壊された手は、誰より自由に羽ばたいた

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壊された手は、誰より自由に羽ばたいた

GoodNovel 完結

浮気を隠すため、緑川蒼一郎(みどりかわ そういちろう)は高い報酬を払って、私、緑川歌音(みどりかわ かのん)に男性のボディーガードをつけた。 「最近は鮎美の妊娠に向けた準備につきっきりで、お前を構ってやる暇がない。あいつが側にいれば俺も安心だ」 そして本当に安井鮎美(やすの あゆみ)の妊娠が判明すると、彼は離婚届を私の前に叩きつけた。 「鮎美は身体が弱い。愛人というレッテルには耐えられないんだ。俺たちの結婚は最初からなかったことにしてくれ。 その間、ボディーガードがお前の側でしっかり守る。お前がそいつとどうなろうと、俺は構わない」 煙草の煙が立ち込める店の個室で、彼の取り巻きたちがどっと笑い声を上げた。 「蒼一郎、奥さんが本当にボディーガードと寝ちまっても平気なのか?」 蒼一郎は煙の輪を吐き出し、自信たっぷりに目を細めた。 「あいつにそんな真似ができるわけないだろ。 俺のためなら命すら差し出せる女だ。たかがボディーガードひとり、あいつの眼中に入るわけがない。 あえて男をあてがって、あいつに不倫の疑いがかかるよう仕向けてるんだ。祖父が調べを入れてきても、歌音の方が先に不倫していたことに仕立て上げればいい。 そうすれば、鮎美のお腹の子も、堂々と緑川家の跡継ぎを名乗れる」 私はドアを押し開け、彼の視線を真っ直ぐに受け止めた。 「もちろん、お腹の子が無事に生まれることが一番大切よね。あなたの言う通りにするわ」

チャプター (1)

第1話

浮気を隠すため、緑川蒼一郎(みどりかわ そういちろう)は高い報酬を払って、私、緑川歌音(みどりかわ かのん)に男性のボディーガードをつけた。 「最近は鮎美の妊娠に向けた準備につきっきりで、お前を構ってやる暇がない。あいつが側にいれば俺も安心だ」 そして本当に安井鮎美(やすの あゆみ)の妊娠が判明すると、彼は離婚届を私の前に叩きつけた。 「鮎美は身体が弱い。愛人というレッテルには耐えられないんだ。俺たちの結婚は最初からなかったことにしてくれ。 その間、ボディーガードがお前の側でしっかり守る。お前がそいつとどうなろうと、俺は構わない」 煙草の煙が立ち込める店の個室で、彼の取り巻きたちがどっと笑い声を上げた。 「蒼一郎、奥さんが本当にボディーガードと寝ちまっても平気なのか?」 蒼一郎は煙の輪を吐き出し、自信たっぷりに目を細めた。 「あいつにそんな真似ができるわけないだろ。 俺のためなら命すら差し出せる女だ。たかがボディーガードひとり、あいつの眼中に入るわけがない。 あえて男をあてがって、あいつに不倫の疑いがかかるよう仕向けてるんだ。祖父が調べを入れてきても、歌音の方が先に不倫していたことに仕立て上げればいい。 そうすれば、鮎美のお腹の子も、堂々と緑川家の跡継ぎを名乗れる」 私はドアを押し開け、彼の視線を真っ直ぐに受け止めた。 「もちろん、お腹の子が無事に生まれることが一番大切よね。あなたの言う通りにするわ」 第1話 蒼一郎の煙草を持つ手が、ふと止まった。 「なんだお前、いつからそんな駆け引きを覚えたんだ?」 彼は鼻で笑うと、再び煙草を唇へ運び、目を細めて私を見た。 「以前は、俺が他の女に少し目を向けただけで、泣きわめいて大騒ぎしていたよな。 今は俺が外で子供を作ったというのに、全部言う通りにするだと?」 彼は立ち上がり、私の前まで歩み寄ってきた。 煙草の匂いにブルガリアンローズの香水が混じって鼻を突く。鮎美お気に入りの香りだ。 3か月前の私なら、この匂いを嗅いだだけで、悔しくて一晩中眠れなかっただろう。 だが、今は—— 嫉妬する気力さえ、もう残っていない。 「さっきの言葉で足りなかったなら、もう一度言うわ」 私は彼を見つめ返した。 「離婚届にはいつでもサインする。あなたが用意してくれたボディーガードも、ありがたく受け取るわ。 鮎美さんが安心して出産を迎えられるなら、私に異存はないから」 蒼一郎の表情が、さっと険しくなった。 彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがて冷たく笑い飛ばした。 「……ああ、上等じゃないか」 彼は視線を部屋の隅へと流した。 「羽藤、こっちへ来い」 ふと、3年前のことが脳裏をよぎった。場所は、同じこのオフィスだった。 私の手首のギプスが外れたばかりのあの頃、彼は私の手を取り、自分の胸元へ押し当てて、まだ恐怖の色が残る瞳で言った。 「歌音、もう二度と危険な目には遭わせない。お前のすべては、この俺が守る」 それなのに今、彼は自らの手で、別の男を無理やり私の生活に入り込ませようとしている。 羽藤優磨(はとう ゆうま)が静かに歩み出た。 蒼一郎は優磨を私のそばへ乱暴に押しやった。 私は思わずよろめいた。 優磨はとっさに私の腕を支え、すぐに手を離した。 「今日からこいつがお前専属のボディーガードだ。 24時間、片時もそばを離れさせないし、夜寝る時も、こいつを部屋の前に立たせておく」 蒼一郎の視線が、優磨が離した手に落ちた。 「お前はずいぶん物分かりがいいじゃないか?その物分かりのいい女のふりが、いつまで続くか見ものだな」 傍らの仲間のひとりが、見かねて口を挟んだ。 「いや蒼一郎、さすがにやりすぎじゃないか。奥さんだって、その……」 「黙れ!」 蒼一郎は冷たく遮った。 「妻本人が気にしてないんだ、お前らが口出しすることじゃない」 その時、彼のスマホが鳴った。 「蒼一郎さん、赤ちゃんがお腹を蹴ったの。怖いよ……」 画面を見て電話に出た蒼一郎の声が、一瞬にして甘くなった。 「すぐ行く。ちゃんと横になって、動くなよ。俺たちの赤ちゃんを驚かせるなよ」 電話を切るや否や、彼は私を一瞥もせずに個室を出ていった。 ドアが閉まる。背後でひそひそと話し声が聞こえた。 「蒼一郎、今回は本気みたいだな」 「当たり前だろ、鮎美のお腹にいるのは緑川家の跡取りとなる男の子なんだぞ」 「いくら会長が歌音の肩を持ったって、血のつながった孫には勝てないさ」 「それにしてもさ、歌音もさすがに気の毒だな。あの時、蒼一郎を助けて右手が不自由になったのに」 「しっ、声が大きい」 私は振り返り、優磨を見た。 「運転、できる?」 「できます」 「じゃあ、家まで送ってちょうだい」 背中に突き刺さる視線を無視して、私はまっすぐ店を出た。 外では冷たい雨が降り出していた。 優磨が傘を広げ、私の頭上に差しかける。 雨粒が傘の骨を伝って落ちていく。私の服には雨粒が1滴もかからなかった。 高台に建つ邸宅に戻った。 いつもの癖で、私はローテーブルに近づき、蒼一郎にお茶を淹れようとした。 手を伸ばしかけて、ようやく気づく。 彼がここに帰ってこなくなって、もう3か月になる。 私は1階のゲストルームを指さした。 「あなたはその部屋を使って」 優磨は頷くと、私の鞄をソファに置き、戸締まりを確認しに行った。 私は俯いた。手首の傷は、3年経った今でも生々しく残っている。 あの時、刃は私の腱を断ち切った。 今になってようやく分かる。断ち切られたのは、腱だけではなかったのだと。 3年前、蒼一郎が拉致され、身代金を届けに行った私が、彼の代わりにあの刃を受けた。 彼は病室のベッドの傍らで、目を赤くして私のけがしていない方の手を握りしめていた。 「歌音、お前には命を救われた。一生、絶対にお前を裏切らない! もし誓いを破ったら、ろくな死に方はしない」 その3年後の今日、彼は私に不倫の濡れ衣を着せて、私を追い出そうとしている。 私は浴室に入り、シャワーをひねる。温かい湯が、身体を伝って流れ落ちていく。 顔に伝うものが温かくて、それが湯なのか涙なのか、自分でも分からなかった。 シャワーを終えて出ると、優磨が背筋を伸ばして寝室の扉の前に立っていた。 「緑川社長の指示です。片時も離れず、お守りしなければなりません」 私は彼を見つめた。 「……好きにして」 第2話 翌朝、玄関のスマートロックが解除される電子音が響いた。 私はちょうどダイニングで味噌汁を飲んでいたところだった。 蒼一郎が鮎美の腰を抱きながら入ってきた。 鮎美はマタニティウェアにぺたんこ靴という姿で、彼の胸に寄りかかっていた。 「歌音さん、怒ってないよね? 私、これから一緒に住むことになる家を、ちょっと見ておきたかっただけなの。赤ちゃんが生まれたら、今より広いところのほうがいいでしょ?」 蒼一郎は彼女の背中を軽く叩いた。 「あいつに文句を言う資格などない。この家は俺の名義なんだから」 彼は私を見ると、視線が背後の優磨へと流れた。 「ずいぶん順応が早いじゃないか。もうボディーガードを連れ込んでいるとはな」 私は箸を置き、紙ナプキンで口元を拭った。 「社長が手配してくれた人だもの。ありがたく使わせていただかないと」 その「社長」という呼び方に、蒼一郎は苛立ったように眉をひそめた。 それ以上は取り合わず、鮎美の手を引いて2階へ上がっていった。 2階の廊下の突き当たりには、私のアトリエがある。 右手が不自由になった後、蒼一郎が私のために作ってくれた部屋だ。中には絵の具と画材が所狭しと並んでいる。 もう絵が描けなくなっても、毎日絵の具の香りだけは楽しんでほしい。そう彼は言っていた。 鮎美がアトリエの扉を開けた。 「この部屋、すごく日当たりがいいね。赤ちゃんのお部屋、ここにしない?」 「ああ、お前の好きにすればいい」 彼は振り返り、秘書に指示を出した。 「作業員を呼んで、中のガラクタを全部片付けろ。内装も壊して、一からリフォームするんだ」 秘書は一瞬戸惑い、思わず私の方を見た。 「社長、あちらは奥様の……」 蒼一郎は口の端を歪めた。 「奥様?もうすぐ奥様じゃなくなるんだからな」 作業員たちが道具を手に2階へ上がっていった。 イーゼルが壊される。絵の具がゴミ袋へと放り込まれていく。 私は階段の踊り場に立って、それを眺めていた。 優磨が声を落として尋ねた。 「止めましょうか」 「いいの」 壊してもらえて、むしろせいせいする。残しておいたところで、気分が悪いだけだ。 それでも指先が無意識に強ばった。 このアトリエができたばかりの頃、蒼一郎は後ろから私を抱きしめ、顎を肩に乗せてこう言ったのだ。 「これからはここで安心して絵を描けばいい。俺が一生、お前をサポートしてやる」 絵の具でシャツが汚れても、彼は気にもしなかった。 それなのに今、彼は私の最後の思い出の品々を「ガラクタ」と呼び、人に指示して片付けさせている。 鮎美がアトリエから出てきた。手には桐箱を持っている。 中に入っていたのは、かつて会長から私へ贈られた真珠のネックレスだった。代々、当主の妻に受け継がれてきた家宝だ。 「蒼一郎さん、このネックレス、すごく綺麗。私には少し大ぶりな気もするけど」 鮎美は真珠のネックレスを首にかけると、鏡を見るように軽く胸元へ手を添えた。 蒼一郎の目がわずかに揺れた。 「よく似合ってる。そのまま持ってていい」 鮎美は得意げに顎を上げ、私のほうを見た。 「歌音さん、気にしないよね? 蒼一郎さんが言ってたの。これは緑川家で代々、当主の奥さんに受け継がれてきたものなんだって。私のお腹には緑川家の子がいるんだし、お守り代わりに持っていてもいいでしょう?」 蒼一郎がじっと私を見た。 私は黙って歩み寄ると、鮎美の首元に手を伸ばし、ネックレスの留め金を外した。鮎美が悲鳴を上げ、蒼一郎の胸に逃げ込んだ。 「きゃっ!歌音さんが私を叩こうとした!」 蒼一郎が強く私を突き飛ばした。 「気でも狂ったか!彼女は妊婦なんだぞ!」 私は体勢を立て直し、ネックレスを桐箱に戻して鮎美に差し出した。 「真珠は傷がつきやすいの。身につけたままにするより、きちんと箱にしまっておいたほうがいいわ。 持っていくなら、箱ごと持っていって。傷でもつけたら、社長が悲しむでしょうから」 蒼一郎は私を見つめ、みるみる表情を変えた。 「歌音、このネックレスがどういうものか、本当に分かってるのか?」 「分かっているわ。当主の妻の証でしょう。 それを鮎美さんに差し上げるわ。末永くお幸せに。元気な赤ちゃんが生まれますように」 手首の古傷が、じくじくと疼いた。 あの日、会長の誕生日を祝う席で、蒼一郎は親族一同が見守る中、私の首にこのネックレスをかけながら、よく通る声でこう言った。 「歌音は、俺が生涯の伴侶と決めた女だ。このネックレスを受け継ぐのは、歌音しかいない」 あの時、会場を満たす祝福の声の中で、私は永遠を手に入れたのだと思っていた。けれど、その永遠はたった3年しか続かなかった。 鮎美は桐箱を受け取ると、笑みを浮かべた。 蒼一郎は拳を握りしめ、何か言おうとしたが、鮎美は彼の袖を引いて、外へと歩き出した。 「あーあ、お腹すいた。フレンチ食べに行こー」 蒼一郎は引かれるまま、階段を下りていった。 玄関先で彼は一度だけ振り返り、何か言いたげな表情を浮かべたが、結局はフンと鼻を鳴らしただけだった。 扉が、バタンと閉まる。 私はひとり、荒らされたアトリエの真ん中に立っていた。 ゆっくりとしゃがみ込み、ゴミ袋の中から割れたパレットの欠片を拾い上げる。 このパレットは、蒼一郎が初めて私と一緒に画材店へ行ってくれた日のこと。私がなかなか気に入るものを見つけられずにいると、彼はぶつぶつ文句を言いながらも、『今度、俺が作ってやるよ』と言ってくれた。 彼がまさか、本当に作ってくれるなんて思ってもみなかった。 いびつな陶器のパレットで、釉薬の塗りムラもひどかった。 彼はそれを宝物のように差し出しながら、耳まで赤くしてこう言った。 「歌音、見ろよ。これでお前の助手としての道具も揃ったな」 あの時の彼の瞳に宿っていた光は、どんな宝石よりも眩しかった。 優磨の低い声が聞こえた。 「奥様、修復を手配しましょうか」 「いいの。捨てるものは、きれいさっぱり捨てないとね」 私は主寝室へと歩き出した。 私が持っていくべきものは、ひとつたりとも彼には残さない。 第3話 金曜日の夜、緑川家の本家で一族の夕食会が開かれた。 蒼一郎は前もって人を遣わし、深緑のオートクチュールドレスを届けさせていた。 一緒に届いたメッセージには、こう書かれていた。 【今夜はお前のボディーガードも連れて出席しろ。俺に恥をかかせるなよ】 私はドレスに着替え、優磨に車を出してもらって本家へと向かった。 車が本邸の車寄せに停まると、優磨が降りて車のドアを開けた。 夜風の冷たさに、思わず身震いする。 優磨はすかさず上着を脱ぎ、私の肩にふわりとかけた。 「夜は冷えますから」 私は断らずに、「ありがとう」とだけ返した。 ふたり並んで大広間に入ると、それまで賑やかだった室内が一瞬にして静まり返った。 蒼一郎は中央に立っていた。 傍らには、白いワンピース姿の鮎美がいる。首元の真珠のネックレスがひときわ目を引いた。 蒼一郎がこちらを見た。その目はひどく冷たかった。 ずかずかと歩み寄ると、私の肩にかかった上着を乱暴にむしり取り、床へと投げ捨てた。 「歌音、恥知らずめ! ボディーガードと寄り添って、一族の笑い者にでもなりたいのか!」 私は床に落ちた上着を見下ろした。 「ただ、寒かっただけよ」 「ふん、寒い?」 蒼一郎は鼻で笑った。 「よほど男に飢えているみたいだな」 彼は周囲の年長の親族たちへ向き直った。 「皆さん、今日は一族の皆さんが集まったこの場を借りて、ひとつお伝えしたいことがあります。 歌音は体調が優れないので、今後、緑川家の女主人としての役目は鮎美に任せます。 鮎美のお腹にはすでに私の子がいる。緑川家の跡継ぎを身ごもっているんですから、当然のことです」 人々の間に、ざわめきが広がった。 「それって事実上、妻の座から追い出すってことじゃないか」 「歌音も自業自得だろう。あの男を見ろよ、あんな怪しい男を連れて、みっともないったらない」 上座に座っていた会長の緑川一夫(みどりかわ かずお)は、怒りで顔を震わせていた。 「蒼一郎、何を馬鹿なことを。歌音はお前が正式に結婚した妻だぞ!」 蒼一郎は一夫の前まで歩み寄ったが、強気な態度を崩さなかった。 「お祖父様、歌音自身が気にしていないのに、どうしてあなたが庇い立てするんですか。 今だって、専属のボディーガードを一族の集まりにまで連れてきている。それこそみっともないでしょう」 鮎美は頃合いを見計らうと、急須を手に一夫のそばへ歩み寄った。 「おじいさま、お茶、淹れましょうか」 そう言って湯呑みにお茶を注ぎながら、わざと胸元の真珠のネックレスが一夫の目に入るように身をかがめた。 その瞬間、一夫の表情が変わった。 「歌音!そのネックレスが、どうしてあの子のところにある!」 全員の視線が、私へと突き刺さる。 「私が、彼女に差し上げたんです。 鮎美さんの方が、当主の妻にふさわしいでしょうから。私はただ、お譲りしただけです」 蒼一郎が勢いよく振り向き、私を睨みつけた。 「そうやって気を引こうという魂胆か! 誰に見せるために、そんな芝居を打ってるんだ」 私は、彼の思い上がった顔を見つめた。 「社長の思い過ごしよ。ただ、あなたの決めたことに従っているだけ。 ボディーガードを連れること、女主人の座を譲ることも、全部言われた通りにしたし、ほかに何かご指示は?」 私の態度に蒼一郎は怒りで顔を歪め、玄関を指さした。 「出て行け! その得体の知れない男を連れて、とっとと失せろ!」 優磨が床に落ちた上着を拾い上げ、埃を払ってから、改めて私の肩にかけ直した。 「奥様、行きましょう」 私は踵を返し、歩き出した。 背後から、鮎美の甘えた声が聞こえてくる。 「蒼一郎さんったら、もう怒らないで。怒りすぎて身体を壊したら大変だから……」 私は肩にかかった上着をきつく引き合わせた。 この緑川家の本邸には、もう二度と足を踏み入れることはない。 第4話 宴の後半、蒼一郎は人を介して、私を本邸の裏庭に呼び出した。 一夫が私に、個人的に聞きたいことがあるという話だった。 私は優磨に庭の入り口で待ってもらい、ひとりで中へ入った。 錦鯉の池のそばに立っていたのは、一夫ではなかった。 鮎美だった。 彼女は餌を手に、何気ない様子で池に撒いていた。 私が来たのを見ると、得意げな笑みを浮かべた。 「歌音さん、皆の前で追い出される気分はどう?」 私は取り合わず、踵を返そうとした。 「待って!」 鮎美が数歩前に出て、行く手を塞いだ。 「あのね、いつまでお高くとまってるつもり? 蒼一郎さんがボディーガードをつけたのは、本当にあなたを守るためだと思ってるの? ただ、あなたを追い出す口実が欲しかっただけよ。 あなたとそのボディーガードのスキャンダルさえ流れれば、彼はあなたと離婚して、財産分与もせずに追い出せるんだから」 私は彼女の歪んだ顔を見つめた。 「そこまで分かっているなら、わざわざ私に言いに来る必要もないでしょう。 私が無一文で追い出された後は、あなたがそのまま邸宅に移り住んで、緑川家の奥様になればいいだけじゃない」 私の平静さに、鮎美は苛立ちを隠せなくなったようだった。 顔色を変え、歯を食いしばると、手を伸ばして私の手首を掴んだ。ちょうど古傷のある場所を。 痛みに息が詰まり、私はその手を振り払った。 「触らないでッ!」 手を振り払った拍子に、鮎美が短い悲鳴を上げた。 彼女はそのまま後ろに倒れ込み、大きな水音を立てて池に落ちた。 「助けて!蒼一郎さん助けて!お腹が……っ」 鮎美は水の中でもがきながら叫んだ。 遠くから、せわしない足音が近づいてくる。 蒼一郎が庭に姿を現すなり、スーツのまま水へ飛び込んだ。 彼は鮎美を抱え上げて岸に這い上がった。 鮎美はお腹を押さえ、顔を真っ青にして全身を震わせていた。 「い、痛いよ……歌音さんが私を突き飛ばしたの。赤ちゃんを殺そうとしたのよ……」 蒼一郎は顔を上げ、鮎美をそっと下ろすと、ずかずかと私の前に歩み寄った。 パァン! 乾いた音とともに、強烈な平手打ちが私の頬を打った。 顔が弾き飛ばされるほどの衝撃に足元が滑り、私は砂利道に倒れ込んだ。 右の手首を石に強くぶつけた。 「お前、そこまでやるのかよ。 鮎美は妊娠してるんだぞ。俺に腹が立ってるなら、俺に言えばいいだろ。どうして鮎美にまで手を出すんだ」 私は手首を押さえながら、顔を上げて彼を見た。 「私は突き飛ばしてない。彼女が自分で私の手を掴んで、わざと落ちたのよ」 私は一拍置いて、蒼一郎の腕の中で震える鮎美を見つめた。 妊娠3か月の身で、どうして自分から池に飛び込むような真似ができるのだろう。 先月、一夫がお腹の子の健診記録を見たいと言った時も、彼女はこうして彼の胸に逃げ込み、赤ちゃんに悪影響があるのが怖いと泣いて、頑なに出生前の親子鑑定を拒んだ。 あの時は、妊婦だから神経質になっているだけだと思っていた。 「周りに防犯カメラがあるでしょう。自分で確認すればいい」 蒼一郎は冷笑し、嫌悪もあらわな顔をした。 「防犯カメラ?本邸の裏庭の防犯カメラはとっくに壊れてる。お前がそこまで計算してやったこと、俺が気づかないとでも思ったか」 私はもう何も言う気になれなかった。 「鮎美が妊娠してることに嫉妬して、俺が彼女を愛してることに嫉妬して! だからお前は、俺の子を殺そうとしたんだ!」 物音を聞きつけ、優磨が駆け込んできた。 私が地面に座り込み、手首から血を流しているのを見ると、すぐに駆け寄って支え起こした。 蒼一郎は優磨を見ると、目の奥の怒りがさらに燃え上がった。 「ほう、飼い犬が主人をかばうか。 お前ら、下劣な男女め。前々からぐるになって、俺の財産を奪い、命まで狙おうとしてたんじゃないのか!」 彼は優磨を指さした。 「お前がこの街で生きていけないようにしてやる!」 優磨は表情ひとつ変えず彼を見据えると、私を自分の背後にかばい、傷ついた手首を守った。 「社長、奥様は怪我をしています。手当てが必要です」 「死にはしないだろう!」 蒼一郎が怒鳴った。 執事の方へ向き直った。 「歌音を、離れの物置に閉じ込めておけ! こいつのクレジットカードは全部止めろ。俺の許可なしに、誰も水や食事を運ぶな! 鮎美に土下座して謝るまで、そのままにしておけ!」 執事は困惑の色を浮かべながらも、警備員を2人呼び寄せた。 私は優磨の支えを振りほどき、自力で立ち上がった。 手首から滴る血が、指先を伝って落ちていく。 鮎美を抱えて足早に去っていく蒼一郎の後ろ姿を見つめた。 この3年間の結婚生活は、あの平手打ちで、ついに完全に腐りきってしまった。 第5話 離れの物置には、暖房がなかった。 晩秋の夜風が、割れた窓から吹き込んでくる。 私は熱を出していた。高熱で目の前が真っ暗になり、右の手首は腫れ上がって動かすたびに痛んだ。 優磨は蒼一郎の部下に外で足止めされていた。 私はカビ臭い壁にもたれかかった。 雪の中で跪いてのプロポーズ、病床での重い誓い。そんな記憶が、次々と脳裏をよぎっていく。 真夜中、物置の扉が外から押し開けられた。 蒼一郎が入ってきて、私の前に立った。 「……少しは考え直したか」 彼は打ち身用の塗り薬を私の足元に投げた。 「お前が大人しく折れるなら、これを使ってもいい」 私はそれを拾いもせず、目だけを上げて彼を見た。 「鮎美さんのお腹の子は、助かったの?」 蒼一郎は冷たく鼻を鳴らした。 「お前のせいで不正出血を起こした。だが医者は、ちゃんと安静にしていれば問題ないと言っている。 歌音、俺の我慢にも限度がある」 彼は2通の書類を取り出し、テーブルに投げた。 「ひとつは離婚届、もうひとつは株式譲渡契約書だ。 祖父からお前に譲られた15%の株式を、鮎美のお腹の子への償いとして譲れ。 そうすれば、お前とボディーガードの間には雇用関係しかなかったと、外に対して説明してやる。 離婚届は俺が預かっておく。お前は引き続き緑川の妻の肩書を保ったまま、邸宅に住み続けていい。 これが、お前に残してやれる最後の体面だ」 私はテーブルの上の書類を見つめた。 なるほど、これが彼の本当の狙いだったのか。 私の評判を貶め、罪を認めるよう追い詰めたのも、全部この15%の株式のためだった。 彼の隠し子が将来困らないよう、今から道を整えるために…… 熱のせいで視界がぼやけていた。 朦朧とする意識の中で、雪の夜に跪いてプロポーズしてきた、あの男の姿がまた見えた気がした。 あの時彼は言った。 「歌音、俺と結婚してくれ。俺の世界のすべてを、お前に捧げる」 今、彼は私に株式譲渡契約書への署名を迫り、自らの手で私に残された最後のものまで奪い取り、別の女と築く未来のために使おうとしている。 私は笑い出した。 蒼一郎が眉をひそめた。 「何がおかしい」 「社長も、ずいぶんご苦労なさったものね。おかしくて笑えてきたわ」 私は息を切らしながら、かすれた声で続けた。 「たった15%の株式のために、自分の妻の潔白すら踏みにじって陥れようとするなんてね」 蒼一郎の顔色が変わった。しゃがみ込み、私の額に手を伸ばそうとする。 「歌音、もう意地を張るな。 お前が大人しく言うことを聞けば、俺もまた前みたいに優しくしてやる。 鮎美とのことは、ほんの出来心だった。子供が生まれたら、金を渡して出て行ってもらう。 お前は、やっぱり俺の唯一の妻だ」 彼の指先が私に触れる寸前、私は顔を背けてそれを避けた。 「触らないで。汚らわしい」 蒼一郎の手が宙で止まった。眼差しが暗く沈んだ。 ちょうどその時、彼のスマホが鳴った。 病院の看護師からだった。 「緑川社長、安井さんがずっと泣いていて、雷が怖いとおっしゃっています。 早く戻っていただけますか」 蒼一郎はすぐに立ち上がった。 「すぐ行く」 彼は冷たい一瞥を私に向けた。 「せっかく俺が顔を立ててやろうとしてるのに、それを無駄にするなら、ここで凍えていればいい。 明日の朝、署名した書類を取りに来る。 署名しないなら、その得体の知れない男を連れて、一文無しでこの街から出て行け」 扉が、再び重く閉まった。 物置は、静けさに包まれた。 私は這うようにしてテーブルへ近づき、ペンを手に取った。 第6話 翌朝早く、執事が物置の扉を開けた。 私はテーブルの前に座ったまま、署名を済ませた2通の書類を彼の前へと押しやった。 「蒼一郎に渡してちょうだい」 執事は書類の署名を見て、痛ましそうに深くため息をついた。 「奥様、そこまでなさらなくても…… 少しだけ折れてくだされば、この暮らしもまだ続けられますのに」 私は壁に手をついて立ち上がると、その言葉には答えず、そのまま外へ歩き出した。 優磨がSUVにもたれかかって待っていた。その目の下には、うっすらと隈ができている。 彼が車のドアを開けた。 「奥様、どちらへ向かわれますか」 「あの家へ。荷物をまとめるわ」 車は高台の邸宅へと滑り込んだ。 私は2階へ上がり、主寝室に入った。 荷物は、実のところほとんどなかった。 クローゼットに掛かっているのは、どれも蒼一郎が鮎美の好みに合わせて買ってきたワンピースばかり。 私はそれらに目もくれなかった。 身分証明書と、普段着を数着。それから、画面の割れた古いスマホだけをスーツケースに入れた。 ドレッサーの上には、蒼一郎がプロポーズのときに買ってくれたピンクダイヤの指輪が置かれていた。 私はそれを手に取り、利用限度額のないブラックカードと一緒に、テーブルの中央へきちんと並べた。 最後に、スマートロックのシステムから、自分の登録情報をすべて削除した。 スーツケースを引いて階段を下りると、優磨がすぐさまそれを受け取り、トランクに積み込んだ。 「奥様、社長からは、あなたをこの街から一歩も出すなと命じられていますが」 私は彼を真っ直ぐに見つめた。 「あなた、本当に蒼一郎が雇ったボディーガードなの?それとも、うちの祖父が差し向けた人?」 優磨が一瞬だけ固まり、深く頭を下げた。 「……いつからお気づきでしたか」 「あなたが現れた初日からよ。手首の刺青で分かったわ」 それは、母方の祖父に仕える護衛だけが持つ、特別な印だった。 3年前、私は蒼一郎のために母方の実家と決別した。祖父は、もう孫娘ではないと冷たく私を突き放した。 けれど、それでも結局は心配せずにいられなかったのだと、私には痛いほど分かった。 蒼一郎が警備会社で人員を選んだとき、彼が選んだのは、まさに祖父の息のかかった者だったのだ。 「お祖父様は、お変わりない?」 「はい、ご壮健です。ただ、ずっとお嬢様のことを案じておられました」 優磨は後部座席のドアを開けた。 「お嬢様、帰りましょう」 私は車に乗り込んだ。 「空港へ向かって」 車が発進し、邸宅街を後にする。 私は新しいスマホを取り出し、記憶に刻まれたあの番号にかけた。 呼び出し音がひとつ鳴るなり、すぐに応答があった。 「ようやく、意地を張るのをやめたか」 「お祖父様。やっぱり私が間違っていた。 蒼一郎は、もうほかの人に譲ったわ」 電話の向こうは、しばらく深い沈黙に包まれていた。やがて、短いため息がひとつ漏れる。 「帰っておいで。相馬家のプライベートジェットは、もう空港で待たせてある。 お前の右手を診てもらうために、海外でも指折りの手の専門医を呼んだ。まだ治る見込みはあるそうだ」 私は電話を切り、古いスマホを海へ投げ捨てた。 …… 同じ頃、病院のVIP病室では、蒼一郎が卵雑炊を匙ですくい、鮎美に食べさせていた。 秘書が2通の書類を手に、血相を変えて飛び込んでくる。 「社長、奥様が署名されました」 蒼一郎の手が止まる。書類を受け取り、最後のページをめくった。 そこにあるかすれた署名を見て、彼は冷笑を浮かべ、サイドテーブルに書類を放った。 「分かってたさ。あいつが一晩も持たないってな。 サインしたなら結構だ。鮎美が無事に子供を産んだら、また邸宅に戻してやればいい」 秘書は一瞬ためらってから、恐る恐る口を開いた。 「ですが社長……奥様は……あのボディーガードと一緒に出て行かれました」 蒼一郎の表情が、さっと険しくなった。 「どこへ行った」 「分かりません。セキュリティシステムから奥様の登録情報はすでに削除されていて、邸宅からは私物もほとんど持ち出されていません」 鮎美がベッドの背もたれに寄りかかり、甘えた声で言う。 「蒼一郎さん、きっと歌音さん、私に腹を立てて、あのボディーガードと気晴らしに出かけただけだよ。 気が済んだら、自然と戻ってくるってば」 蒼一郎の眉間がふっと緩み、再び匙を手に取った。 「好きに騒がせておけ。 歌音は俺のためなら命すら投げ出すほど、俺を愛してる女だ。俺のそばを離れて、他にどこへ行くっていうんだ。 3日もすれば、泣きながら迎えに来てくれとすがりついてくるさ」 飛行機が滑走路で勢いよく加速し、その勢いで私の背中が座席へと押し付けられた。 窓の外に、どんどん小さくなっていく街を見つめた。 蒼一郎、私はもう、あなたなんていらない。

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