私の誕生日に、彼は決まって別の女へ手紙を書く

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私の誕生日に、彼は決まって別の女へ手紙を書く

GoodNovel 完結

毎年、私・佐伯美月(さえき みづき)の誕生日が来るたび、婚約者の高橋悠斗(たかはし ゆうと)は決まって書斎にこもり、誰にも見られないよう、手紙を書いていた。 ある年、私がそのことに気づくと、悠斗は少し照れくさそうに笑って言った。 「結婚したら見せるよ」 その言葉を、私はずっと信じていた。きっと私へのサプライズなんだと思って。そう信じて、1年、また1年と待ち続けた。 そして、入籍前日。 悠斗は取引先との会食で酔いつぶれ、帰宅するとソファへ倒れ込んだ。 「手紙……見たか……?」 酔ったまま、かすれた声でそうつぶやいた。 それって、今、見てもいいってこと……? 胸を高鳴らせながら、私は書斎へ向かった。机の引き出しを開けると、きれいに束ねられた手紙が何通も入っていた。 震える指で、1番上の封筒を開いた。けれど、最初の1行を読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。 【紗妃。俺が美月と付き合ってても、お前は本当に何とも思わないのか?】 その名前を目にした瞬間、息が止まりそうになった。 朝倉紗妃(あさくら さき)。私が誰よりも信じていた親友だった。 信じられない思いのまま、私は慌てて他の封筒を開いた。 【紗妃。今日は美月の誕生日で、うどんを作ってやった。でも、海外にいるお前はちゃんと食事ができているのかと思うと、胸が苦しくなった】 【紗妃。美月とキスをするたび、お前のことを思い出してしまう。俺はどうすればいい?】 最後の1通の日付は、2か月前。 そこに書かれていたのは、たった1行なのに、その短い言葉からは、紗妃への想いを諦めきれない気持ちだけが痛いほど伝わってきた。 【ごめん。俺は美月と結婚する】 気づけば、私は手紙をぐしゃぐしゃに握り潰していた。 そのとき、不意にリビングから悠斗のスマホが鳴り響いた。画面に表示された名前を見た瞬間、私は息をのんだ。 紗妃。 私は震える指で通話ボタンを押した。 次の瞬間、受話器の向こうから、今にも泣き崩れそうな声が聞こえてきた。 「悠斗!ちゃんと避妊したって言ったよね!?なんで私、妊娠してるの……!」 私はしばらく黙ったまま、その声を聞いていた。少し間を置いてから、ようやく口を開いた。 「……悠斗なら寝てるわ。明日、かけ直してもらえる?それとも、私が伝えてあげようか?」

チャプター (1)

第1話

毎年、私・佐伯美月(さえき みづき)の誕生日が来るたび、婚約者の高橋悠斗(たかはし ゆうと)は決まって書斎にこもり、誰にも見られないよう、手紙を書いていた。 ある年、私がそのことに気づくと、悠斗は少し照れくさそうに笑って言った。 「結婚したら見せるよ」 その言葉を、私はずっと信じていた。きっと私へのサプライズなんだと思って。そう信じて、1年、また1年と待ち続けた。 そして、入籍前日。 悠斗は取引先との会食で酔いつぶれ、帰宅するとソファへ倒れ込んだ。 「手紙……見たか……?」 酔ったまま、かすれた声でそうつぶやいた。 それって、今、見てもいいってこと……? 胸を高鳴らせながら、私は書斎へ向かった。机の引き出しを開けると、きれいに束ねられた手紙が何通も入っていた。 震える指で、1番上の封筒を開いた。けれど、最初の1行を読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。 【紗妃。俺が美月と付き合ってても、お前は本当に何とも思わないのか?】 その名前を目にした瞬間、息が止まりそうになった。 朝倉紗妃(あさくら さき)。私が誰よりも信じていた親友だった。 信じられない思いのまま、私は慌てて他の封筒を開いた。 【紗妃。今日は美月の誕生日で、うどんを作ってやった。でも、海外にいるお前はちゃんと食事ができているのかと思うと、胸が苦しくなった】 【紗妃。美月とキスをするたび、お前のことを思い出してしまう。俺はどうすればいい?】 最後の1通の日付は、2か月前。 そこに書かれていたのは、たった1行なのに、その短い言葉からは、紗妃への想いを諦めきれない気持ちだけが痛いほど伝わってきた。 【ごめん。俺は美月と結婚する】 気づけば、私は手紙をぐしゃぐしゃに握り潰していた。 そのとき、不意にリビングから悠斗のスマホが鳴り響いた。画面に表示された名前を見た瞬間、私は息をのんだ。 紗妃。 私は震える指で通話ボタンを押した。 次の瞬間、受話器の向こうから、今にも泣き崩れそうな声が聞こえてきた。 「悠斗!ちゃんと避妊したって言ったよね!?なんで私、妊娠してるの……!」 私はしばらく黙ったまま、その声を聞いていた。少し間を置いてから、ようやく口を開いた。 「……悠斗なら寝てるわ。明日、かけ直してもらえる?それとも、私が伝えてあげようか?」 第1話 電話は、そのまま一方的に切れた。 全身の血が凍りついたようだった。耳鳴りだけが耳の奥で鳴り続けていた。 「……ごめん」 ソファに横たわったまま、悠斗がまた寝言のようにつぶやいた。 今度は、私の名前だった。 「……美月、ごめん……」 喉の奥がきゅっと締めつけられた。 苦しそうに眉を寄せる悠斗を見つめながら、思わず笑ってしまった。皮肉な笑いだった。 私と結婚することは、紗妃だけじゃなく、彼自身の想いまで裏切ることだった。 そのくせ、結婚前に紗妃と関係を持ち、私のことまで平然と裏切っていた。 私は無言でキッチンへ向かい、コップいっぱいに冷たい水を注いだ。 戻ってきた頃には、コップを持つ手が震えていた。次の瞬間、私はその水を悠斗の顔へ思いきり浴びせた。 「悠斗、起きて」 冷たい水が髪を伝い、頬からシャツへと流れ落ちていった。 悠斗は勢いよく目を開けた。怒るどころか、慌てて私の手をつかもうとした。 「ごめん、美月。飲みすぎた……あいつらに無理やり飲まされてさ…… 変な夢を見たんだ。寝坊して、君と入籍に行けなくなって……君に嫌われる夢を見たんだ…… そうだ……今、何時だ……?」 そう言ってスマホを探そうとした悠斗は、私の足元に落ちていた手紙に気づいた。 その瞬間、酔いは完全に醒めたようだった。 悠斗は飛びつくように手紙を拾い上げた。 「……どこで見つけた!?」 さっきまでとはまるで違う声だった。抑えきれない動揺と焦りが滲んでいた。 「誰が読んでいいなんて言った!?」 私は冷たく笑うと、悠斗の手からスマホを取り返した。 通話履歴を開き、録音をそのまま再生した。 「悠斗!ちゃんと避妊したって言ったよね!?なんで私、妊娠してるの……!」 静まり返った部屋に、紗妃の叫び声だけが鋭く響いた。 「……これは、どういうこと?説明してくれる?」 「美月、違う。ちゃんと説明――」 悠斗が言いかけた瞬間、私は込み上げる吐き気に耐えきれず、洗面所へ駆け込み、その場で激しく吐いた。 その間にも、スマホの画面には何度も紗妃の名前が表示されていた。 私は知っていた。悠斗の心には、ずっと紗妃だけがいたことを。 高校時代、悠斗は3年間ずっと紗妃に想いを寄せていた。 卒業後、ようやく恋人同士になれたものの、その幸せはわずか2か月で終わった。紗妃が海外へ留学し、2人は別れることになったのだ。 一方、悠斗と初めて出会ったのは、中学時代だった。 彼の名前を初めて知ったのは、教室のどこかで誰かが「高橋悠斗!」と呼ぶ声を耳にしたときだった。 ちゃんと話すようになったのは、それから何年も経ってからだった。 社会人になってから、地下鉄で偶然再会したことがきっかけだった。何年も止まっていたLINEが、また少しずつ続くようになった。 ときどき食事へ行ったり、一緒にハイキングへ出かけたりするようになった。 そんなある日、私の誕生日だった。 お酒の勢いもあって、中学の頃から悠斗が好きだったことを、冗談まじりに打ち明けた。 3か月後、悠斗は私に言った。 「今の俺は、美月に恋をしてる」 返事をする前に、私は紗妃と2時間電話で話した。 紗妃は声を詰まらせながら言った。 「美月が好きなら、付き合いなよ。私は本当に、美月に幸せになってほしいから」 その言葉を聞いて、胸のつかえがすっと消えた気がした。 数日前、私は紗妃へ電話をかけ、悠斗と入籍することを伝えた。 電話の向こうは、しばらく沈黙した。 少し間を置いてから、ようやく明るく振る舞うような声で言った。 「本当?よかったじゃない、美月。おめでとう。幸せになってね」 あのときは、ただ驚いているだけなんだと思っていた。 でも今なら分かる。あの沈黙は、驚きなんかじゃなかった。 友情も恋も、このままずっと失わないものだと信じていた。それなのに、入籍前夜に突きつけられたのは、2人からの最悪の裏切りだった。 彼の心は、ずっと紗妃のものだった。そのうえ、2人は身体の関係まで持っていた。 恋人と親友。1番信じていた2人に裏切られた現実が、私の心を容赦なく引き裂いた。 胃の奥がきりきりと痛み、息を吸うことさえ苦しかった。 第2話 紗妃からの電話は、一度切れたかと思うと、すぐにまた鳴り始めた。 私は悠斗の目の前で電話に出ると、そのままスピーカーへ切り替えた。 「美月、さっきの電話だけど……あれ、罰ゲームだったの。信じて。私、悠斗のことなんて好きじゃない。彼とは何もない、妊娠なんてあり得ない話だよ。あんなこと、自分で言ってても気持ち悪くなるくらいなの……」 悠斗はその場で固まった。 私は、その表情を見逃さなかった。その瞳をよぎった、ほんのわずかな失望を。 「……美月?」 スピーカー越しに、紗妃がもう一度私の名前を呼んだ。震える声だった。 悠斗は我に返ると、慌ててスマホへ手を伸ばし、そのまま通話を切った。 部屋には重苦しい沈黙だけが残った。 悠斗は小さく息をのみ、しばらく黙ったあと、かすれた声で口を開いた。 「……ごめん、美月。全部、俺が悪かった。こんな形で知らせることになるなんて思ってなかった。本当に、ごめん」 私は黙ったまま彼を見つめた。爪が食い込むほど、拳を強く握り締めた。 「あなたたち、いつからまた、そういう関係だったの?」 悠斗は答えなかった。沈黙だけが流れた。 私は苦く笑うと、返事を待たずに続けた。 「2か月前。私の誕生日だったよね。あなた、サプライズだって言って、帰国してくれた。でも、その数日後には急に仕事が入ったと言って、先に戻っていった。 あのときのあなた、どこか様子がおかしかった。何か言いたそうだったのに、結局何も言わなくて……ただ『ごめん』って、そればかり繰り返してた」 私はまっすぐ悠斗を見つめた。 「私に謝っていたのは、一緒にいられなかったからじゃなかった。唇が切れていた理由も、今ならようやくわかった。 私が紗妃を見送って帰ってきた、その日に、あなたは私へプロポーズした。罪悪感があったからでしょう?罪悪感を打ち消すように、急に優しくなって……夜も、いつも以上に私を求めた!」 「もういい!」 悠斗はついに声を荒げた。額には青筋が浮かび、顔色は見る見るうちに悪くなっていた。 「もう、それ以上言わないでくれ」 「どうして?」 私は震える声で問い返した。 「自分でやったことなのに、言われるのは嫌なんだ?」 悠斗は目を閉じ、大きく息を吐いた。今にも崩れ落ちそうな顔で、私の前に膝をついた。 「……美月。本当に悪かった。でも、だからって終わりにしないでほしい」 私は思わず笑ってしまった。あまりにも滑稽だったから。 「悠斗……もう終わりにしよう。別れよう。明日の朝には、この家を出ていく」 悠斗の顔から血の気が引いた。何か言おうとして手を伸ばしかけたが、その手は宙で止まった。 「……プロポーズしたのは、本気で美月と結婚したかったからなんだ。今日はもう遅い。お互い冷静じゃない。また明日、ちゃんと話そう」 そう言い残すと、悠斗はスマホだけを持ち、近くに住む従弟の家へ向かった。 30分後、「ちゃんと従弟の家に着いた」とLINEが送られてきた。そのあと、従弟本人も電話を代わってくれた。 私はソファにうずくまった。冷や汗は止まらず、意識まで遠のいていった。 どれくらいそうしていただろう。 痛みが少しだけ和らぎ、薬を探そうと立ち上がった、そのときだった。コンコン、と玄関を叩く音が響いた。 「美月!私!起きてるんでしょう?お願い、開けて!」 紗妃の声だった。 私は思わず息をのんだ。幻聴かと思った。紗妃は今、ヨーロッパにいるはずだった。 帰国するには、どう考えても10時間以上はかかる。 次の瞬間、自分が情けなくなって笑ってしまった。本当に馬鹿だった。嘘が1つだけで終わるはずなんて、なかったのに。 開けようか迷っているうちに、玄関のドアが開いた。紗妃は暗証番号を知っていた。 教えたのは私だった。私の誕生日を、そのまま暗証番号にしていた。 そして、紗妃が悠斗の告白を受け入れた日でもあった。 私はずっと、そのことに気づかないふりをしてきた。 けれど悠斗は忘れていなかった。紗妃もきっと、忘れてはいなかった。 「……美月」 紗妃は駆け寄ると、数秒間私を見つめた。 次の瞬間、その場へ崩れるようにひざまずいた。 「ごめん……美月。何て謝ればいいのか、分からない。何を言っても、許してもらえないって分かってる。傷つけるつもりなんて、本当になかったの。ただ……ずっと海外で1人で……寂しくて、弱くなってたの……」 そう言うたび、大粒の涙が次々と床へ落ちた。 「私も、もう悠斗のことは忘れたつもりだった。でも、今回帰国して悠斗に会った瞬間、まだ好きなんだって気づいてしまった」 その一言一言が、鈍い刃物のように胸をえぐった。 紗妃は肩を震わせながら泣き、私へ手を伸ばしかけては、そのたびに引っ込めた。 「でも……美月まで失いたくないの。本当に、美月がいなくなったら生きていけない。子どもは堕ろす。全部、終わらせるから。だからお願い……今回だけでいいの。許して……」 第3話 私は、紗妃が何度も自分のお腹を叩く姿を、ただ見つめていた。 目は真っ赤に充血し、もう私の知っている紗妃じゃなかった。背筋がぞっとするほど、別人のように見えた。 本当に私と悠斗の関係を壊したくなかったというなら、あんな夜中に悠斗へ電話なんてしなかったはずだ。 悠斗の声を聞く前から、「妊娠した」なんて口にするはずもなかった。まして翌日が、私たちの入籍日だと知っていたのに。 その瞬間、不意に強い吐き気が込み上げた。何度もえずいたのに、何も吐けなかった。 「美月、大丈夫?」 紗妃は慌てて私の背中をさすり、そのままキッチンへ駆けていった。 水と薬を持って戻ってくると、不安そうに私の顔をのぞき込んだ。 「ごめんね、美月。また胃が痛いの?顔色も悪いし、唇まで真っ白だよ……」 頭が割れそうに痛かった。 私はその手を勢いよく振り払った。コップは床に落ち、水が飛び散った。薬も辺りへ転がっていった。 私は乾いた笑みを浮かべた。 「むしろ、お礼を言わなきゃ。結婚なんていう地獄に飛び込む前に、止めてくれたんだから」 紗妃は傷ついたように目を見開いた。後ずさった拍子にバランスを崩し、そのまま後ろへ倒れた。ゴン、と鈍い音が響き、後頭部を棚の角へ強くぶつけた。 「紗妃!」 玄関のドアが勢いよく開き、悠斗が飛び込んできた。 悠斗の視線が私に向いたのは、一瞬だけだった。 怒りに満ちた視線を私へ向けると、そのまま紗妃を抱き上げた。 「悠斗、降ろして!私が勝手に転んだだけだから!大丈夫!それより美月が――」 「先に病院だ」 その声には、怒りと焦り、そして隠しきれない心配が滲んでいた。 そう言い切ると、悠斗は私を振り返ることさえなく、紗妃を抱えたまま駆け出していった。 静まり返った部屋には、割れたガラスと散らばった薬だけが残された。 ここにはもう私一人しかいなかった。 私はもう一度えずいた。そして鏡へ目を向けた。そこに映っていた私は、血の気を失った顔に、目だけが異様なほど赤く充血していた。 まるで幽霊みたいだった。無理に笑ってみると、余計に不気味だった。 私は夜が明けるまで、ただぼんやりと座り続けた。 朝日が差し込む頃、抜け殻のように立ち上がり、荷物をまとめ始めた。 悠斗に関わるものは、もう何一つ残したくなかった。 高校時代、勉強を教えてくれたときのプリント。何気なく折ってくれた紙飛行機。使い切ってインクの出なくなったボールペン。入籍の日のために買ったワンピースとベール。 そして今日、入籍を済ませたあとに、サプライズで渡すつもりだった妊娠検査薬とエコー写真。全部まとめて、ゴミ袋へ放り込んだ。 スーツケースを2つ引いて、部屋を出た。 エレベーターに乗り、2階ほど下りた頃だった。 突然、身体がふっと浮いた。エレベーターが止まった。故障だった。 私は壁にもたれ、自嘲するように笑った。神社で見てもらった最高の日取りが、人生で最悪の1日になるなんて。 救助を待つあいだも、胃の痛みは容赦なく襲ってきた。下腹部まで締めつけられるように痛み始めた。やがて座っていることさえできなくなり、そのまま床へ崩れ落ちた。 揺れているのはエレベーターなのか。それとも私の意識が遠のいているのか。もう分からなかった。 そんなとき、スマホが鳴った。悠斗からだった。何度も画面を押し直し、ようやく通話がつながった。 「……美月」 言いにくそうに数秒黙り込んだあと、ようやく口を開いた。 「病院まで来てくれないか。紗妃が子どもを堕ろすって言って聞かないんだ。俺もここを離れられなくて…… 子どもを産めなんて言うつもりじゃない。こんな形で授かったことが間違いだったってことくらい、俺も分かってる。でも、だからって今すぐ結論を出すのは違うと思う。せめて少し落ち着いてから――」 電波が悪いのか、声は途切れ途切れだった。それでも、言いたいことだけは伝わってきた。 どの言葉も矛盾だらけで、思わず笑ってしまった。 込み上げる吐き気を必死にこらえながら、私はゆっくりと口を開いた。 「悠斗。もし……私も今、妊娠していたら……どちらか1人しか選べないとしたら、あなたは、どっちを選ぶの?」 電話の向こうは静まり返った。数秒の沈黙のあと、ようやく悠斗が口を開いた。 「美月……そんな話に意味はない」 彼は答えなかった。その可能性すら、最初から考えようともしなかった。 「そんな偶然、あるわけ――」 そこで通信が一瞬途切れた。 「中の方!大丈夫ですか!?聞こえますか!」 そのとき、ようやく外から声が聞こえてきた。 「美月!?今の音、何だった!?」 私は、そのまま通話を切った。返事をしようとしても、声にならなかった。 どれほど時間が経ったのか分からなかった。ようやくエレベーターの扉がこじ開けられた。 管理人の慌てた声で、私はようやく気づいた。自分の足元に、赤い血がゆっくりと広がっていたことに。 管理人が救急車を呼んでくれた。救急隊員は家族に連絡を取ろうとしたが、私はスマホを握り締めたまま、小さく首を横に振った。 「……私には、家族はいません」 第4話 唇がわずかに動いた。声になったのかどうかも分からないまま、視界が暗転し、そのまま意識を失った。 次に目を覚ましたのは病院だった。 もうすぐ空になりそうな点滴をぼんやり眺めながら、悠斗と顔を合わせる覚悟だけはしていた。 けれど、看護師の後ろから病室へ入ってきた男性を見た瞬間、私は思わず息をのんだ。 黒沢晃(くろさわ あきら)先輩だった。 「まだ動かないで」 晃はすぐベッドの反対側へ回り込み、私をそっと支えた。 「ちょうど君に電話したら、管理人が出てな。『この携帯の持ち主とは、どういうご関係ですか』って聞かれて……」 私は呆然としたまま晃を見つめた。しばらくして、ようやく状況を理解した。 スマホを見ると、悠斗と紗妃から着信が何件も入っていた。メッセージも何十件と届いていた。 部屋から私の荷物がなくなっていることに気づいたらしく、「どこにいるんだ」と何度もメッセージを送ってきていた。 何度も謝り、「帰ってきてほしい」と必死に訴えていた。 悠斗は「結婚するのは美月だけだ」と何度も繰り返し、紗妃も「子どもはちゃんと堕ろすから」と必死に弁解していた。 けれど、何気なくSNSを開いた瞬間、その言葉が全部嘘だったと思い知らされた。 おすすめに表示された紗妃の投稿が、目に飛び込んできた。 【赤ちゃん、よく頑張ったね。これからはママが守るからね】 幸せいっぱいの投稿だった。 共通の友人たちは「おめでとう」と祝福のコメントを寄せ、「いいね」も次々と増えていった。 伊藤真奈(いとう まな)は、紗妃以外で今も付き合いのある、唯一の高校時代の友人だった。結婚式では、ブライズメイドをお願いすることになっていた。 そんな彼女からも、メッセージが届いていた。 【美月って、親友の元カレと付き合って平気だったんだね】 【悠斗がずっと紗妃を忘れられなかったなら、もう身を引いたほうがいいんじゃない?お腹の子まで犠牲にしようとするなんて、本当に最低だよ】 胸の奥を、もう一度深くえぐられたような痛みが走った。息をすることさえ苦しかった。 2日後、私は退院し、とりあえずホテルへ身を寄せた。 その夜、悠斗の母・高橋由紀子(たかはし ゆきこ)からLINEが届いた。 私たちから入籍の報告がないことを不審に思った由紀子は、悠斗を問い詰めて真実を知り、そのまま倒れて入院したらしい。 一晩悩んだ末、私は見舞いへ行くことにした。 病室へ入るなり、由紀子は私の手をぎゅっと握り、涙をこぼした。 何度も「ごめんなさい」と頭を下げてくれた。 けれど、話しているうちに、少しずつ悠斗をかばうような口ぶりになっていった。 「美月ちゃん、人間なんだから誰だって間違いはあるのよ。でも、あの子が本当に大切なのは、美月ちゃんだけなのよ。私は美月ちゃんしか、お嫁さんだなんて認めないわ。あの子が子どもを産んだって、あくまで愛人の子よ」 私は言葉を失った。けれど、由紀子と口論する気にはなれなかった。 「どうか、お身体を大切にしてください」 そう言い残し、病室を出ようと扉を開けた。 そこには悠斗が立っていた。 「美月、話を聞いてくれ。紗妃はもともと子宮に問題があって、この子を堕ろしたら、もう子どもを授かれないかもしれないんだ」 その後ろから、紗妃も病室へ入ってきた。目は真っ赤に腫れていた。 「美月……お願い。私は悠斗を奪うつもりなんてない。だから、この子だけは産ませて。 美月は、お母さんを亡くしたことがあるから……出産が怖いんでしょう?だったら、その役目は私が引き受ける。この子は、私たち2人の子どもとして育てよう?美月のことも『ママ』って呼んでくれるから」 あまりにも身勝手で、笑うしかなかった。気づけば涙まであふれていた。 その瞬間、下腹部に鋭い痛みが走った。 「……悠斗」 私はゆっくり顔を上げた。 「悠斗も……そう思ってるの?」 悠斗は黙ったままだった。 何度か口を開きかけ、ようやく絞り出したのは、情けない一言だった。 「……美月。俺は……誰か一人を選ぶなんて、できない。だから……分かってほしい」 私は静かに頷いた。もう、何も言う気になれなかった。 そのまま病室を出ようとすると、紗妃が私の腕をつかんだ。 「美月……行かないで」 振り払おうとしても、なかなか離してくれなかった。 私は皮肉っぽく笑った。そしてもう一方の手を振り上げ、紗妃の頬を思いきり平手で打った。乾いた音が病室に響き渡った。 「紗妃!」 悠斗はすぐ私を突き飛ばし、紗妃を抱き寄せると、赤くなった頬をそっと撫でた。 「何をするんだ!」 私は何も答えなかった。それで十分だった。 足元へ、赤い血が静かに広がっていった。 意識が遠のく中、私は最後の力を振り絞ってスマホを取り出し、電話をかけた。 「先輩……お願い、迎えに来て……」 「分かった。今行く」 返事は、スマホ越しだけではなかった。同じ声が、ほとんど同時に病室の外からも聞こえてきた。

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