
午前3時、私は奈々美を抱き上げ、救急車に乗り込んだ。
誰にも別れを告げることなく、そのまま、病院をあとにした。
……
救急車が市街地を離れていく頃も、裕翔はまだ執務室にいた。
机の上には、あずさの署名を待つ書類が置かれている。
由梨がコーヒーを運んできた。
「次の治療費が発生すれば、あの人もさすがに折ってくれますよ」
その声には、何の不安もなかった。
裕翔も小さく頷く。
400万円すら用意できなかった人が、藤田家から治療費を出してもらえるという条件を、本気で拒み続けられるはずがない。
そう思っていた。
翌日、藤田グループでは、子どもの医療支援を目的としたチャリティー配信が行われていた。
由梨はあの高価なドレスに身を包み、裕翔の隣に立っている。
司会者が笑顔で問いかけた。
「藤田さん。慈善活動で最も大切にすべきことは、何だとお考えですか?」
裕翔が答えるより先に、由梨が口を開いた。
「善意にも、節度は必要だと思います。私たちは、本当に助けを必要としている方にはできる限り手を差し伸べたいと思っています。でも、かわいそうだからといって、相手の要求を何でも受け入れるつもりはありません」
その言葉をきっかけに、コメント欄にあずさと奈々美の名前が流れ始めた。
【病気の子どもを連れて藤田さんに金をせびってた元妻、あの書類にはもうサインしたの?】
【まさか、子どもを利用して社長に復縁を迫ってるんじゃないだろうな】
由梨は裕翔をちらりと見て、自信ありげに微笑んだ。
「あずささんは、少し意地を張っているだけです。お子さんのためにも、すぐに社長の支援を受け入れるはずです」
裕翔も、それを否定しなかった。
すでに受付には指示を出してある。あずさが現れたら、すぐに自分のところへ通すように。
もしあずさが折れて頭を下げるのなら、ここ数日の騒ぎについては、咎めるつもりもなかった。
ただし、治療費の管理は相変わらず由梨に任せたい。
子どもを利用して自分を思い通りに動かそうとしても、無駄だと分からせる必要があるのだ。
配信が途中まで進んだ頃、コメントが、突然、増えていった。
【森下あずさが声明を出してるぞ!】
【5年前の手術記録と銀行の取引明細を公開してる!】
【あの遠藤由梨って人……怪しくない?】
裕翔は眉をひそめ、隣の由梨を見る。その顔から、さっと血の気が引いていた。
コメントはさらに勢いを増し、同じフレーズが連投されていく。
【森下あずさは1万円しかもらっていなかった】
裕翔はすぐにスタッフへ合図した。
「配信を止めろ」
そしてスマホを取り上げ、投稿された声明を開く。
添えられた1枚目の画像は、振込記録のスクリーンショットだった。
5年前、由梨からあずさへ1万円が振り込まれている。
振込名義の横に記されたメッセージ欄には、たった数文字だけが残されていた。
【中絶費用】