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灰燼に咲く紫の旋律
神浜(かみはま)女子刑務所。 看守は結城澪(ゆうき みお)に小さな手荷物を手渡すと、重い鉄の扉を開けて彼女を送り出した。 「二度と同じ過ちを繰り返すんじゃないぞ。これからは真っ当に生きなさい」 澪は荷物をきつく握りしめ、すっかり荒れ果てた自分の両手を見つめていた。その顔から表情は失われ、瞳は虚ろだった。 自分は一体、どんな過ちを犯したというのか――彼女には、到底理解できなかった。 呆然と立ち尽くしていると、視界に一台の黒い高級車が滑り込み、彼女の前で停まった。 ドアを開けて降りてきた御堂湊(みどう みなと)が、骨ばったしなやかな手を差し出し、彼女を車に乗せようとする。 だが、澪はその手を冷たく躱し、自ら後部座席に乗り込んだ。 湊は宙に浮いた手を引っ込めてドアを閉めると、深いため息をこぼした。 「今日、迎えに来たのは俺だけだ。 君の出所日が、ちょうど柚奈のチェロの発表会と重なってね。ご両親と兄さんはそっちに行っている」 澪はゆっくりと視線を上げ、彼の端正な横顔を見つめて問うた。 「……どうして、あなたは行かなかったの?」 「え?」 湊は一瞬、呆気に取られた。 澪は無表情のまま、淡々と同じ言葉を繰り返す。 「どうして行かなかったの?あなたも、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんな、桜井柚奈(さくらい ゆな)のことしか愛してないじゃない」 湊は途端に顔を曇らせ、不快げに眉をひそめた。 「何を馬鹿なことを言っているんだ 俺たちが一番愛しているのは、当然君だよ。君が柚奈にあんな酷いことさえしなければ、俺たちだって、頭を冷やさせるために君を刑務所へ送ったりなんてしなかった」
チャプター (1)
第1話
神浜(かみはま)女子刑務所。
看守は結城澪(ゆうき みお)に小さな手荷物を手渡すと、重い鉄の扉を開けて彼女を送り出した。
「二度と同じ過ちを繰り返すんじゃないぞ。これからは真っ当に生きなさい」
澪は荷物をきつく握りしめ、すっかり荒れ果てた自分の両手を見つめていた。その顔から表情は失われ、瞳は虚ろだった。
自分は一体、どんな過ちを犯したというのか――彼女には、到底理解できなかった。
呆然と立ち尽くしていると、視界に一台の黒い高級車が滑り込み、彼女の前で停まった。
ドアを開けて降りてきた御堂湊(みどう みなと)が、骨ばったしなやかな手を差し出し、彼女を車に乗せようとする。
だが、澪はその手を冷たく躱し、自ら後部座席に乗り込んだ。
湊は宙に浮いた手を引っ込めてドアを閉めると、深いため息をこぼした。
「今日、迎えに来たのは俺だけだ。
君の出所日が、ちょうど柚奈のチェロの発表会と重なってね。ご両親と兄さんはそっちに行っている」
澪はゆっくりと視線を上げ、彼の端正な横顔を見つめて問うた。
「……どうして、あなたは行かなかったの?」
「え?」
湊は一瞬、呆気に取られた。
澪は無表情のまま、淡々と同じ言葉を繰り返す。
「どうして行かなかったの?あなたも、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんな、桜井柚奈(さくらい ゆな)のことしか愛してないじゃない」
湊は途端に顔を曇らせ、不快げに眉をひそめた。
「何を馬鹿なことを言っているんだ
俺たちが一番愛しているのは、当然君だよ。君が柚奈にあんな酷いことさえしなければ、俺たちだって、頭を冷やさせるために君を刑務所へ送ったりなんてしなかった」
第1話
その言葉を聞いた澪は、窓の外を飛ぶように流れていく景色を見つめながら、あまりの可笑しさに涙が出そうになった。
一番愛している?たしかに、昔はそうだったかもしれない。
幼い頃から、両親や兄の結城翔(ゆうき かける)、そして婚約者の湊に至るまで、皆が彼女を溺愛していた。
目に入れても痛くないほど大切に育てられ、彼女は間違いなく、この世で一番幸せなお姫様だった。
だが、不慮の事故で彼女が植物状態になってから、すべてが狂い始めた。
最初のうちこそ、彼らは毎日病室を訪れていた。澪は目を覚ませないものの意識はあり、彼らが涙ながらに語りかけてくるのをよく聞いていた。
しかし、いつからか「桜井柚奈」という名前が頻繁に耳に入るようになる。
後になって知ったことだが、彼らは悲しみと寂しさに耐えきれず、澪に少し面影の似た身代わりを見つけて心の拠り所にしていたのだ。
その身代わりの少女こそが、柚奈だった。
次第に彼らの口から柚奈の名前が出る回数が増えていき、澪は焦燥感に駆られ、必死の思いで目を覚まそうと藻掻いた。
そして奇跡的に意識を取り戻した時、皆は泣いて喜んでくれた。自分が目覚めれば、もう柚奈という身代わりは必要なくなる――澪はそう信じていた。
ところが、彼らは柚奈を手放そうとはしなかった。
両親は涙ながらに訴えた。
「柚奈はこれまで苦労ばかりしてきた。お前の代わりに、この2年間ずっと私たちに寄り添ってくれた恩人なのだ。だから、このまま家に置いて、幸せにしてあげたいんだ」
両親の涙に絆され、澪はしぶしぶ承諾した。
だが、両親も兄の翔も湊も、すでに澪自身よりはるかに強い関心と愛情を柚奈へ向けていることを、すぐに思い知ることになった。
しかも柚奈は決して見た目通りの大人しい娘などではなかった。裏では何度も澪を陥れたのだ。
澪に平手打ちされ、階段から突き落とされたと泣きつき、皆はそれを鵜呑みにした。
さらに柚奈が交通事故に遭った時さえ、澪が車で撥ねたのだと嘘をついた。
両親と翔、そして湊は激怒し、「澪の身勝手さは目に余る」と吐き捨てた。
だからこそ、両親と兄、そして婚約者が結託し、彼女を刑務所へと送り込んだのだ。あそこで苦労を味わわせ、我儘なお嬢様気質を叩き直して更生させるという名目で。
地獄のような3年間を刑務所で過ごさせた挙句、湊は「一番愛しているのは君だ」と抜かすのか?
澪が目尻を赤く染めているのを見て、湊は胸を締め付けられたように口を開きかけた。
その時、間の悪い着信音が車内に響き渡る。
電話に出ると、柚奈の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。
「湊、私の初めてのチェロの演奏会、どうして来てくれないの?まだ来てないの、湊だけだよ」
湊の目元は一瞬で和らぎ、声色は甘く溶けた。
「いい子だから待ってて。今日は澪を迎えに行かなきゃならないんだ」
「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に連れてきてよ!」
湊が押し黙ると、彼女はさらに媚びるような声を出した。
「もう、みんなお姉ちゃんがまた私に酷いことするんじゃないかって心配してるのは分かってる。でも、私信じてるの。お姉ちゃんはもうそんなことしないって。だから一緒に来てよ!私にとって初めての演奏会なんだから、湊には絶対見てほしいの」
湊は思わず破顔した。
「分かった、すぐに向かうよ」
電話を切った後、彼は運転手に行き先を変更させた。
コンサートホールに到着すると、彼は釘を刺すように言った。
「いいか澪、柚奈は優しくて純粋で、体も弱い。もう二度とあの子を傷つけないでくれよ」
澪は彼に手を引かれるがまま歩きながら、その言葉を右から左へ聞き流した。
優しい?それは彼らの前でだけの話だろう。
目の前に広がる円形のホールは、千人以上を収容できる巨大なものだった。まばゆいスポットライトが舞台の中央を照らし出し、思わず目を奪われる。
そこは、かつて彼女が立ちたいと夢見た場所だった。
かつて澪もチェロを学んでいた。彼女には類まれな才能があり、世界的なチェロ奏者になるのが夢だった。
しかし今となっては、すべてが叶わぬ幻となった。
前科者という烙印は彼女の人生に深く焼き付き、決して剥がすことはできない。
舞台裏の控室では、母の結城百合子(ゆうき ゆりこ)が真剣な眼差しで柚奈のドレスの裾を直し、兄の翔が彼女の後ろからネックレスを着け、父の結城雅臣(ゆうき まさおみ)は満面の笑みで彼らを見守っていた。
家族4人、絵に描いたような和やかな光景。
――だが本来、彼らは澪の家族であるはずなのに。
「今回は、チェロ界の国宝級とも言われる東条先生もいらっしゃるって聞いたの。先生、ずっと最後の弟子を探してるらしくて、選ばれたらいいなって。
でも、本当に先生に選ばれちゃったらどうしよう。先生と一緒に世界ツアーを回ることになるらしいから、そうなったらみんなとなかなか会えなくなっちゃう」
それを聞くと、湊はすぐさま柚奈のもとに歩み寄り、こぼれ落ちた髪を優しく耳にかけた。
「馬鹿だな。選ばれたら、迷わず行くべきだ。こんな機会は滅多にない。東条先生は業界でも絶対的な権威だし、先生の弟子になれば、君は間違いなく世界トップクラスのチェリストになれる。俺たちのことなら、毎週君に会いに行けば済む話だ」
柚奈は嬉しそうに微笑んだ。何かを言おうとした瞬間、視界の隅に澪の姿を捉えるや否や、慌てて駆け寄って彼女の腕にべったりと抱きついた。
「お姉ちゃん、おかえりなさい!」
澪は嫌悪感を覚えながら自分の腕を引き抜き、適当に相槌を打った。
結城家の両親と翔は彼女を見てあからさまに眉をひそめ、冷たく言い放った。
「帰ってきたからには、そのひねくれた性根を改めなさい。もう二度と柚奈を目の敵にするんじゃないぞ」
澪が口を開く前に、スタッフが呼びに来た。
「桜井様、出番です」
柚奈が舞台へ向かうと、4人は連れ立って客席へ向かった。舞台上でスポットライトを浴びてキラキラと輝く柚奈を見つめる彼らの瞳は、深い称賛と愛情に満ちていた。
公演が終わり、会場が熱気に包まれたまま散会する頃。澪が椅子を片付けようと身をかがめた瞬間、ゆったりとした襟元から、無残な青紫色のあざが覗いた。
かつて白かった肌は、まともな皮膚がほとんど残っていないほど傷だらけだった。
湊は目を見開き、彼女の手を掴んで震える声で言った。
「澪、その傷は……一体どうしたんだ?」
結城家の面々もそれに気付き、顔色を一変させた。
どうしたのか、だと?
刑務所に入ってからというもの、澪は毎日のように殴る蹴るのリンチを受け、ろくに食事も睡眠もとれなかった。そして、そのすべての元凶は柚奈が看守に放った「姉をよろしくお願いしますね」という一言だったのだ。
澪の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。湊が彼女の服をめくって傷を確認しようとした瞬間、少し離れた場所から柚奈の痛がる声が聞こえた。
「痛っ!」
彼女は足首を押さえ、小さな顔を苦痛に歪めていた。
一瞬にして、雅臣、百合子、翔、そして湊の全員が我先にと彼女の前に駆け寄った。
湊が彼女をふわりと横抱きにし、結城家の面々も総出で彼女を囲むようにして足早に立ち去っていく。
澪はその光景を冷めた目で見送り、再び皮肉げに唇を吊り上げた。
一人で帰路に就こうとした時、突然、行く手を遮る人物が現れた。
彼女は足を止め、その顔を見て全身を硬直させた。
「と……東条先生?」
東条は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「結城澪さん、私のことを覚えていてくれたとは光栄だ。それなら、3年前に私が君を弟子に迎えたいと言ったことも覚えているだろう。あの時、君は家族と離れたくないと断ったが……今、もう一度だけ聞こう。私と一緒に来る気はあるかい?」
「東条先生、先生は柚奈の演奏を見にいらしたのでは?それに、今の私は前科者で……」
澪は気まずそうに、どう答えればいいか分からずにいた。
「今日、君が出所すると知って、わざわざ君に会うためだけにここへ来たんだよ。
私が見込んでいるのは君の才能だけだ。過去や背景など一切気にしない。君のチェロの才能を、こんな所で腐らせるわけにはいかない。必ず君を国際的な舞台に立たせ、最も輝く星にしてみせる。もし今の身分が足枷になるなら、戸籍を変える手配だってしよう」
彼の力強い言葉を聞き、死んでいた彼女の瞳に次第にまばゆい光が蘇ってきた。
一瞬の沈黙の後、澪は決意を込めて答えた。
「はい!先生について行きます!」
第2話
東条光(とうじょう ひかる)は満足そうに頷き、彼女の肩を軽く叩いた。
「すべてはこちらで手配しておく。半月後、予定通りに出発しよう」
光に別れを告げた後、澪の枯れ果てた心に、再び生きる希望の火が灯った。
自宅の玄関に着き、無意識に自分の誕生日を暗証番号として入力した。
――ピーッ。エラー音が鳴り響く。
その無機質な音に、彼女はハッと我に返った。たった3年家を空けただけで、暗証番号すら変えられてしまったのか。
彼らが柚奈を異常なほど溺愛していることを思い出し、試しに柚奈の誕生日を入力してみる。
カチャッという音がして、案の定ドアのロックが解除された。
澪は胸に込み上げる苦い思いを無理やり押し殺し、自分の部屋へと向かった。
しかしドアを開けると、部屋の中はすっかり様変わりしていた。
かつてはロマンチックなプリンセス風のインテリアで統一されていた自室が、メルヘンチックなペットルームに改造されていたのだ。
見知らぬ人間が入ってきたのを見た一匹のゴールデンレトリバーが、狂ったように吠え立て、鋭い牙を剥き出して飛びかかってきた。
咄嗟に身をかわさなければ、間違いなく噛まれていただろう。
執拗に飛びかかってくる大型犬を見て、澪の顔面は蒼白になり、呼吸は次第にゼイゼイと荒くなった。獣の毛が宙を舞い、肌に触れた途端、全身に猛烈な痒みが走る。
澪は犬が怖いうえ、犬の毛にアレルギーがあったのだ。
澪は激しく喘ぎ、生理的な涙で視界を滲ませた。足元をふらつかせながら、記憶を頼りに必死で救急箱を探す。
「アレルギーの薬、薬……ッ」
だが、かつて救急箱が置かれていた場所には不釣り合いなクリスタルの置物が飾られており、どこを探しても薬の影すらなかった。
大型犬は彼女が怯えているのを見てさらに興奮し、飛びかかって彼女の足首に噛みついた。彼女は恐怖のあまり無我夢中で暴れた拍子に、誤って犬を蹴り飛ばしてしまう。犬はテーブルの脚にぶつかり、床でキャンキャンと痛ましげな声を上げた。
ちょうどその時、両親、翔、柚奈、そして湊が帰宅し、この惨状を目撃した。
それを見た柚奈は一瞬で涙ぐみ、慌てて駆け寄ると犬を抱きしめ、泣きながら問い詰めた。
「お姉ちゃん、どうして私の犬にひどいことするの!?」
父の瞳にありありと失望の色が浮かび、氷のように冷たい声で叱りつけた。
「少しは反省したかと思っていたが。柚奈や私たちがいないのをいいことに、犬に八つ当たりするとは!言葉も喋れない犬が、一体お前に何をしたというんだ!」
澪のアナフィラキシー症状は限界に達し、気道が腫れ上がって呼吸すらままならなかった。視界は白く霞み、かすかに息が漏れるような声で必死に訴える。
「薬……くすり……」
宙を掻く手は虚しく震え、体全体が今にも崩れ落ちそうだった。
翔は彼女の苦しげな様子を無視し、冷たい表情で苛立たしげに吐き捨てた。
「いい加減にしろよ、澪。三文芝居はやめろ。どんなに苦しそうなフリをしたって、お前が柚奈の飼い犬を痛めつけた事実は変わらないんだぞ!」
湊も冷え切った眼差しで彼女を見下ろし、心底見損なったというように首を振った。「澪、どうして君はそこまで柚奈を目の敵にするんだ」
言い捨てるや否や、一行は犬を抱え、柚奈を労わりながら慌ただしく動物病院へと去っていった。
息がますますできなくなり、視界がブラックアウトしていく。澪がいよいよ死を覚悟したその時、床に転がっていた薬の小瓶に指先が触れた。
彼女は蜘蛛の糸にすがりつくように慌てて蓋を開け、薬を口の中に放り込んだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく気道が開き、息を吹き返した。
彼女は薬瓶を固く握りしめた。あんな窒息の苦しみは、もう二度とご免だった。
初めて犬アレルギーの発作を起こした日のことを思い出す。両親も、翔も、そして湊も、血の気を失って焦り狂い、片時もそばを離れずに看病してくれた。それ以来、彼女を犬に一切近づけさせず、まるで壊れやすいガラス細工のように守ってくれた。
万が一のためにと、いつでも使えるようにアレルギーの薬を常備してくれていたというのに。
だが今は、彼女が重度の犬アレルギーであることすら忘れ去り、あまつさえ仮病を使っていると罵った。
澪の胸に鈍い痛みが走る。あのメルヘンチックに飾り立てられたペットルームを見ていると、全身の血が凍りつくようだった。
自分がどの部屋を使えばいいのか途方に暮れていると、通りかかった家政婦が不機嫌そうに彼女を上から下まで値踏みし、容赦なく言い放った。
「お嬢様、その部屋は現在、柚奈様の愛犬ラッキーちゃんの個室となっております。柚奈様はラッキーちゃんを我が子のように可愛がっておられますから、お嬢様はラッキーちゃんに場所を譲って、客室でお休みください」
今のこの家で、自分の地位は犬以下らしい!
彼女は思わず乾いた笑いをこぼし、薄汚れた布の鞄を握りしめると、一切反論することなく客室に入った。
あの部屋はもう自分のものではないし、これっぽっちも未練はなかった。
両親、翔、そして湊は夜が更けても誰一人として帰ってこなかったが、澪の心は凪いだままだった。
簡単にシャワーを浴び、自分で全身のあざに薬を塗る。昔使っていたスマートフォンはすっかり型落ちしていたが、操作に問題はない。
LINEのタイムラインを開くと、柚奈の投稿が更新されており、動物病院でラッキーのベッドを囲む4人の写真が添えられていた。
誰もが、悲痛な顔をしていた。
澪はしばらくその画面を無感情に見つめた後、携帯を置いて目を閉じ、眠りについた。
翌朝、リビングへ降りていくと、結城家の3人と湊がソファに座って和やかに談笑していた。
彼女の姿を認めるや否や、柚奈が慌てて駆け寄り、強引に腕を引いてソファに座らせた。
「お姉ちゃん、無事に帰ってきたお祝いに、パーティーを開きたいの。今みんなでプランを練ってたんだけど、お姉ちゃんも一緒に話そ?
そうそう、さっきどこまで話してたっけ?」
翔は忌々しそうに眉をひそめて澪を一瞥し、恨み言のように吐き捨てた。
「柚奈、お前はお人好しすぎる。こいつに昨日あんな目に遭わされたのに、復帰祝いのパーティーを開いてやる義理なんてないぞ!」
両親も冷ややかな顔で黙って頷いた。湊は何か言いたげに口を開きかけたが、結局なにも言わなかった。
柚奈は密かに勝ち誇ったように唇を吊り上げると、百合子の懐に顔を埋めて甘え声を上げた。
「もう、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、湊も、お姉ちゃんを悪く言わないでよ。きっとわざとじゃないんだから。それに、私も昨日の事は気にしてないし、ラッキーも大したことなかったし。今回だけは大目に見てあげてよ」
百合子は彼女の愛らしい仕草に目を細めて笑い、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
第3話
このまるで絵に描いたような「本物の家族」の光景を見せつけられ、澪はただただ滑稽に感じた。
本来なら自分の家族であり婚約者であるはずなのに、赤の他人である柚奈が彼らを宥め、自分を許すよう説得しなければならないだなんて。
4人は甘やかすように笑い合い、百合子は柚奈の頭を撫でて、仕方なさそうに言った。
「分かったわ。柚奈に免じて、一度だけ許してあげる」
柚奈は満面の笑みを浮かべ、わざとらしく澪に視線を送った。
「今回はお姉ちゃんが帰ってきて最初のパーティーだもん、盛大にやらなくちゃね!」
翔が即座に同調した。
「そうだな。澪はバラが一番好きだったよな。今すぐ3万本のバラを空輸で取り寄せて、パーティー会場を埋め尽くそう」
百合子も目を細めて笑った。
「澪は抹茶ケーキが一番好きよね。お母さんが腕によりをかけて手作りしてあげるわ」
「最近のオークションに、素晴らしい純白のドレスが出品されたんだ。澪は白が好きだから、落札させよう」
湊はそう言いながら、タブレットでドレスの写真と詳細を呼び出し、澪の前に置いた。
4人が口々に意見を出し合い、パーティーのプランをすっかり決めてしまった後で、ようやく澪が終始沈黙していることに気がついた。
「澪、パーティーのことで何か要望はあるかい?」
湊が心配そうに澪を見た。
澪はたまらず冷笑を漏らし、氷のように冷めた瞳で皆を見渡した。
「要望?」
「私はバラじゃなくてチューリップが好き。抹茶はアレルギーで食べられないし、服は白じゃなくて青が好きなの。
バラ、抹茶ケーキ、白。これって全部、柚奈の好物よね?そんなパーティーに、私から何の意見が出ると思ってるの?」
その淡々とした言葉は、見えない平手打ちとなって結城家の3人と湊の頬を容赦なく張り飛ばした。
両親は気まずそうに顔を見合わせ、慌てて取り繕った。
「ごめんなさいね、澪。うっかり柚奈とごっちゃになっちゃったみたい。悪気はなかったのよ」
しかし翔は顔を曇らせ、苛立たしげに声を荒らげた。
「澪、なんだその態度は!俺たちはわざと間違えたわけじゃない。そんな重箱の隅をつつくような真似をして何が楽しいんだ!」
湊は困ったように眉をひそめ、子供をあやすような穏やかな声でなだめた。
「澪、俺たちが悪かった。このプランが気に入らないなら、全部君の好きなものに変更しよう。それでいいかい?」
「必要ないわ」
澪は氷のような言葉を投げ捨て、一切振り返ることなく2階の自室へと引き上げた。
冷然と立ち去る彼女の後ろ姿を見送りながら、結城家の3人と湊の脳裏に、不意に同じ疑念がよぎった。
――澪は……刑務所に入って、すっかり人が変わってしまった。
翌日、パーティー会場へ向かうため、玄関先に数台の送迎車が横付けされた。
しかし柚奈が一足先に澪の腕に絡みついてきた。
「お姉ちゃん、久しぶりなんだから、一緒の車で会場に行こうよ!お姉ちゃんと仲良くしたいし、車の中で姉妹のナイショ話もしたいな」
澪が拒絶する間もなく、両親はこの「微笑ましい姉妹の情景」に満足そうに目を細めた。
「仲良くするのが一番だ。よし、私たちは別の車で行くから、2人でゆっくり積もる話をするといい」
彼らは澪と柚奈を同じ車に押し込むと、朗らかな笑顔で別の車に乗り込んでいった。
澪は車のドアに寄りかかり、隣で猫撫で声を出している人間を徹底的に無視した。
だが、しばらく走っていると、窓の外の景色がどんどん人気のない寂れた風景に変わっていく。
異変に気付いた澪は、険しい顔で柚奈を睨みつけた。
「ここは会場へ向かう道じゃない。私をどこへ連れて行く気!」
柚奈は答えず、相変わらず無邪気な笑みを浮かべたまま、パンッと手を叩いた。
すると前の運転席にいた男が突然車を急停車させ、怪しげなスプレー缶を取り出すと、後部座席の澪に向かって中身を噴射した。
奇妙に甘ったるい化学薬品の匂いが鼻腔を突き抜け、澪は急速に視界がぼやけていくのを感じた。そして、そのまま深い泥のような暗闇へと引きずり込まれ、意識を手放した。
――再び意識を取り戻した時、澪は手足を太いロープで縛られ、柚奈と背中合わせの状態で拘束されていることに気付いた。
カウントダウンを続ける時限爆弾が、それぞれの体に巻き付けられていた。
周囲は埃っぽく、がらんとして人気のない廃工場だった。
「柚奈お嬢様、結城家の3人と御堂さんには連絡を入れました。もうすぐ到着するはずです。他に何かご命令はありますか?」
覆面を被った拉致実行犯が携帯電話を弄りながら、柚奈に媚びへつらうように尋ねた。
推測するまでもなく、すべては柚奈が仕組んだ意図的な拉致だと理解した。
澪はロープから抜け出そうと力一杯もがきながら、氷のような声で尋ねた。
「柚奈!一体何のつもり!」
柚奈はクスクスと喉の奥で笑った。
「何のつもりかって?決まってるじゃない、お姉ちゃんをいたぶるのよ。タツ、この女を殴って。いい?服で隠れて見えないところを狙うのよ」
タツと呼ばれた男の拳が澪の腹部にめり込み、鈍い音が響く。その音を聞きながら、柚奈はひどく悦に入った様子で笑った。
「澪、刑務所から帰ってきたくらいで、自分の居場所が取り戻せるなんて勘違いしないでね。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも、湊も……みんなの心の中には、もう私しかいないんだから!
信じられないっていうなら、今からここで検証してみる?」
澪は歯を食いしばって激痛に耐え、顔色は死人のように蒼白だったが、その心の奥底には、まだ抱くべきではない僅かな期待が残っていた。
次の瞬間、複数の慌ただしい足音が遠くから近づいてくるのが聞こえ、男は頃合いを見計らって、足早に裏口から逃げ出した。
結城家の3人と湊が血相を変えて駆け込んできた。全員、髪や衣服がひどく乱れており、肩で大きく息を切らしている。
澪と柚奈が爆弾を巻き付けられた無惨な姿を見るなり、4人は胸を締めつけられたような表情を浮かべ、その瞳は心配そうな色に染まった。
「澪!柚奈!大丈夫か!」
湊は悲痛な面持ちで叫んだが、2人の体にそれぞれ巻き付けられた爆弾を前に、どう手をつければいいのか分からず、その場に立ち尽くした。
無慈悲な電子音を響かせてカウントダウンを続けるタイマーに、全員が息を呑んで凍りついた。
柚奈は大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、いじらしく自己犠牲を装って叫んだ。「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、湊!爆弾のタイマーがもうすぐゼロになっちゃう。一人しか助けられないよ!私は死んでもいいから、どうかお姉ちゃんを先に助けてあげて!」
4人は蒼白な顔を見合わせ、互いの瞳に浮かぶ強烈な葛藤と焦燥に苛まれた。
この瞬間、澪と柚奈は同時に、生を渇望し、縋るような眼差しを彼らに向けた。
第4話
澪は表面上は平静を保っていたが、内心では不安を拭えなかった。
彼らは、本物の家族である私を選んでくれるだろうか?
だが次の瞬間、澪は4人の瞳に浮かんだ、はっきりとした申し訳なさを見てしまった。
「澪……柚奈は体が弱くて臆病だから、私たちは先に柚奈を助け出す!もう少しだけ待っていてくれ。柚奈を安全な場所へ逃がしたら、すぐにお前を助けに戻ってくるから!」
父が苦渋の決断を下すように叫び、他の者たちも黙ってそれに同意した。
彼らは澪の悲痛な視線から逃げるように顔を伏せ、柚奈の体に巻き付いたロープと配線を必死に解き始めた。
澪の心は一瞬にして谷底へと突き落とされ、絶望の涙が後から後から溢れ出し、どうやっても止めることができなかった。
こうなる結末は初めから分かりきっていたはずなのに、どうして一縷の望みなど抱いてしまったのだろう。
柚奈の拘束が解かれるや否や、結城家の3人と湊は彼女を抱きかかえ、一目散に外へ飛び出していった。澪の瞳には、彼らの冷酷な背中だけが焼き付いた。
工場の外では、柚奈が泣きじゃくりながら湊の胸に顔を埋め、両手で父母の手をしっかりと握りしめて離さなかった。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、湊……っ、すごく怖かった。私、本当に死んでないの?本当に助かったの?」
4人は口々に彼女を宥めすかし、愛おしそうに涙を拭ってやった。工場に取り残された澪の体に、今まさに爆発しようとしている時限爆弾が巻き付けられていることなど、もはや誰の頭からも綺麗に抜け落ちているようだった。
ピッ、ピッ、ピッ。
死神の足音のような電子音のカウントダウンは無情にも続いている。彼女は歯を食いしばり、恐怖をねじ伏せて、自力で拘束から抜け出す方法を探るしかなかった。
どれほど死に物狂いでもがいただろうか。全身の皮膚が擦り切れ、血まみれになりながらも、ありとあらゆる手段を尽くし、ようやくロープの結び目を解くことに成功した。
爆発まで、残り十秒。澪は二度と振り返ることなく、これまでにないほどの速さで工場の出口へ駆け出した。
――ズドォォォン!!
鼓膜を破るような轟音と共に凄まじい爆発が起こり、その凶悪な熱風と爆風の余波が背後から彼女を襲い、澪は地面に叩きつけられて完全に気を失った。
再び意識を取り戻した時、澪は全身の骨が砕けたかのような激痛に襲われた。
だが、さらに彼女を絶望の淵へと突き落としたのは、自分が真っ暗な部屋に閉じ込められていると気付いたことだった。
――結城家の地下にある謹慎室に放り込まれていたのだ。
拉致され、爆発に巻き込まれたばかりだというのに、病院に運ぶどころか、なぜ自分をこんな場所に監禁するのか?
底知れぬ恐怖が全身を駆け巡り、目の前の暗闇が、刑務所の懲罰房の記憶と幾重にも重なった。
刑務所での3年間、想像を絶するリンチのほかに、果てしない罵声と暴力の嵐が吹き荒れていた。不衛生なドブネズミや害虫が彼女の体を這い回り、傷口の肉を食いちぎった。
冷たい水を何度も浴びせられ、意識をはっきり保たされたまま苦しめられた。ほかにも、さまざまな手段で絶え間なく痛めつけられていた。
「許して……叩かないで……っ」
澪は泣き叫び、頭を抱えて部屋の隅にうずくまった。もはやトラウマと現実の境界線すら曖昧になっていた。
刑務所での経験から、彼女は重度の閉所恐怖症を患っており、こんな密室に閉じ込められれば、とても耐えられない。
彼女は何度も何度も重いドアを叩き、息を切らし、声を枯らして叫んだ。
「出して!開けてよ!どうして私を閉じ込めるの!」
その時、分厚いドアの向こうから湊の冷酷な声が響いた。
「澪、わめき散らしても無駄だ。今回は3日間、そこから一歩も出すつもりはない。
少しは改心したのかと思っていたが、捕まった犯人がすべて自白したぞ。あの拉致と爆発事件は、お前が仕組んだ自作自演だったとな!
柚奈があの時の恐怖で高熱を出してうなされているのが分かっているのか!?これ以上反省しないなら、ただの謹慎じゃ済まさないぞ!」
その言葉を聞いて、澪は全身の血の気が引くほどの衝撃を受けた。あれはすべて柚奈が仕組んだ陰謀なのに、どうして自分が首謀者に仕立て上げられているのか。
彼女はドアに爪を立ててすがりつき、嗚咽を漏らした。
「私じゃない……私はそんなことしてない!お願い、私、閉所恐怖症なの……ここから出して……っ」
湊は表情を曇らせた。
「昔は閉所恐怖症なんて微塵もなかったじゃないか。どうして今になって都合よく発症するんだ?見え透いた嘘をつくのもいい加減にしろ」
「刑務所で……」
彼女が必死に弁解しようとした時、不意に柚奈の弱々しい声が聞こえてきた。
「お父さん、お母さん……やっぱりお姉ちゃんを出してあげようよ。きっと、わざとじゃなかったんだから」
百合子は彼女の手を優しく握り、深くため息をついた。
「柚奈は本当に優しすぎる。お人好しにも程があるわ」
翔も苛立ちを隠せない声で吐き捨てた。
「たかが謹慎くらいで甘やかすな。今回あいつのせいで、お前はこんな目に遭ったんだぞ。それでも許してやるなんて。これはあいつが受けるべき当然の報いだ!」
湊も彼女が地下室へ向かおうとするのを押し留め、部屋に戻るよう優しく諭した。
「柚奈、君は大人しくベッドで休んでなさい。今回怖い思いをさせてしまったお詫びに、君の欲しがってた宝石のネックレスを買ってあげるから」
結城家の両親と翔もそれに機嫌よく同調した。
「そういえばシャネルから新作のバッグが出たそうじゃないか……」
足音が次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。澪は発狂しそうな絶望の淵で、血まみれになった拳でドアを何度も何度も叩き続けた。
「出して……開けてよ……っ!」
声が枯れるまで叫び続け、極限の恐怖に体は震えた。手近にあった木の板や椅子を振り回してドアを壊そうとしたが、両手が血まみれになっても、分厚いドアはびくともしなかった。
最後にはすべての体力が尽き果て、泥のように気を失った。
――再び意識が浮上すると、病院特有のツンとした消毒液の匂いが鼻を突き、枕元でスマートフォンが執拗に振動していた。
全身の激痛に耐えながら辛うじて身を起こし、画面を見ると、発信者は光だった。
澪は這うようにして電話に出た。
「澪くん、君の航空券はすでに手配済みだ。メッセージは届いているかい?」
その言葉を聞いて、澪は慌ててメッセージアプリを開いた。発券完了の通知画面を見た瞬間、死に絶えていた心に一筋の希望の光が差し込んだ。
「届いてます……7日後の便ですね。必ず時間通りに行きます。本当に、ありがとうございます」
通話を切った直後、突然バンッ!と乱暴に病室のドアが開かれ、血相を変えた湊が踏み込んでくると、澪の手を強く掴んだ。
その声は凍りつくような冷たさを帯びていた。
「便だと?……一体どこへ行くつもりだ?」
第5話
澪は湊が突然現れるとは思っておらず一瞬身を強張らせたが、すぐさま携帯の画面をオフにし、極めて冷淡に嘘をついた。
「何でもないわ。あなたの聞き間違いよ
……また私を引きずり出して、謹慎室に監禁しに来たの?」
生気を失った虚ろな瞳で見つめ返され、湊は一瞬たじろいだが、すぐに不快げに眉をひそめた。
「澪、そんな棘のある言い方をするな。今回はそもそも君がしでかしたことだ。それなのに、柚奈が俺やご両親に泣いて懇願したから、特別に許して出したんだぞ。今回はこれで不問に付してやるが、二度と同じ過ちを繰り返すなよ」
彼は澪が握りしめている携帯を一瞥し、事務的に言葉を続けた。
「君はここで大人しく怪我を治してろ。柚奈はまだ入院中だから、俺は看病に戻る」
バタンと無情に病室のドアが閉まり、殺風景な部屋には再び澪一人だけが残された。
彼女の体は大小の傷と痣だらけで、唇はひび割れ、喉は焼け付くように乾いていたが、一杯の水を差し出してくれる身内すらいなかった。
傷の手当てに来た若い看護師が同情して水を飲ませてくれ、気を紛らわせるように世間話を始めた。
「上の階に入院してる女の子が、本当に幸せそうで羨ましいんですよ。まるで少女漫画のお姫様みたいで。
ただの発熱みたいなものなのに、すごいイケメンの彼氏さんが抱き抱えて連れてきたんです。
おまけに、ご両親は大金を出してVIP病棟のワンフロアを貸し切りにするし、お兄さんは夜通しで権威あるお医者さんを何人も引っ張ってきて『絶対に妹を死なせるな』って怒鳴り散らしてて……
ご家族も彼氏さんも、ベッドの周りに付きっきりで看病してて、一歩も離れないんですよ。あんなに溺愛されてるなんて、本当に幸せですよねぇ」
澪が一切の反応を示さないのを見て、看護師は不思議そうに尋ねた。
「そういえば患者さんのご家族は?一人でこんな大怪我をしてるのに、誰も面会に来ないなんて。冷たいご家族ですね」
澪はピタリと看護師を見つめ、自嘲気味にひきつった笑みを浮かべた。
「あなたが今羨ましがっていたのが、私の家族と、私の彼氏よ」
それを聞いた途端、看護師は氷結したように動きを止め、引き攣った顔で愛想笑いを浮かべた。
「……えっ、あ、そうなんですか?」
処置を終えるや否や、看護師は逃げるように猛スピードで病室から立ち去っていった。
病室は再び静寂を取り戻し、澪は何事もなかったかのように目を閉じて休息した。
その後の2日間、看護師たちが柚奈の破格のVIP待遇を羨む噂話をしていても、澪は聞こえないふりをしていた。
奇しくも柚奈と同じ日に退院することになったが、澪を迎えに来る者はただの一人もおらず、彼女は一人でタクシーを呼んで帰宅した。
その日の午後。家政婦が掃除のためにある部屋のドアを開けた途端、突然驚きの声を上げた。
「奥様、大変です!結城家代々伝わるブレスレットが割れています!」
床には、いくつかに割れたブレスレットの破片が落ちていた。それを見た母は、貧血を起こしたように目の前が真っ暗になるのを感じた。
「すぐに防犯カメラの映像を確認しなさい!誰がこんなことをしたのか、今すぐ突き止めるのよ!」
廊下の防犯カメラを確認すると、今日その部屋の前を通ったのは、澪と柚奈の2人だけだった。
一瞬にして全員の顔色が険しくなり、両親は責めるような目で澪を見た。
拉致と爆破事件の記憶がまだ新しかったため、誰もが疑う余地なく澪を犯人だと決めつけた。
「澪、お母さんの大事なブレスレットを叩き割ったのはお前か?」
「私じゃないわ」
澪は能面のように無表情だった。
「信じられないなら、破片の指紋を鑑定に出せばいい」
「いい加減にしろ!澪、お前はいつまでそんな見え透いた嘘をつき続けるつもりだ?お前じゃなければ、一体誰がやるっていうんだ!」
翔は失望に満ちた目で彼女を見つめ、柚奈がやったという可能性など微塵も考えていなかった。
両親も同じように、失望の目を向けた。
「いいだろう。そこまで意地を張って非を認めないというなら。おい、こいつを庭に引きずり出して土下座させろ!自分の口で罪を認めて反省するまで、一歩も家の中に入れるな!」
その命令が下るや否や、屈強なボディガードたちが瞬時に駆け寄り、澪の両腕を乱暴に押さえつけて大雨の降る外へと連行した。
今さら何を弁明しようと無駄だと、澪は初めから分かりきっていた。彼女の感覚はとうに麻痺しきっており、ただ黙って引きずられるまま、一言も発しなかった。
空は真っ暗で、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が瞬く間に澪を全身ずぶ濡れにした。
氷のように冷たい雨水が彼女の全身を打ち付ける。誰かに膝の裏を強烈に蹴り飛ばされ、彼女は前のめりに倒れ込み、泥まみれの地面に無惨に跪かされた。
自分は何も悪くない。そう思い、澪は立ち上がろうとした。
泥水に両手をつき、必死で立ち上がろうとした瞬間、再び背後から容赦なく蹴りつけられた。
手のひらは無惨に擦りむけて焼け付くように痛み、治りかけていた体の傷口が再び裂け、薄い服を赤く染めていく。
澪は泥に塗れながらも気丈に顔を上げ、大きなガラス窓の向こうに広がる温かく明るい光景を見つめた。
家の中から漏れ聞こえる家族の幸せそうな笑い声を聞きながら、彼女の心は果てしない暗闇と絶望の淵へと、完全に飲み込まれていった。
第6話
食卓には柚奈の好物ばかりが並んでいた。彼女は目を細めて笑い、雅臣、百合子、翔、そして湊から料理を取り分けてもらうのを満喫していた。
目の前の小鉢が山盛りになると、彼女は甘えたように口を尖らせた。
「もう、そんなによそわないでよ。私、小食なんだから食べきれないよ」
涙のせいか、それとも雨のせいか、澪の視界は完全に滲んでいた。
昔はどんなことがあっても、彼らは揺るぎなく澪を信じ、いつだって彼女の味方だった。そしてこう言ってくれたのだ。
「澪がすることは全部正しいよ。澪を信じてる」
食事のメニューすら彼女の好みが最優先で、彼らは澪のために自分の好みを変えることさえ厭わなかった。
だが今や、その唯一無二の寵愛はそっくり柚奈へと注がれている。
目の前の光景が次第に遠のき、暗闇へと沈んでいく。
どれほど土下座をさせられていたのだろう。澪はついに力尽き、気を失った。
再び目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは湊の整った顔立ちだった。
彼は手に持った雑炊にそっと息を吹きかけ、彼女が目覚めたのに気づくと、手ずから口元へと運んできた。
「腹が減っただろう。たくさん食べなさい」
雑炊はちょうどいい温もりで、胃に収まるとじんわりと体を温めてくれた。
澪には、彼の急激な態度の変化が理解できなかった。
「急に優しくして、何があったの?」
彼女の表情は冷ややかによそよそしく、湊を見つめる瞳にも何の感情も宿っていなかった。
湊の手が一瞬止まった。
「……別の防犯カメラの映像が見つかったんだ。おばさんのブレスレットは、柚奈がうっかり割ってしまったものだった。あいつ、怖くて言い出せなかったらしい。だから、柚奈を責めないでやってくれ」
澪の胸中には皮肉な思いばかりが渦巻いた。失望のあまり目を閉じ、彼と口を利くのを拒絶する。
自分があれほどの苦痛を味わわされたというのに、「柚奈が怯えていたから」という一言で片付けられるのか。
だが、追及したところで無意味だ。あれほど柚奈に甘い彼らが、彼女を責めるはずもない。
彼女はスマートフォンを握りしめ、ただ時間が早く過ぎ去ることだけを願った。旅立ちの日が、少しでも早く来るようにと。
頑なな態度を崩さない彼女に、湊は困ったように息をつき、宥めるように声を落とした。
「澪、もう少ししたら俺たちは結婚するんだ。もう少し笑ってくれないか?そんな顔で結婚式を迎えたくはないだろう」
その言葉に、澪はゆっくりと目を開き、彼をじっと見据えた。
「結婚?私たちがいつ結婚するの?」
湊は一瞬虚を突かれたように固まったが、すぐに口元を微かに緩め、穏やかな眼差しで言葉を返した。
「忘れたのか?両家の間で、27歳になる前に式を挙げると決まっていただろう。君は今年で26だ。もうそういう時期だよ」
澪は遅れてその約束を思い出した。伏し目がちに乾いた唇を湿らせ、呟くように問う。
「……あなたはまだ、私と結婚したいの?」
湊は彼女の手を力強く握り締め、真摯に言った。
「当然だ。物心ついた頃から、俺の一番の願いはずっと君と結婚することだった。君以外の誰とも結婚する気はない!」
澪は彼を見つめたまま、不意に口元を綻ばせた。
「でも……」
私はもう、あなたとなんて結婚したくない。
その言葉を口にし終える前に、外の騒ぎに遮られた。
柚奈の悲鳴のような甲高い叫び声が響き渡る。
「湊!」
呼ばれた湊は、慌てて雑炊の器を置き、脱兎の勢いで部屋を飛び出していった。
澪もベッドから身を起こし、その声の後を追った。
柚奈は果物ナイフの切っ先を手首に押し当てていた。皮膚はすでに薄く裂け、滲み出た血が筋を作っている。真っ赤に腫らした目元には、憔悴と狂気が宿っていた。
雅臣、百合子、翔、そして湊の4人は少し離れた場所に立ち、張り詰めた面持ちで彼女を見つめていた。本当に手首を掻き切るのではないかと、その手元を戦々恐々と凝視している。
「柚奈、落ち着きなさい。そんな物騒な真似はやめるんだ」
「そうよ柚奈、死にたくなるほど思い詰めるなんて一体何があったの?お父さんとお母さんに話しなさい。何があっても解決してあげるから」
第7話
澪が姿を現した瞬間、柚奈の目から大粒の涙が溢れ出し、掠れた声で言葉を絞り出した。
「ごめんなさい、お父さん、お母さん、お兄ちゃん……来世でまた、本当の家族になりましょう!」
言い終えるが早いか、彼女は迷うことなく手首を切りつけた。鮮血が一気に噴き出す。
彼女は覚悟を決めたように笑い、その瞳を閉じた。
「柚奈!」
結城家の面々と湊は悲痛な叫びを上げ、半狂乱になって柚奈のもとへ駆け寄り、その体を抱き留めた。
脱力した彼女の手元から、一枚のメモ用紙がはらりと落ちた。そこには、短い一文だけが書かれていた。
【湊、好きです。お願いだから、結婚しないで】
4人の視線がその短い一行に注がれ、一瞬の沈黙が場を支配した。
口火を切ったのは翔だった。
「突っ立ってないで、早く柚奈を病院へ運ぶんだ!」
我に返った彼らは、取り乱しながら柚奈の周りを取り囲んだ。
湊が柚奈を横抱きにし、百合子は取り乱しながら止血に奔走する。苦痛に顔を歪める柚奈を見て、その痛みを代わって引き受けたいとでもいうようだった。
怒涛のように去っていく一同を背に、澪はただ無言で自室へと引き返した。
最初から、こうなることは分かりきっていた。
翌朝、澪が目を覚ますと、雅臣、百合子、翔、そして湊の4人が帰宅しており、彼女のベッド脇を取り囲むように腰掛けていた。誰もが心配そうな眼差しを彼女に向けている。
「澪、体の傷はまだ痛む?」
百合子は胸を痛めるように澪の手の傷口にそっと息を吹きかけ、信じられないほど繊細な手つきで軟膏を塗り広げた。
傍らでは翔が黙々とリンゴの皮を剥いている。
雅臣は使用人に持ってこさせたクマのぬいぐるみを、澪の枕元に置いた。
「お前は昔から、クマのぬいぐるみを抱いていないと眠れなかっただろう。前のやつが見当たらなかったから、お父さんが新しいのを買ってきたよ」
湊もまた、栄養バランスの取れた食事をトレイに載せて運んできて、食べさせようとスプーンを差し出した。
「澪、俺が作ったんだ。君の好きなものばかり揃えたよ。少し口にしてみないか?」
唐突に注がれる慈愛を前にして、澪は一瞬、本当に過去へ戻ったのではないかと錯覚しかけた。
昔、自分が体調を崩した時も、彼らはこうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたものだった。
束の間、そのまやかしの温もりに縋りつきたい衝動が頭をもたげる。
食事が済むと、4人は目に見えて安堵のため息をつき、その表情を緩めた。
百合子がどこか落ち着かない様子で、探るように切り出した。
「澪、体の調子は少しは落ち着いた?」
「何の用なの?言いたいことがあるなら、はっきり言って」
4人の顔に浮かぶ、期待に満ちた表情を前に、澪は一瞬で現実に引き戻された。
彼らは顔を見合わせ、気まずそうに視線を泳がせる。
気まずい沈黙の末、ついに百合子が耐え兼ねたように本題を切り出した。
「澪、私たち、柚奈が不憫でならないのよ。あの子はあんなにも湊のことを一途に想っているのに、あなたから奪おうなんて微塵も考えず、ずっと胸にしまって耐えていたの。
あなたたちが結婚するって耳にして……どうしても受け止めきれなくて、衝動的に手首を切ってしまったのよ。
あの子の一番の願いは、湊と一度だけでいいから結婚式を挙げることなの。形だけの結婚式で構わない。だから……お願い、今回だけはあの子の願いを叶えてあげてくれないかしら?」
湊もすかさず言葉を重ねた。
「澪、信じてくれ。俺はただ柚奈の願いを叶えるために、形だけの結婚式を挙げるだけだ。俺が好きなのは君だけだ。それは絶対に変わらない」
翔も必死になだめにかかる。
「澪、お前と湊は幼馴染だろう。あいつがどんな奴か、お前が一番分かっているはずだ。柚奈の命が懸かってるんだ、一度きりの我儘を聞いてやってくれ」
「そうだぞ。柚奈は体が弱いんだ。今度望みを絶たれたら、また命を絶とうとしかねない」
雅臣も重々しく頷いた。
澪を納得させるには相当な時間がかかるだろう――誰もがそう身構えていた矢先、彼女はあっさりと、凪いだ声で口を開いた。
「いいわよ。好きにすれば」
湊、あなたが彼女と本当に籍を入れようが、私にはもう知ったことではない。
言い終えるなり、彼女は冷え切った視線で彼らを部屋から追い出した。
第8話
それからの結城家は、まるでお祭り騒ぎだった。家中が華やかに飾り立てられ、あちこちの扉や壁に婚礼を祝う飾りが施されていく。
「柚奈が本当にお嫁に行くなんてね。こんな日がこんなに早く来るなんて思わなかったわ」
百合子は柚奈の手を固く握り締め、感極まって涙を滲ませていた。
雅臣は傍らで式場設営の段取りを電話で指示し、翔も親族や知人に片っ端から連絡を入れて挙式の案内を出している。
湊に至ってはすべての仕事を放り出し、結婚式の準備に没頭していた。
形だけの結婚式だと口では言いながら、その手配は誰が見ても本気そのものだった。これで形だけだと言われて、一体誰が信じるというのか。
澪は彼らの狂騒の脇をただ無言で通り過ぎた。誰一人、澪の存在に気づかなかった。
そうして、柚奈の誕生日が巡ってきた。
「柚奈、大々的なパーティーは遠慮したいと言っていたけれど、せめて家族の間だけでもお祝いしよう。とびきりのプレゼントを用意したんだ、きっと気に入るよ」
雅臣と百合子はそう言って彼女の機嫌を取りながら、一着の豪奢なウェディングドレスを披露した。
「柚奈もいよいよ花嫁になるんだからね。お父さんとお母さんから、特別な贈り物よ。気に入った?」
すかさず翔も、桐箱に収められた縁結びの御守りを差し出した。
「これは俺が由緒ある神社で、祈願を重ねて授かってきたものだ。柚奈、お前と湊が永遠に結ばれるよう祈ってる」
湊もまた、手品のように小さなベルベットの箱を取り出し、愛おしげな眼差しで柚奈の前に差し出した。
「柚奈、これが俺たちの結婚指輪だ。君の指のサイズに合わせて特注したんだよ」
柚奈は息を呑んで両手で口元を覆い、感涙に瞳を潤ませた。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん……それから、湊。本当にありがとう」
4人が満面の笑みでバースデーソングを歌い上げると、柚奈は幸福感に浸りながらそっと目を閉じ、願い事をした。
「もうすぐお式だけど……たとえ形だけでもいいから、湊にキスしてほしいな」
そう言って目を開けると、彼女は瞳に涙を湛えたまま、輪の外に佇む澪へと視線を投げかけた。
「お姉ちゃん、湊にキスしてもらってもいい?」
澪は相変わらず無表情のまま、淡々と唇を動かした。
「好きにすれば」
あの日、澪があまりにもあっさりと承諾したため、柚奈の情緒不安定を案じる一同は、すぐさま挙式の準備に取り掛かっていた。
だが、この瞬間になって初めて、湊は澪のただならぬ空気に違和感を覚えた。
承諾が早かったなどという次元ではない。彼女は心底どうでもよさそうなのだ。
自分が形だけの結婚をすることも、相手が誰であるかも、そして何より、自分という存在そのものに、微塵も執着していない。
湊は胸を締めつけられるような不安を覚え、何かを言おうと口を開きかけたが、翔がそれを遮った。
「今日は柚奈の誕生日だぞ。主役の願いを叶えてやるのが筋だろう。湊、早くキスしてやれよ」
雅臣と百合子もせっつく。
「そうよ、今日くらい柚奈を一番にしてあげなさい。湊、ほら」
湊は長いこと迷ったが、柚奈の目から次々と涙がこぼれ落ちるのを見かねて、ついに身をかがめ、柚奈を抱き寄せてその唇の端にキスをした。
触れ合うだけの短い口づけに、残る3人は惜しみない拍手と歓声を送った。
その茶番を一瞥した澪は乾いた笑みを浮かべ、キッチンで適当につまめるものを腹に収めると、足早に自室へと引き上げた。
すべての喧騒を、冷たい背中の向こうへと置き去りにして。
出発の3日前。澪は雅臣、百合子、翔、そして湊との思い出の品をすべて整理し始めた。
万を超える写真、数え切れない贈り物。それらを残らず、一つの大きな段ボール箱へと乱暴に投げ込んだ。
彼女は箱を抱えて家を出ると、一切の躊躇もなく、近所のゴミ集積場へと投げ捨てた。
結城家も、湊という男も、彼女の中では完全に過去のものとなっていた。もはや彼らに期待する心など、欠片も残っていない。
ゴミを捨て終えて戻ると、ちょうど屋敷を訪ねてきた湊と鉢合わせた。
湊は怪訝そうに彼女を呼び止める。
「澪、今、何を捨てたんだ?」
「ゴミよ」
澪は抑揚のない声で言い、彼を見据えた。
その虚無の視線に、湊の心臓が不穏に跳ねた。得体の知れない焦燥が胸を突く。
彼は思わず歩み寄って彼女の手首を掴み、弁解するように囁いた。
「澪、柚奈はこの前自殺を図ったばかりで、まだ精神的に不安定なんだ。あのキスだって、あいつを落ち着かせるための気休めに過ぎない。変な誤解はしないでくれ」
そう言い添えながら、彼は金箔押しされた婚礼の招待状を差し出した。
「式当日は必ず来てくれ。誓うよ、柚奈と一線を越えるような真似は絶対にしない。式は、形だけのものに過ぎないんだから」
10日――
招待状に刻まれた日付は、奇しくも彼女がこの地を去る日そのものだった。
澪は招待状を見つめたまま、一言も発しなかった。
湊はその沈黙を行く意思の表れだと都合よく解釈し、安堵のため息を漏らすと、再び式の準備へと戻っていった。
第9話
出発の2日前、澪の部屋のドアがノックされた。
扉を開けると、そこには仕立て上がったウェディングドレスを身にまとい、薬指に指輪を光らせ、首から御守りを下げた柚奈が立っていた。
「何の用?」
澪は自然と眉根を寄せた。
柚奈は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「澪、あなたって本当に哀れね。私が少し芝居をしただけで、あなたのお父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、湊までもが私の味方になって、結婚を認めてくれたわ。
でも安心して。こんなのまだ序の口よ。これから先、あなたの持っていたすべてを私が奪い取ってあげる」
廊下の向こうから足音が近づいてくるのを察知した瞬間、柚奈は隠し持っていたハサミを取り出し、純白のドレスと御守りをズタズタに切り裂き、指輪を乱暴に放り投げた。
そしてハサミを床に投げ捨てるや否や、ボロボロになったドレスを抱き抱え、滝のような涙を流し始めた。
「お姉ちゃん、私と湊の結婚が許せないのは分かってる。でもこれ、形だけの結婚式なのよ!許してくれるって言ったじゃない、どうしてこんな酷いことするの……っ!」
泣き崩れる彼女を前に、澪は感情の抜け落ちた顔で立ち尽くしていた。まるで、自分とは何の関係もない劇団の茶番劇を眺めているかのように。
3、2、1。予想どおり、次の瞬間、雅臣、百合子、翔、そして湊の4人が雪崩れ込んできた。
「柚奈!」
「柚奈、もう泣かないで!顔がぐちゃぐちゃよ。明後日は晴れの舞台なんだから、これ以上泣いたら腫れてしまうわ」
百合子は胸を痛め、柚奈の涙を拭う。
散らばる残骸を目の当たりにした湊は、弾かれたように澪を振り返り、遣る瀬無さと失望を露わにした。
「澪!式の件はもう決定事項だと伝えたはずだ。どうしてそうやって、いつまでも柚奈を目の敵にするんだ!」
だが、柚奈に向き直るや否や、その声色は劇的に甘く変化した。
「こんなもの壊されたって構わない。もっと豪奢な指輪を買い直してあげるからね」
「そうだ、御守りなら俺がもう一度神社へ行って祈祷してもらってくる」
「ドレスはお父さんとお母さんがすぐ手配し直すわ。もっと素敵なのを選びましょう!」
4人がかりでようやく柚奈を宥めすかすと、彼らは彼女を取り囲むようにして立ち去った。澪の存在を気にかける者は、ただの一人もいなかった。
去り際、柚奈はふいに振り返り、澪に向けて冷酷な嘲笑を浮かべた。声を出さず、口元の動きだけでこう告げる。
――澪、私には一生勝てないのよ。
澪は無言でドアを閉ざし、微かに口元を緩めた。
それからスマートフォンを取り出し、画面をタップして、燃料用ガソリンと、精巧に作られた等身大のダミー人形を発注した。
確かに、今の自分は負けたのかもしれない。だが、柚奈が勝つことも決してない。
なぜなら、生きている人間が、死者に勝てるはずなどないのだから。
出発の前日。澪は机に向かい、絶縁状を丁寧に書き進めた。そして最後に、迷うことなく印鑑を押した。
筆を置いた瞬間、彼女は深く息を吐き出した。長年胸を押し潰していた重石が、跡形もなく消え去ったようだった。
明日から、自分に家族など存在しない。あるのは恩師との絆だけだ。
続いて、婚約破棄の通告書をしたためる。幼少の頃から湊と結ばれていたあの約束も、これにて永久に幕を下ろす。
最後に引き出しを開けると、そこには一本のUSBメモリが収められていた。
2日前にようやく手に入れた、彼女が刑務所で受けてきた筆舌に尽くしがたい虐待の全記録映像だった。
柚奈の裏工作によって味わわされた地獄。あの女の薄汚い仮面も、いよいよ剥ぎ取られる時が来たのだ。
澪は三つの「贈り物」をそれぞれ色違いの小箱に収め、翌日の指定時刻に正確に送り届けるよう、配送業者に手配を済ませた。
出発の朝。澪が目を覚ました時、屋敷はすっかり静まり返っていた。
彼らは早朝から挙式の会場へと出払っていたのだ。
ピコン。
枕元のスマートフォンが震えた。画面を開くと、家族のグループチャットに、柚奈から華やかな式場の写真が数枚投稿されていた。その中には、湊と指を絡め合った親密な手元の写真も混ざっている。
柚奈はわざわざ澪のアカウントを指定してメッセージを添えていた。
【お姉ちゃん、式には来てくれる?今からでも間に合うよ】
すかさず百合子が冷水を浴びせるように書き込む。
【澪は来なくて結構よ。また式を台無しにされたら困るわ】
翔も追い討ちをかけた。
【澪、今日はお前は絶対に来るなよ】
そして湊からも、同じ調子のメッセージが届いた。
【澪、今日は家で大人しく休んでいてくれ。式が終わったら、すぐに戻るから】
画面を見つめたまま、澪はふっと口元を綻ばせ、無機質な指つきで返信を打ち込んだ。
【それなら、伺うのは遠慮しておきます。皆さんへの贈り物は先ほど発送の手配をしましたので、受け取ってください。皆さんがお戻りになったら、もっと大きなサプライズを用意して待っています】
送信を終えると、彼女は電源を切り、スマートフォンをポケットに仕舞い込んだ。
それから部屋一面にガソリンを撒き散らし、最後に、あらかじめ用意しておいたダミー人形を寝台へと横たえた。
荷物を手に部屋を出ると、彼女は何のためらいもなくライターの火を落とした。
火の手は一瞬にして燃え広がり、彼女の過去の痕跡をすべて飲み込んでいく。
燃え盛る炎を背に、澪はスーツケースを引き、迎えの車へと乗り込んだ。新しい人生へと向かうその道中、彼女が二度と振り返ることはなかった。