第1話
今日は、藤城賢太(ふじしろ けんた)と私、三重野知紗(みえの ちさ)が結婚式を挙げるはずの日だった。それなのに私は、40分ものあいだ、たったひとりで壇上に立たされていた。
賢太は来なかった。私の実の兄ふたり、三重野大輔(みえの だいすけ)も、三重野真斗(みえの まさと)も、姿を見せなかった。
事の発端は、その30分前にさかのぼる。養妹の浅野結衣(あさの ゆい)が、かすり傷がついた車のドアの写真をグループチャットに送ってきたのだ。
結衣はすっかり怯えきり、とても駐車場にひとりではいられないと泣きついてきた。
真っ先に車のキーを掴んで式場を飛び出したのは、賢太だった。
大輔はホテル中の警備員を結衣のもとへ向かわせ、真斗に至っては、私に渡すはずのヴェールを手にしていることさえ忘れてしまっていた。
いつ戻るのか問いただそうと、私は賢太に電話をかけた。
だが電話越しに聞こえてきたのは、結衣の笑い声だった。
車の傷は、ほんの少し塗装が剥げただけだったというのに。
3人は近くの店で結衣を囲み、寄せ鍋をつつきながら彼女を慰めている最中だった。私は焦る気持ちを必死に抑え、早く戻ってきてとだけ告げた。
賢太の声は、それが当然のことだとでも言わんばかりの口調だった。
「少し遅れたって、式には影響ないだろ?
結衣は怖がりなんだ。姉なんだから、こんな時に目くじらを立てるなよ」
私は壇上から、3人分空いたままの親族席に目を向けた。
この結婚式は、会場選びから招待状の宛名書きまで、すべて私ひとりで取り仕切ってきた。
賢太は仕事が忙しいと言った。
ふたりの兄からは、結衣はブライズメイドなんて初めてで勝手がわからないだろうから、ついでに面倒を見てやってくれと言われた。
要するに誰もが、私だけは怖がることも、失望することもないと思っていたのだ。
電話を切ると、ウェディングプランナーが遠慮がちに尋ねてきた。
「……まだ、お待ちになりますか?」
私は手にしていたブーケを、空いたままの新郎の椅子に置いた。
「もう、待ちません。
この結婚式は、中止にしてください」
この家のことも、10年間愛してきたこの人のことも――もう、私は待たない。
第1話
キャンセルの手続き書類にサインをしていると、賢太からまた電話がかかってきた。
「結衣の予備のドレスはどこだ?
さっき鍋の汁が飛んで、息もできないくらい泣いてるんだぞ」
私は冷ややかに答えた。
「ブライズメイドのドレスは1着だけ。予備なんてないわ」
電話の向こうで、大輔が鼻で笑った。
「はっ。知紗、お前は何の役にも立たないくせに、そういう小細工だけは一人前だな。
結衣が今日、淡い色のドレスを着るってわかってて、わざと予備を用意しなかったんだろう」
真斗も口を挟んできた。
「式に少し遅れただけだろう。
いったい誰への当てつけのつもりだ」
結衣が涙声でふたりをなだめた。
「……お兄ちゃんたち、知紗姉ちゃんを責めないで。
今日の主役は知紗姉ちゃんなんだから、私が怖い思いをしたことなんて大したことないわ。
知紗姉ちゃんがドレスを届けてくれないなら、私、汚れたままのドレスで行くから……っ
恥をかくのは私だけだもの。知紗姉ちゃんの結婚式には影響しないわ」
賢太の声が、途端に冷たくなった。
「聞いたか?
結衣はお前にこんな目に遭わされても、まだお前をかばってるんだぞ。
ドレスを届けて、直接謝ってこい」
私は受け付けに掲げられた、大きなウェディングフォトを見つめた。
「……結婚式は中止よ」
電話の向こうが、一瞬静まり返った。
賢太が、ふっと嘲るように笑った。
「お前なんかに、中止にする度胸があるわけないだろ?
知紗、お前はもう30だろう。俺と別れて、他に誰が貰ってくれるって言うんだ。
気性は悪いし、口も減らないし、1日中無愛想で木石みたいに突っ立ってるだけの女をな!
俺が昔のよしみで、お前みたいな誰も欲しがらない売れ残りを拾ってやってるんだろうが」
大輔が、蔑むような口調で言った。
「賢太、お前が甘やかしすぎたせいだよ。
こういう女は、しばらく放っておけばおとなしくなる」
真斗が、鼻先で笑った。
「ま、本当に中止になるなら、それもいいな。
藤城家に嫁いでから、三重野家の恥を晒さずに済む」
結衣が慌てて口を挟んだ。
「そんなっ、お兄ちゃんたち、そんなふうに言わないでよ。
知紗姉ちゃんは賢太さんのことが好きすぎて、彼が私に優しくするのが妬ましいだけなのよ」
結衣が小さくしゃくり上げた。
「全部、私のせいね……
私が三重野の家に来なければ、知紗姉ちゃんはきっと……幸せに暮らせていたのに」
3人は一斉に結衣をなだめ始めた。
誰も気づいていなかった。私がとっくに電話を切っていたことなど。
がらんとした新居に戻ると、私は壁にかけたウェディングフォトを外した。
この家を買うために、母が残してくれた貯金をすべてつぎ込んだ。
賢太がここに顔を出したのは、契約書にサインするときの一度きりだった。
新居の細々とした準備は、女の仕事だろうと彼は言ったのだ。
私は彼の服や私物をすべて段ボール箱に詰め、配送業者を呼んだ。
それから不動産業者に電話をかけた。
「この家は売ります。でもその前に、賢太には出て行ってもらわないと」
電話を切ると、今度は弁護士に連絡した。
「婚約解消の通知書を、今夜中に賢太へ送付してください。
それと、私名義の株式についてですが、三重野大輔に委任している資産管理の代理権を解除してください。
加えて、三重野グループが長年無償で使ってきた私名義の特許も、使用許諾を打ち切る準備を」
私のものは、ただのひとつたりとも彼らに残してやるつもりはない。
そして私は、打診されていた海外赴任を受けて、ここを発つ。もう二度と戻らない。
第2話
不動産業者は、翌朝早くに客を連れて内見にやってきた。
賢太は、ひと晩中帰ってこなかった。
午前3時、彼はSNSに鍋を囲む写真を投稿していた。
結衣は賢太のジャケットを羽織り、彼の肩に寄りかかっていた。
大輔が彼女のためにかいがいしく魚の骨を取り除き、真斗はそばにしゃがんで、ヒールで赤く擦れた足の手当てをしてやっていた。
添えられた言葉は、たった1行。
【ひと晩がかりで、やっとお姫様を笑わせてやれた】
私は静かにSNSを閉じ、賢太の最後の荷物を藤城家へ送り届けた。
午前10時、結衣が家族のグループチャットに音声メッセージを送ってきた。
「知紗姉ちゃん、まだ怒ってる?
昨日の夜、私が悪夢を見るんじゃないかって心配して、賢太さんがずっとそばにいてくれたの。
もう帰って知紗姉ちゃんのところに行ってってお願いしたんだけど、知紗姉ちゃんはもう大人なんだから、彼がいなくても大丈夫だろうって」
彼女は一度言葉を切り、さらに悲しげな声で続けた。
「知紗姉ちゃん、誤解しないでね。
私はただ、賢太さんを本当のお兄ちゃんだと思ってるだけなの。
知紗姉ちゃんが嫌なら、これからはなるべく迷惑かけないようにするから」
直後、賢太からすかさず返信が来た。
【結衣。お前が、あいつのために我慢する必要なんてない】
大輔も続けて書き込んだ。
【あいつは、自分より可愛がられてる人間が気に食わないだけだ】
真斗の言葉はもっと直接的だった。
【三重野の長女って肩書きだけの役立たずが、お前に口出す資格あるのか?】
うんざりしてグループを退出しようとしたところへ、賢太から栗のケーキの写真が個別のチャットに届いた。
【知紗の分、取っておいた】
10年前、初めてのデートで、彼は2時間も並んでこのケーキを買ってくれた。
昔は喧嘩をするたびに、彼がこれをひときれ持って帰ってくるだけで、ほだされた私の方から仲直りを切り出したものだった。
けれど今回、私が返したのはたったひと言だった。
【いらない】
瞬時に彼からの返信が表示された。
【いい加減にしろ!
俺がわざわざお前の機嫌を取ってやってるのは、あと数日で俺と結婚するからだぞ!
俺の堪忍袋の緒が切れたら、後悔して泣きついてきても遅いからな】
だが、次に続くメッセージこそが、彼の本当の用件だったのだ。
【結衣の胃薬が、新居のベッドサイドの棚にある。
すぐにホテルへ届けろ】
あのケーキは、決して私への埋め合わせなんかじゃなかった。
結衣のための使いっ走りをさせるための、安い報酬だったのだ。
私はそのまま画面を伏せ、返信しなかった。
30分後、大輔から電話がかかってきた。
「薬はどうした?」
「1階に薬局があるでしょう。賢太にでも買わせればいいじゃない」
大輔は、まるでたちの悪い冗談でも聞いたかのように言った。
「賢太はひと晩中結衣のそばについてたんだぞ。まだこき使う気か?
お前は嫉妬して不機嫌になる以外、いったい何ができるんだ?
結衣に何かあったら、母さんの墓の前に土下座して詫びるんだな」
携帯を握りしめた私の胸を、錆びた鈍い刃物でゆっくりと切り裂かれるような痛みが走った。
母は亡くなる前、兄ふたりの手をしっかりと握って、私のことをちゃんと守ってやってと言い聞かせたはずだった。
なのに結衣がこの三重野家に来てからというもの、その温かな遺言はいつの間にか無残に書き換えられていた。
私は、彼女に譲らなければならない。
彼女の機嫌を取らなければならない。
自分の持つものすべてを、彼女に分け与えなければならない。
さもなければ、私はたちまち意地悪な女に仕立て上げられてしまう。
「届けないわ」
大輔の声が、地を這うように低くなった。
「知紗、本当にいい加減にしろよ!
三重野家に養ってもらって、賢太に貰ってもらえなきゃ、お前なんて何者でもない女だろうが!
結衣は愛嬌もあるし、物分かりもいいし、誰からも可愛がられる性格をしてる。
それでお前はどうなんだ?30年も生きてきて、実の兄にまで疎まれてるじゃないか」
一方的に電話が切れると、今度は真斗からメッセージが届いた。
【ヴェールは警備員に預けておいたからな。
結衣のブライズメイド用のドレス、ちゃんとアイロンかけておけよ。
結衣は肌が敏感だから、ちょっとしたシワがあるだけでも落ち着かないんだ】
立て続けに結衣が、痛々しく手の甲に点滴を打っている写真を送ってきた。
【知紗姉ちゃん、真斗兄ちゃんの言うことは気にしないでね?
ドレスが少しくらいシワになっても平気。私、我慢できるから。
薬を届けてくれなくても、ひと晩くらいなら我慢できるし】
私は配達代行サービスを手配し、薬とブライズメイド用のドレスを三重野家に送った。
午後には婚約指輪を返し、家の譲渡契約書にサインを済ませた。
夜の帳が下りる頃、指輪が賢太の手元に届けられた。
彼は指輪のケースを写真に撮り、グループチャットに怒りに任せて投稿した。
【お前、何様になったつもりだ?
指輪は返してもらった。
これから先、お前が土下座して頼んできても、もう二度とはめてやらないからな】
結衣が、すかさず涙の絵文字を送ってくる。
【知紗姉ちゃんは、指輪が安物だから嫌だったのかな……?
賢太さんが私にハングルを買ってくれたことが原因なら、今すぐ返すから】
賢太が優しげに返信した。
【あれはお前にふさわしいものだ。あいつには一切関係ない。
あいつなんか、お前の足元にも及ばないさ】
私はそのふざけた一文を最後まで読み終えると、家族のグループを静かに退出し、海外赴任の同意書にペンを走らせた。
出発まで、残り48時間。
第3話
翌朝、賢太が会社の前で待ち伏せていた。
彼は指輪のケースを、私の胸元に乱暴に投げつけた。
「もう気が済んだか?
お前の母親が死んだ時だって、こんなに取り乱したりしなかっただろうが」
私の足が、一瞬だけぴたりと止まった。
それが私の心に最も深く刺さった棘だと、賢太はよく知っていたはずだ。
それでもなお私を屈服させるためとあらば、彼は躊躇なくその傷口を踏みにじるのだ。
「婚約解消の通知書は、データでもう送ったはずよ」
賢太はちらりと自分のスマホに目をやると、私の目の前でこれ見よがしにそれを削除した。
「チッ。こんなふざけた紙切れで、いったい誰を脅かすつもりだ?
お前はもう夢見る20歳じゃないんだぞ。
今の年齢で婚約破棄の経験まであって、性格もひねくれてるとなれば、婚活市場に出たところでただのワケアリ物件扱いだ。
俺がお前と結婚してやるのは単なる情けだ。お前じゃなきゃ駄目だからじゃない」
そこへ大輔と真斗も駆けつけてきた。
大輔が、新しい結婚式の進行表を私に投げつける。
「明後日、改めて式を挙げることになった。
結衣にきちんと謝って、当日は不機嫌な顔を一切見せないと今ここで約束しろ」
真斗は車のドアにもたれかかり、嘲るような冷たい目で私を射抜いた。
「自分の身の程をわきまえた方がいいぞ。
賢太を逃したら、お前は一生仕事と添い遂げるのがお似合いの惨めな女だ。
年老いて家の中で孤独死しても、死体が腐るまで誰にも気づかれないなんてことになるなよ」
私は彼らの顔を順番に見つめ、ふいに声を出して笑った。
「ふふ……私が死のうが生きようが、あなたたちに何の関係があるのよ?」
大輔の顔色が、さっと険しく変わった。
「俺たちはお前の実の兄貴だぞ!」
私は、さらに冷ややかに笑い返した。
「兄貴?あなたたちは結衣の忠実な番犬じゃなかったの?」
言い終わるのとほぼ同時に、結衣が慌てた様子で車から降りてきた。
結衣はうさぎのように目を赤くして、あの私のヴェールを胸に抱え込んでいた。
「知紗姉ちゃん、私を責めるのはいいから、お兄ちゃんたちを責めないで!
ふたりはただ、私のことが心配で少しきつい言い方をしちゃっただけなの。
知紗姉ちゃんは昔から何でも持ってたけど、私にはあの人たちしかいないのよ。
それなのに、ふたりが私にかけてくれるわずかな気遣いまで、全部奪うつもり?」
結衣は私の前まで歩いてくると、ふいに足をぐらつかせた。
そのまま糸の切れた人形のようにくずおれ、賢太の腕の中へ倒れ込んだ。
ヴェールは地面に落ち、彼女のヒールに踏みにじられて黒い跡がついた。
賢太は結衣の肩をしっかりと抱き止めた。
大輔がすぐさま彼女の腕を支え、真斗はすかさずしゃがみ込んで足首の具合を確かめた。
3人のその無駄のない動きは、まるで何度も舞台稽古を重ねてきたかのように息が合っていた。
結衣は賢太の広い胸にもたれかかり、華奢な肩を震わせて泣きじゃくった。
「知紗姉ちゃんはきっと、私のことが嫌いなのねっ。
もう、結婚式から身を引こうかな……
ブライズメイドもやめるし、あなたたちのことをお兄ちゃんって呼ぶのもやめるわ。
知紗姉ちゃんがそれで喜ぶなら、私、三重野の家を出て行ったっていい」
真斗が、怒りを露わにして勢いよく立ち上がった。
「知紗、これで満足か!?
結衣を死ぬまで追い詰めなきゃ、お前の気は済まないのか?」
大輔は、まるで道端のゴミでも見るかのような冷酷な目で私を見下ろした。
「結衣の髪の毛1本でも傷ついたら、お前とは三重野家の縁を切ってやるからな」
賢太は結衣を抱き上げ、氷点下の眼差しで私を射抜いた。
「明後日の午前10時、改めて結婚式をやり直す。
お前がちゃんと来て、結衣に土下座して謝るなら、このままお前と結婚することも考えてやる。
そうじゃなきゃ、もう二度と藤城家には入れないからな」
私はゆっくりと身を屈め、泥に踏みにじられたヴェールを拾い上げると、近くのゴミ箱へ躊躇なく投げ捨てた。
「なら、入れなくて結構よ」
賢太が、底意地悪く嘲るように笑った。
「どこまで意地を張る気だ?
俺と三重野の後ろ盾がなければ、お前なんて1か月も持たないだろうにさ。
その時になって、藤城家の前で泣きついてくるなよ。気分が悪い」
私はそれ以上、賢太に目を向けなかった。
午後、私は手早く仕事の引き継ぎをすべて終えた。
3日後に予定していたフライトを、明日の午前中へと前倒しにしたのだ。
新居に戻ると、賢太の秘書が新しい進行表を届けに来ていた。
3ページにもわたる備考欄は、そのすべてが結衣からのわがままな要望で埋め尽くされていた。
結衣は強い光が苦手だから、会場の照明は極力落とすこと。
結衣は白いバラが好きではないから、フラワーウォールをピンク系に変更すること。
結衣は私の隣に立つと気後れするから、私はヒールを履いてはいけない。
その最後には、賢太の手書きのメモまで添えられていた。
【機嫌を損ねるなよ。
明日はリハーサルに朝食の差し入れを持ってこい。
結衣が、お前の手作りサンドイッチを食べたいと言っている】
私は一瞥しただけで、その進行表を丸ごとシュレッダーにかけた。
夜、賢太がグループチャットでふたりに連絡していた。
【明日の10時、あいつは必ず来る】
大輔が即座に返信した。
【逃げ道を完全に塞いでおけば、嫌でも大人しくなるさ】
真斗からも、冷酷なひと言が届いた。
【ああいう性根の腐った女は、一度痛い目を見なきゃ学ばないんだ】
第4話
出発前夜、私は三重野家に戻った。
母が残してくれたアクセサリーとアルバムを、取りに行くためだった。
暗証番号は変わっていなかった。けれど自分の部屋のドアを開けた瞬間、私はしばらく、その場から動けなかった。
私の部屋は、いつの間にか結衣の衣装部屋に変わっていた。
壁にあった卒業写真は、もうどこにもない。
本棚に並んでいたトロフィーは、段ボール箱に放り込まれていた。
母が手縫いしてくれたベッドカバーは、靴箱の下敷きにされていた。
結衣が私のシルクのパジャマを着て、浴室から出てきた。
私を見るなり、彼女は口元を手で覆った。
「知紗姉ちゃん、来るなら先に言ってよ!
散らかってて、誤解されたら困るもの」
「ここは私の部屋よ」
結衣が、唇を噛んだ。
「……大輔兄ちゃんが、知紗姉ちゃんはもうすぐ嫁に出るんだから、嫁に出た娘はお客様みたいなものだって。
私の服が多すぎるからって、この部屋を使わせてくれたの」
彼女は、小さく付け加えた。
「……知紗姉ちゃんは、部屋のひとつくらい私に譲ってくれないの?」
私は化粧台に歩み寄った。母の形見のバングルが、結衣の手首にはめられていた。
「外して」
結衣はとっさに手首を押さえ、涙をこぼした。
「だって!真斗兄ちゃんが、つけていいって言ったの!
お母さんが生きてたら、きっと私のことも本当の娘みたいに思ってくれたはずだって。
知紗姉ちゃんは、もうお母さんの愛情を全部もらったでしょう?
形見をちょっとだけ分けてくれても、いいじゃない」
そう言い終わると同時に、結衣の指の力がふっと抜けた。
バングルは床に落ち、真っ二つに割れた。
結衣は青ざめた顔で、怯えたように私を見た。
「あっ……ごめんなさい……
わざとじゃないの。そんなに大切なら、私を叩いてもいいから」
結衣は私の手を取ると、自分の頬を勢いよく叩いた。
ちょうどそこへ、大輔と真斗が部屋に入ってきた。
ぱん、と乾いた音が響いた。
結衣は頬を押さえ、崩れるように床に座り込んだ。
大輔が駆け寄ってきて、私を乱暴に突き飛ばした。
腰が机の角にぶつかり、私は痛みにその場へへたり込んだ。
「知紗、よくも結衣に手を上げたな!」
「結衣が自分で――」
「黙れ!」
真斗が結衣を抱き起こしながら、私を引き裂かんばかりの目で睨んだ。
「結衣をこんな目に遭わせておいて、まだ罪をなすりつける気か?」
結衣は泣きながら首を振った。
「知紗姉ちゃんは悪くないの!
お母さんのバングルを壊したのは私だし……
知紗姉ちゃんが私を恨むのも、当然だもの」
大輔は床に散らばったバングルの破片を見て、かえって冷笑した。
「死んだ人間が残した、たかが古いバングルだろう。
結衣がつけてやるだけでも、ありがたいと思えよ。
こんなもののために手を出すなんて、道端のゴミを奪い合う野良犬と同じだな」
真斗はさらに、破片を足で踏みつけた。
「母さんだって、お前みたいなのを産んだと知ったら、死んでも死にきれないだろうな」
結衣が、目を赤くしながらふたりをなだめた。
「お兄ちゃんたち、もうやめて!
お母さんのことを言われたら、知紗姉ちゃんもつらいはずよ」
結衣がなだめればなだめるほど、ふたりの罵声は激しくなった。
「あいつに悲しむ資格なんてあるのか?」
「昔から俺たちが尻拭いしてやらなきゃ、とっくにどこかでのたれ死んでた女だぞ」
私はもう、弁解しなかった。
ただ、弁護士に電話をかけた。
「三重野大輔に委任している資産管理の代理権を解除してください。
同時に、三重野グループに対する私名義の特許の使用許諾も取り消してください」
大輔の顔色が、さっと変わった。
「会社を盾に俺を脅す気か?」
「会社はあなたのものじゃない」
私は母の遺した書類とアルバムを拾い上げた。
「株だって、あなたのものじゃない」
真斗がドアを指差した。
「出て行け!
今日出て行ったら、この先賢太に捨てられて玄関先で土下座して泣きついてきても、僕たちはもう知らないからな」
結衣が追いかけてきて、傘を私の手に押しつけた。
「知紗姉ちゃん、外は雨よ」
私にだけ聞こえる声で、彼女は言った。
「ほら、やっぱりふたりは私のほうが大事なの」
次の瞬間、彼女は二歩後ずさり、泣きながら声を張り上げた。
「知紗姉ちゃん、傘を持って行って。
私なんて濡れても平気。どうせ誰も心配してくれないもの」
3人が、すぐさま彼女のもとへ駆け寄った。
私は玄関に、三重野家の鍵を置いた。
扉が閉まる間際、大輔の嘲笑が聞こえた。
「どうせ数日もすれば、泣きついて戻ってくるさ」
午前1時、私はスーツケースを引いて新居を後にした。
夜が明けると、空港行きの車に乗り込んだ。
午前9時半、賢太が式場のホテルに到着した。
ふたりの兄も、彼のそばに付き添っていた。
結衣はピンクのブライズメイド用ドレスをまとい、本来は私のものだったブライダルローブを羽織っていた。
ドレスの胸元には、賢太が自ら選んでプレゼントしたダイヤのブローチが留められていた。
人気のない宴会場を見回し、結衣はおずおずと口を開いた。
「……知紗姉ちゃん、まだ怒ってるのかな……?
私、しばらく隠れてようか。式が終わってから出てくるから」
賢太が彼女の肩を抱き寄せた。
「どうしてお前が隠れるんだ。
あいつがどれだけ騒ごうが、お前の方が大事なことに変わりはない」
大輔は時計に目をやり、険しい顔をした。
「知紗はまだ来てないのか」
真斗が鼻で笑った。
「わざと遅れて、僕たちに頭を下げさせたいんだろう?
あの女の手口なんて、しょせんこの程度だ」
ウェディングプランナーが、慌てた様子で駆けてきた。
「藤城様、いらっしゃったのですか?」
賢太が眉をひそめた。
「10時に式があるだろう。忘れたのか?」
プランナーは、明らかに戸惑った顔をした。
「あっ……ですが、結婚式は3日前にキャンセルになっておりまして……
会場の装飾も、昨日すべて撤去しております」