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君を捜し続けても、帰る日は来ない
藤崎沙羅(ふじさき さら)の誕生日。彼女は一晩中待ち続けたが、高城礼次(たかしろ れいじ)は帰ってこなかった。 礼次がかつて愛した瀬川梨香(せがわ りか)が、その日、財界でも有名な遊び人と結婚することになっていたからだ。 梨香が不幸な結婚へ進むのを見過ごせなかった礼次は、式から彼女を連れ去った。 沙羅は泣き腫らした目で一晩中リビングに座り続け、夜が明けた頃、知らない番号からの電話を受けた。 「藤崎沙羅、俺と結婚しろ」 気だるげな声を聞いた瞬間、沙羅の脳裏に不敵な笑みを浮かべた男の顔がよぎった。 梨香が結婚するはずだった、財界きっての遊び人――朝倉蒼介(あさくら そうすけ)。 「朝倉蒼介?」 「お前の婚約者が俺の花嫁を奪った。だったら俺が、あいつの花嫁を奪っても文句はないだろ?」 蒼介は面白がるように笑った。 沙羅はしばらく黙ったあと、静かに首を振った。 「文句はないわ」 電話の向こうで、蒼介は片眉を上げ、さも当然のように言った。 「なら決まりだ。15日後に改めて式を挙げる。ウェディングドレスを用意して、俺が迎えに行くのを待ってろ」
チャプター (1)
第1話
藤崎沙羅(ふじさき さら)の誕生日。彼女は一晩中待ち続けたが、高城礼次(たかしろ れいじ)は帰ってこなかった。
礼次がかつて愛した瀬川梨香(せがわ りか)が、その日、財界でも有名な遊び人と結婚することになっていたからだ。
梨香が不幸な結婚へ進むのを見過ごせなかった礼次は、式から彼女を連れ去った。
沙羅は泣き腫らした目で一晩中リビングに座り続け、夜が明けた頃、知らない番号からの電話を受けた。
「藤崎沙羅、俺と結婚しろ」
気だるげな声を聞いた瞬間、沙羅の脳裏に不敵な笑みを浮かべた男の顔がよぎった。
梨香が結婚するはずだった、財界きっての遊び人――朝倉蒼介(あさくら そうすけ)。
「朝倉蒼介?」
「お前の婚約者が俺の花嫁を奪った。だったら俺が、あいつの花嫁を奪っても文句はないだろ?」
蒼介は面白がるように笑った。
沙羅はしばらく黙ったあと、静かに首を振った。
「文句はないわ」
電話の向こうで、蒼介は片眉を上げ、さも当然のように言った。
「なら決まりだ。15日後に改めて式を挙げる。ウェディングドレスを用意して、俺が迎えに行くのを待ってろ」
第1話
通話はそこで切れた。
沙羅は冷えきった料理が並ぶ食卓を見つめ、目を赤くした。
長い間待ち続け、ようやくプロポーズされた。
けれど、プロポーズしたのは礼次ではない。
沙羅が結婚する相手も、礼次ではなかった。
沙羅が礼次と出会ってから、10年が経っていた。
初めて見た瞬間から、彼女は礼次に恋をした。
高校1年の入学式だった。
礼次は制服姿で、新入生代表として壇上に立っていた。講堂の大きな窓から差し込む陽光が、端整な横顔を金色に縁取っていた。
女子生徒たちは頬を染め、小声でざわめきながら写真を撮っていた。
沙羅は受け取ったばかりの学生証を握り締め、講堂の最後列にある暗がりに立っていた。
当時の礼次は、系列校でも名の知れた秀才だった。
定期試験では常に学年首位。数学コンテストでも何度も優勝し、バスケットボールで袖をまくれば、ほのかなシダーウッドの香りが漂った。
立ち居振る舞いのすべてに、名家で育った者らしい品があった。
奨学金で入学したごく普通の沙羅とは、まるで住む世界が違った。
全校の女子から憧れられていた礼次の視線は、いつも一人の少女だけを追っていた。
幼い頃から一緒に育った梨香だった。
礼次が図書館で梨香のためにノートをまとめる姿も、雨に濡れた梨香へ自分の上着を掛ける姿も、梨香が何げなく欲しいと言った限定盤のCDを探して街中を回る姿も、沙羅は見てきた。
高城家と瀬川家は昔から親しく、二人は幼い頃から婚約していたと、あとになって知った。
状況が一変したのは、高校を卒業した夏だった。
高城グループが一夜にして破綻したというニュースが、経済ニュースを埋め尽くした。
かつて高級車で学校行事に訪れていた高城雅弘(たかしろ まさひろ)会長は、本社ビルから身を投げた。
その翌日、梨香はフランスへ渡った。
残された礼次は莫大な負債を背負い、返済のために働き詰めとなった。疲れきり、荒んだ毎日を送っていた。
ある夜、沙羅はバーの裏路地で、意識を失うほど酔った礼次を見つけた。
高価なシャツはしわだらけで、目は血走り、捨てられた犬のようだった。
沙羅がしゃがんで身体を支えようとすると、礼次はその手首を強くつかんだ。
吐息には、酒と血の匂いが混じっていた。
「誰だ、お前」
「藤崎沙羅。同じ学校だったの。覚えてないと思うけど……」
礼次は本当に覚えていなかった。
それでも沙羅に連れられるまま、彼女の部屋へ来た。
その夜の礼次は自制を失っていた。
狭い部屋のベッドに沙羅を押し倒し、唇が痺れるほど激しく口づけた。
後日、沙羅は知った。
彼女が礼次を見つける少し前、梨香はSNSを更新していた。
エッフェル塔を背に、新しい恋人と口づけを交わす写真だった。
目を覚ました礼次は、沙羅に責任を取ると言った。
その後、礼次は沙羅の狭い部屋で暮らし始めた。二人は寄り添い、最も苦しい時期を一緒に乗り越えた。
けれど沙羅には分かっていた。
落ちぶれた名家の御曹司を自分のもとへ連れ帰っても、その心まで手に入れられたわけではない。
礼次は梨香を忘れていなかった。
夜中にスマホの写真を見つめる姿も、パリへ行く航空券を買うために何か月も食費を切り詰める姿も、沙羅の誕生日に梨香から連絡が届くなり家を飛び出す姿も見てきた。
それでも沙羅は諦められなかった。
夜遅くまで礼次の履歴書を書き直すのを手伝い、何社もの求人に応募し、債権者からの脅しにも一緒に耐えた。
最も苦しかった頃には、母が残した唯一の形見のバングルを密かに売り、礼次に面接用のスーツを買った。
やがて礼次は、沙羅がコーヒーに角砂糖を二つ入れることを覚えた。
残業中には食事を取るようメッセージを送り、沙羅が眠ってしまえば、そっと上着を掛けてくれるようになった。
凍りついていた礼次の心を、ようやく温められたのだと沙羅は思った。
礼次も再起を果たし、再び財界の若き寵児となった。
すべてがよい方向へ進み始めた頃、梨香が帰国した。
二人の関係は、たちまち振り出しに戻った。
礼次は深夜に車を飛ばして空港へ迎えに行き、過去のことを不問にして、帰国祝いまで開いた。
梨香の結婚を知ると、迷うことなく式へ乗り込んだ。
7年間、沙羅は持てるものをすべて差し出した。
それでも梨香の「帰ってきた」という一言にはかなわなかった。
もう疲れた。
これ以上、愛し続けることもできなかった。
沙羅は立ち上がり、荷物を片づけ始めた。
一つずつ、ごみ袋へ捨てていった。
ちょうど収集車が来た。
作業員が袋を車に積み込むのを見ながら、この7年間抱き続けた叶わぬ思いまで捨てるような気がした。
「何を捨てた?」
突然玄関が開き、背後から礼次の声が聞こえた。
沙羅は振り返らず、静かに答えた。
「家の中を整理して、いらない物を捨てただけ」
その一言に、礼次の表情が変わった。
沙羅を押しのけるようにして部屋へ入り、声を荒らげた。
「俺の物に触るなって言っただろう!」
礼次は棚や引き出しを次々と開け、次第に険しい顔になっていった。
書斎を隅々まで探しても見つからなかったらしく、そのまま外へ飛び出した。
すれ違いざま、礼次の肩が沙羅にぶつかった。
よろめいた沙羅は額をドア枠へ打ちつけ、血が流れた。
礼次が本当に大切な物をなくしたのではないかと心配になり、傷の手当てもせずにあとを追った。
そこで、生涯忘れられないほど滑稽な光景を目にした。
重度の潔癖症だった礼次が、ごみの山に膝をつき、必死に中を探っていた。
焦る姿を見て申し訳なくなった沙羅は、慌てて説明した。
「私が捨てた物は、もう収集車に運ばれたわ。探すなら処理場へ行かないと。捨てたのは全部私の物だけど、片づけているときに、間違えてあなたの物も入れたのかもしれない。ごめんなさい」
礼次はそこでようやく、沙羅の傷に気づいた。
一瞬動きを止め、額に触れようと手を伸ばしたが、途中で引っ込めた。
「さっきは急いでいて、気づかなかった」
二人で車に乗ったあと、沙羅は我慢できずに尋ねた。
「何をなくしたの?そんなに大切な物?」
礼次はハンドルを強く握った。
しばらくして、以前から定期的に手入れに出していた、深緑色の宝石をあしらったペンダントだと答えた。
沙羅の胸は大きく揺さぶられ、目に涙が浮かんだ。
それは礼次と梨香が、婚約の証として交換した品だった。
あれほど必死に探していた理由が、ようやく分かった。
第2話
車内に重苦しい沈黙が流れた。
礼次は沙羅の変化に気づき、前日の一件を隠し通せないと悟ったのか、言い訳を始めた。
「梨香の祖父が亡くなる前、俺は梨香を守ると約束した。朝倉蒼介がどんな男か、お前も知ってるだろ。あいつと結婚したら、梨香は一生不幸になる。だから式から連れ出したんだ」
どれも沙羅を納得させるための口実にすぎなかった。
礼次が梨香を連れ去ったのは、今も彼女を愛し、ほかの男と結婚する姿を見ていられなかったからだ。
すでに婚約の証としての意味を失ったペンダントを帰宅後すぐに探したのも、梨香と結婚すべきなのは自分だと、心の底で思っていたからだった。
胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
沙羅は窓の外へ顔を向けた。
頬を伝った涙は、流れ込む風に乾かされていった。
「朝倉社長にも新しい結婚相手ができたから、もう梨香につきまとうことはないわ。安心して」
断言する沙羅に、礼次はわずかに眉を寄せた。
「蒼介に新しい結婚相手?誰から聞いた?」
その相手は自分だと告げようとした瞬間、車内に着信音が響いた。
電話に出ると、梨香のすすり泣く声が聞こえた。
「礼次、式から逃げたことを両親に知られて、ひどく怒られたの。裏切ったけじめをつけろって、父が人を集めてる。殺されるかもしれない……どうしたらいい?」
「すぐに行く!」
礼次は電話を切り、沙羅を見た。
「沙羅、急用ができた。先にペンダントを探しに行ってくれないか?」
沙羅は口を開いたが、声が出なかった。
黙ってうなずき、ドアを開けて一人で車を降りた。
礼次の車が暗闇へ消えるのを見送ってから、タクシーを拾って処理場へ向かった。
収集車はすでに荷を下ろしたあとだった。
薄暗い照明の下、山のように積み上がったごみを前に、沙羅は袖をまくった。
吐き気をこらえながら何時間も探し、ようやく自分が捨てた物を見つけた。
箱の中身をすべて確かめたが、ペンダントはなかった。
そのとき、家政婦から電話がかかってきた。
「藤崎様、ペンダントが見つかりました。礼次様の枕の下にありました。寝ている間に紛れ込んだのでしょう」
沙羅は力なく笑った。
眠りにつくときまであのペンダントを眺め、梨香を思っていたのだろうか。
毎晩同じベッドで眠っていたのに、沙羅は何も知らなかった。
夜はすっかり更け、郊外ではタクシーもつかまらなかった。
沙羅は歩いて帰るしかなかった。
空が白み始めた頃、靴擦れで足から血を流し、脚を腫らしながら、ようやく家へたどり着いた。
急いで出たため鍵も忘れていた。
疲れきった沙羅には、ドアを叩く力さえ残っていなかった。
玄関にもたれたまま、深く眠り込んだ。
どれほど時間が経ったのか。
誰かに呼ばれ、ぼんやりと目を開けると、礼次の秘書が焦った顔で立っていた。
「藤崎さん、高城社長が大変なんです。すぐ病院へ来てください」
何が起きたのかも分からないまま、沙羅は車に乗せられた。
秋の冷たい風を浴びて意識がはっきりすると、ようやく事情を尋ねた。
秘書は言いにくそうにスマホを取り出し、一本の動画を再生した。
「高城社長は昨日、瀬川家へ行き、梨香さんの代わりに瀬川家が集めた男たちから暴行を受けました。全身を何度も打たれ、意識を失って病院へ運ばれています」
第3話
動画には、瀬川家の屋敷で膝をつき、梨香をかばいながら男たちに何度も背中を打たれる礼次の姿が映っていた。
落ちぶれていた頃でさえ、債権者に腕を折られるほうがましだと言い、決して膝をつかなかった男だった。
背中には幾筋もの傷が残り、シャツには血が滲んでいた。
礼次の背中に一撃が加わるたび、自分の胸まで打たれているようで、沙羅は息ができないほど苦しくなった。
病院へ着くと、秘書は病室の前まで沙羅を送り、そのまま立ち去った。
ドアは少し開いていて、中から梨香の泣き声がはっきり聞こえた。
「礼次、どうしてそこまでするの?私はあなたを捨てて海外へ行ったのよ。恨んでいるはずでしょう?どうして式から連れ出したの?どうして私の代わりに暴行まで受けたの?」
ベッドに横たわる礼次の声は弱々しかったが、梨香への複雑な思いがにじんでいた。
「お前がいなくなったばかりの頃は、確かに恨んでいた。でも時間が経つにつれて、これでよかったと思うようになった。俺が愛した女に、狭く古い部屋で苦労させたくなかった。毎日ろくな物も食べられず、働きすぎて倒れるような生活を送らせたくなかった。お前の選択は間違ってなかったんだ」
梨香は声を上げて泣き、礼次の胸へ飛び込んだ。
「それなら、もう私を許してくれたのよね?式から連れ出したのも、私を諦められなかったからでしょう?両親から、代わりにあの暴行を受けるなら私と結婚することが条件だと言われたのに、あなたは自分の意思で受け入れたのよね?」
梨香の問いかけの一つ一つが、沙羅の胸に重くのしかかった。
礼次が梨香との結婚を受け入れた。
礼次がうなずくのを目にした瞬間、すでに傷だらけだった沙羅の心は完全に砕けた。
手からスマホが落ち、硬い音を立てた。
しばらくして、沙羅はスマホを拾い、立ち去ろうとした。
階段のそばまで来たとき、あとを追ってきた梨香に腕をつかまれた。
「藤崎、さっきの話を聞いていたんでしょう?礼次は一度も私を忘れていない。あなたが7年間一緒に苦労しても、私が少し仕向けただけで、あの人は式へ迎えに来た。最初から最後まで、礼次の心にいるのは私だけ。あなたが私に勝てるものなんてある?」
その言葉で、沙羅はようやく理解した。
梨香が蒼介と結婚しようとしたのは、礼次に式から連れ出させるための計画だったのだ。
おそらく梨香の両親も事情を知っていた。
だから梨香の父親は、暴行を止める条件として、礼次に梨香との結婚を約束させたのだろう。
今の礼次は再起を遂げ、以前以上の成功を収めている。
瀬川家がかつての婚約を取り戻したがるのも当然だった。
事情を理解すると、沙羅は滑稽に思えてきた。
「礼次は心のすべてをあなたに差し出しているのに、それでも利用するのね。自分が恥ずかしくないの?」
梨香は信じられないという顔をした。
「利用?私が何をしたっていうの?式へ来たのも、私の代わりに暴行を受けたのも、両親へ結婚を約束したのも、全部礼次が自分で決めたことよ。私は一度も強制してない。あの人は何もかも捨てられるほど私を愛してる。それはあなたが一生かかっても手に入れられないものよ!」
その言葉が、沙羅の胸に深く突き刺さった。
認めるしかなかった。
梨香の言うことは、すべて事実だった。
「そうね。全部、礼次が自分で選んだこと。だから私も、その選択を尊重する。安心して。私はもう身を引くと決めたから。二人で幸せになって」
第4話
そう言って立ち去ろうとした沙羅の背中を、梨香が突然強く押した。
沙羅は階段を転がり落ち、全身を打ちつけた。
床に倒れ込んだ沙羅は身体を震わせ、視界が大きく揺れた。
必死に目を開けると、階段の上から見下ろす梨香が、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「身を引く?本当にできるの?高城家が落ちぶれていなければ、あなたなんか礼次に近づくことさえできなかった。自分が特別な女になれたなんて、これ以上思い上がらないことね」
吐き捨てるように言うと、梨香は手を叩いた。
待っていた三人の男が姿を現し、沙羅の手足を押さえつけた。
服へ手をかけられ、沙羅は顔を青ざめさせて必死に抵抗した。
だが男たちの力にはかなわず、腕や脚には次々と痣が残った。
恐怖で頭が真っ白になったとき、礼次の声が聞こえた。
「梨香、今のは誰だ?ここで何をしてる?」
すぐ近くに礼次がいることに気づいた梨香は、背後で合図し、男たちに沙羅を物陰へ引きずらせた。
「何でもないわ。看護師さんに手続きを頼まれたの。もう終わったところ」
絶望していた沙羅は、必死に身をよじった。
男の手に噛みつき、泣きながら助けを求めた。
「礼次、助けて!」
立ち去ろうとしていた礼次の足が止まった。
「今、誰かの声が……」
「誰も話してないわ。聞き間違いじゃない?」
梨香は動揺を隠しながら礼次の腕を引き、連れていこうとした。
しかし礼次は、階段の下から聞こえ続ける物音を不審に思った。
「何かあったのかもしれない。見てくる」
一歩踏み出した瞬間、梨香がわざとその場へ倒れた。
礼次はすぐに引き返し、心配そうに身体を起こした。
「どうした?」
梨香は涙を浮かべ、弱々しい顔を作った。
「足をひねっただけ。私は大丈夫だから、見に行って」
礼次は迷うことなく梨香を抱き上げ、病室へ戻っていった。
階段には、その声だけが残った。
「怪我をしたお前を置いて、どこへ行けるんだ。今はお前より大切なことなんてない」
礼次が遠ざかると、男たちは安堵し、口を塞がれた沙羅を憎々しげに見下ろした。
「助けを呼んだって無駄だ。高城社長には聞こえてたのに、お前のことなんかどうでもいいらしいな」
「瀬川さんから、男を誘惑するのが好きな女だと聞いてる。おとなしくしていれば、命までは取らないでおいてやるよ」
露骨な脅しに、沙羅の目が恐怖で満たされた。
男のポケットからナイフの柄が見えた。
殺されるかもしれないと思い、沙羅は抵抗をやめた。
男たちは満足そうに力を緩め、人目の多い場所を避けて駐車場へ連れていこうと相談し始めた。
男たちは沙羅を階段へ引きずりながら、その身体へ無遠慮に手を伸ばした。
沙羅は吐き気をこらえ、黙ったまま周囲をうかがった。
曲がり角へ差しかかり、二人が煙草に火をつけた隙に、残る一人を肘で突き飛ばした。
夢中で近くの空き病室へ駆け込み、内側から鍵を掛けた。
外からドアを叩く音と怒鳴り声が響いた。
何もない室内で、心臓が胸から飛び出しそうなほど激しく鳴った。
このドアでは長く持たない。
沙羅は窓辺へ走った。
下には池があり、庭には散歩をしている患者たちの姿が見えた。
迷っている時間はなかった。
ドアが蹴り破られた瞬間、沙羅は窓から飛び降りた。
高い場所から池へ落ち、激しい衝撃を受けた沙羅は、次第に意識を失った。
一日以上眠り続けたあと、目を覚ますと、礼次がいた。
ベッドのそばに座り、沙羅の手を強く握っていた。
目には心配の色が浮かんでいた。
「沙羅、気分はどうだ?まだ痛むか?」
沙羅は病室を見回し、かすれた声で尋ねた。
「私は大丈夫。あの男たちは?」
「警察に引き渡した。安心しろ。お前に手を出した連中は、絶対に許さない」
声には怒りがにじんでいた。
けれど沙羅が知りたいのは、男たちをどうするかではなかった。
「誰に頼まれたのか、話してないの?」
礼次は一瞬動きを止め、首を振った。
「一人でいるお前を見かけて、出来心で狙ったと言ってる。俺が自分のことで頭がいっぱいになって、お前を放っておいたせいだ。本当にすまなかった」
梨香の責任を追及することはできないのだと悟り、沙羅は疲れたように目を閉じた。
「その間、何をしていたの?」
礼次はしばらく黙った。
「会社のことで……忙しかった」
沙羅は指に強く爪を立てた。
胸の奥に感情が激しく渦巻き、とうとう問いたださずにはいられなかった。
「会社のこと?それとも、瀬川さんとの結婚式を準備していたの?」
第5話
礼次の表情が凍りついた。
「沙羅、その話をどこで聞いた?」
沙羅は目を赤くしながら笑った。
「式から梨香を連れ去ったのよ。誰だって、二人が結婚すると思うでしょう」
外で聞いた噂にすぎないと分かり、礼次はほっとしたように息をついた。
「根拠のない噂だ。俺の恋人はお前なのに、ほかの女と結婚するはずがないだろ。今は会社のことで忙しい。落ち着いたら、俺たちの結婚についてきちんと話そう。な?」
礼次はまだ嘘をついていた。
沙羅に隠したまま、梨香と結婚するつもりなのだろうか。
梨香が妻になったあと、自分は何になるのだろう。
愛人にでもするつもりなのか。
あまりの理不尽さに、言葉も出なかった。
沙羅は目を閉じ、胸を満たす重く苦い感情をのみ込んだ。
もう結婚について話す必要などない。
沙羅は決して礼次と結婚しない。
礼次が梨香を妻に迎える日、沙羅も別の男へ嫁ぐのだから。
黙り込んだ沙羅から話題をそらすように、礼次が言った。
「医師から、疲れすぎて悪いほうへ考えてしまっていると言われた。仕事は秘書に任せて、しばらくお前のそばにいる」
その後の二日間、礼次は病室に泊まり込み、検査や処置に付き添った。
食事や水を口元まで運び、甲斐甲斐しく世話をした。
病室を訪れた看護師たちは、そんな姿を見て羨ましそうに言った。
「ずっと付き添ってくれるなんて、本当に優しい恋人ですね」
沙羅は何も答えなかった。
礼次の身体がここにあっても、心はとっくに別の場所へ向かっている。
沙羅が休むと、礼次はすぐにスマホを取り出した。
メッセージを読みながら、隠しきれない笑みを浮かべていた。
礼次が席を外したとき、テーブルに置かれたスマホを見た。
画面を開くと、梨香とのやり取りが表示されていた。
梨香が何かを食べたいと言えば、礼次は二つ買い、一つを梨香へ届け、もう一つを病院へ持ってきた。
夜中に会いたいと言われれば、何枚もの自撮り写真を送り、音声メッセージで歌って寝かしつけていた。
しばらく買い物へ行っていないと言われれば、数日後に出かけるための詳しい予定まで組んでいた。
梨香が悩みをこぼしても、日常の出来事を話しても、礼次はすぐに返事をした。
返事が少し遅れただけで梨香が拗ねれば、根気よく宥めていた。
【返事をくれないのは、まだ恋人の世話をしてるから?私と結婚するのに、別れるつもりはないの?】
【沙羅は7年間、俺を支えてくれた。簡単に別れることはできない】
【それなら、この結婚は私への責任を取るためだけなの?】
その問いに、礼次が返事をしたのは一時間後だった。
短い言葉だけが残されていた。
【違う。愛しているから、お前と結婚する】
終わりが見えないほど続くメッセージを眺めながら、沙羅は自分と礼次の関係を思い返した。
沙羅が何を話しても、日常を伝えても、礼次の返事は「ああ」や「分かった」だけだった。
二人で出かけても、礼次はいつも心ここにあらずで、考え込んでいた。
沙羅が礼次をかばって怪我をし、二人の距離が縮まったあとでさえ、梨香に向けるほど積極的な愛情を示されたことはなかった。
二人の関係では、いつも沙羅が先に歩み寄り、最後の一歩を礼次が踏み出してくれるのを待っていた。
けれど礼次は過去を振り切れず、沙羅との未来を選ぼうとはしなかった。
もう待つつもりはなかった。
第6話
退院の日、沙羅がずっと沈んでいることに気づいたのか、礼次は誕生日を祝い直そうと言い出した。
花とケーキを買い、丘の上のレストランでキャンドルディナーまで用意していた。
ケーキのろうそくへ火をつけ、沙羅にバースデーティアラを載せると、優しい声で尋ねた。
「沙羅、誕生日おめでとう。今年は何を願うんだ?」
沙羅は目を閉じ、両手を組んだ。
そして心の中で、真剣に願った。
結婚式が無事に終わりますように。
礼次が望みどおり梨香と結婚し、これから先、私と何の関係もなくなりますように。
目を開けると、礼次と目が合った。
「何を願った?俺にも教えてくれ」
「願い事は、口にしたら叶わなくなるから」
礼次は笑い、沙羅の髪をなでた。
「言ってくれなければ、俺が叶えてやれないだろ?」
沙羅はろうそくを吹き消し、礼次を見つめた。
「どんな願いでも叶えてくれるの?」
「どんな願いでも叶える」
迷いのない答えに、沙羅も笑った。
「手伝ってもらう必要はないわ。簡単な願いだから、きっと叶うもの」
そう言って席を立ち、化粧室へ向かった。
そこで偶然、梨香と出会った。
梨香は沙羅を一瞥し、見下すように言った。
「この店へ礼次に連れてきてもらったの?私が何年も海外にいたのに、今もお気に入りの店を覚えていたのね。あなたとのデートで来たのか、それとも私を思い出したくて来たのか、どっちかしら?」
得意げな顔を見て、沙羅は蛇口を閉めた。
相手にするつもりはなかったが、梨香はさらに続けた。
「さっき見えたケーキにも覚えがあるわ。あなたの誕生日には毎年あの店で買ってくるんでしょう?私の誕生日ケーキは、いつもあの店だったから。テーブルに並んでいた料理も、全部私の好物よ。あなたも同じ物が好きなの?
この前、卒業アルバムを見たの。高校時代のあなたは短い髪だったのね。今は長い髪を緩く巻いて、前髪を眉のあたりで揃えている。私が高校生だった頃とそっくり。あなたは細いから、ふとした瞬間には本当に私みたいに見えるわ。
それに、これまで会ったときに着ていた服も、アクセサリーも、私が何年も前に好きだったブランドばかり。今はもう好みじゃないけどね。ひとりの女を、知らないうちに別の女の面影へ近づけていくなんて、偶然だと思う?それとも礼次が意図してやったことだと思う?あの人は単にそういう女が好きなのか、それとも私を忘れられなかったのかしら?」
話を聞くうちに、沙羅の顔から血の気が引いていった。
身につけている服も、靴も、バッグも、すべて礼次から贈られたものだった。
鏡に映る清楚な髪型も、礼次がスタイリストのもとへ連れていき、整えさせたものだった。
梨香が挙げた料理やケーキも、何度も二人の食卓に並んでいた。
梨香はなおも例を挙げ続けた。
礼次から贈られた物、連れていかれた店、口づけるときに耳元へ触れる癖。
そのどれもが、梨香につながっていた。
沙羅の胸の奥が、かすかに震えた。
最初から最後まで、礼次は自分を梨香の代わりにしていただけだった。
自分へ向けられたと思っていた愛情さえ、優しさに見せかけた毒にすぎなかった。
第7話
梨香がいつ立ち去ったのか、沙羅は覚えていなかった。
我に返った頃には、かなりの時間が経っていた。
鏡に映る自分の顔は、感情を失ったように虚ろだった。
胸の中も、何も感じないほど静まり返っていた。
水で顔を洗い、重い足取りでレストランへ戻った。
席では礼次と梨香が楽しそうに話し込み、沙羅の存在など忘れているようだった。
沙羅が席まで戻り、水を一息に飲んで、ようやく礼次が気づいた。
「沙羅、ずいぶん遅かったな。具合が悪いのか?」
沙羅はグラスを置き、冷めきった料理を見た。
「少し具合が悪いから、先に帰るわ」
バッグを手に取り、そのまま立ち去ろうとした。
礼次は一瞬戸惑ったが、上着を持って追いかけ、沙羅の腕をつかんだ。
「どうした?急に機嫌を悪くして。まだケーキも食べてないだろ。もう少ししてから帰らないか?」
沙羅は疲れたように目を閉じ、自分はもう限界だと告げようとした。
そこへ梨香が笑顔で近づいてきた。
「今日はお酒を飲んだから運転できないの。礼次、私も送ってくれる?恋人も気にしないわよね?」
梨香に甘えられ、礼次は迷わず引き受けた。
梨香はわざと親しげに沙羅の腕を取り、道端まで歩きながら話しかけた。
礼次が駐車場所を探していると、突然悲鳴が聞こえた。
振り返ると、一台の車が沙羅と梨香へ向かって突っ込んでいた。
礼次は全速力で駆け寄り、梨香だけを抱きかかえて道の端へ転がった。
取り残された沙羅は、突っ込んできた車にはねられた。
身体が地面へ叩きつけられ、周囲に赤い血が広がった。
身体の内側まで激しく揺さぶられ、全身が痙攣するように震えた。
絶え間なく押し寄せる激痛が、神経を引き裂いた。
礼次は梨香を抱き、手のひらの擦り傷へ息を吹きかけていた。
その光景を見た沙羅は血を吐き、視界を暗くして意識を失った。
再び目を開けると、医師が安堵したように息をついた。
「かなり重い怪我でしたが、よく持ちこたえましたね。お友達は軽い怪我と強いショックを受けたようですが、恋人がずっと付き添っています。あなたも恋人に連絡して、来てもらってください」
沙羅はしばらくして、医師が言う友人が梨香だと気づいた。
そして恋人とは、礼次のことだった。
沙羅が重傷を負っても、礼次は梨香のそばにいる。
誰が見ても、二人こそ恋人同士だと思うだろう。
沙羅は自嘲するように目を伏せ、かすれた声で答えた。
「私に恋人はいません」
その瞬間、病室のドアが開き、保温バッグを持った礼次が入ってきた。
「沙羅、今、何て言った?」
驚く礼次から目をそらし、静かに答えた。
「何でもないわ」
礼次もそれ以上は尋ねなかった。
ベッドのそばまで来ると、掛け布団を整え、白湯を注いだ。
「怒らないでくれ。車に気づいて駆け寄ったときには、もう間に合わなかった。梨香のほうが近かったから、先に助けるしかなかったんだ。あと一瞬でも余裕があれば、お前にこんな怪我はさせなかった」
第8話
礼次の眼差しは真剣で、その言葉に嘘はなかった。
けれど今の沙羅には、本心かどうかなど、もう重要ではなかった。
すでに傷つけられた事実は変わらない。
痛みは時間とともに薄れても、傷痕は残り続ける。
沙羅は目を伏せ、小さくつぶやいた。
「もう遅いの。何もかも、元には戻らない」
聞き取れなかった礼次は、白湯を入れたグラスを差し出した。
「沙羅、怪我が重いから、しばらく静養が必要だと医師に言われた。ヨーロッパの医師へ連絡して、向こうで療養できるように手配する」
沙羅は顔を上げ、静かに尋ねた。
「ヨーロッパへ?いつ行かせるつもり?」
「3日後、朝の便を予約した」
3日後は、礼次と梨香の結婚式の日だった。
式を知られないよう、自分を遠ざけるつもりなのだろう。
沙羅が何か言おうとしたとき、礼次のスマホが鳴った。
画面に表示された梨香の名を見ると、礼次は短く言い残して病室を出ていった。
「この件はもう決めた。向こうの準備は整えてあるし、世話をする人もいる。国内の仕事が片づいたら迎えに行く」
遠ざかる背中を見つめながら、沙羅は口にしかけた言葉をのみ込んだ。
——その日は私も結婚するから、行く必要はない。
どうせ、すべては間もなく終わる。
今さら話しても意味はなかった。
入院中の二日間、礼次はときどき見舞いに来たが、しばらくするとすぐに帰っていった。
沙羅は行き先を尋ねなかった。
梨香が絶えず挑発するようなメッセージを送り、二人の予定を知らせてきたからだ。
二人はウェディングドレスや引き出物を選び、結婚指輪を決め、式場の装飾を変更し、招待状を用意していた。
送られてくる写真や動画の中で、礼次は何度も心から嬉しそうな笑みを浮かべていた。
沙羅の心には、もう何の波も立たなかった。
一人で退院手続きを済ませ、店へ行って、シンプルなウェディングドレスを選んだ。
箱を持って帰宅し、玄関を開けようとしたとき、中から大勢の話し声が聞こえた。
「礼次、式から連れ出しただけならともかく、本当に梨香と結婚するのか?7年前、あいつは皆の前で婚約を解消して、お前に恥をかかせたんだぞ。大勢に招待状まで送れば、沙羅にも知られる。どうするつもりだ?」
礼次は酒を一口飲み、平然と答えた。
「明日の朝、沙羅をヨーロッパへ送る。出席者に余計なことを話させなければ、遠くにいる沙羅が知ることはない」
「一時的には隠せても、いつか戻ってくるだろ。ずっと好きだったのも、本当に結婚したいのも梨香なら、沙羅を縛りつけるなよ。金を渡して別れてやればいい」
礼次は眉を寄せ、即座に否定した。
「駄目だ。沙羅は一番苦しかった時期を一緒に乗り越えてくれた。そんな仕打ちはできない。それに、あいつは俺を心から愛している、きっと俺以外とは結婚しない。いくら金を渡しても、俺から離れようとはしない」
すべてを聞いた沙羅は、手にしたドレスの箱へ目を落とした。
礼次以外とは結婚しない。
以前なら、確かにそう思っていた。
けれど今は、礼次の花嫁になるつもりなどなかった。
沙羅が玄関を開けると、リビングにいた人々が驚いて振り返った。
礼次も予想していなかったらしく、一瞬言葉を失った。
「沙羅、退院したのか?どうして迎えに来いと言わなかった?」
「忙しいと思って、邪魔をしたくなかったの」
普段と変わらない顔を見て、話を聞かれていないと思ったのか、皆は冗談を交えながらその場を取り繕った。
沙羅も一緒にいるつもりはなく、適当に受け流して上の階へ向かった。
間もなく礼次は客を帰し、寝室へ入ってきた。
「何を買ったんだ?」
「白いワンピース。気に入ったから買ったの」
沙羅がスーツケースを開けると、礼次はドレスの箱へ手を伸ばした。
「そんなに気に入ったのか?見せてくれよ」
沙羅はすぐにその手を押さえた。
「ようやく片づけたところなの。中を乱されたら、またやり直さないといけないから、見ないで」
礼次はそこで、沙羅が荷造りをしていることに気づいた。
「一緒にやる。明日は俺が空港まで送るから」
服を畳み、化粧品を詰める礼次の姿から目をそらし、沙羅は何も言わなかった。
その夜は二人ともほとんど眠れず、翌朝4時には目を覚ました。
後ろめたさがあったのか、礼次は自分から朝食を作った。
長い一日になると分かっていた沙羅も、断らなかった。
二人は静かに食事を終えた。
礼次がスーツケースを持ち、車で空港へ向かった。
道の途中で空が白み始めた頃、梨香から電話がかかってきた。
「礼次、もう5時半よ。起きてる?6時には迎えに来る約束でしょう?両親も待ってるのに、まだ来ないの?」
礼次は時刻を確認し、沙羅を見た。
「沙羅、一人でタクシーに乗って空港へ行けるか?俺は……」
最後まで聞かず、沙羅は自分からドアを開けて車を降りた。
「行ってきて」
「分かった。気をつけろよ。ヨーロッパへ着いたら連絡してくれ。こっちの仕事が済んだら、俺も会いに行く」
沙羅は黙ってその言葉を聞いた。
礼次の車が朝の光の中へ消えてから、スマホを取り出し、蒼介へ電話をかけた。
「準備できたわ」
第9話
しばらくすると、蒼介のスポーツカーがエンジン音を響かせながら近づき、沙羅の前へ滑り込むように停まった。
窓が下がり、自信に満ちた端整な顔が現れた。
蒼介は片手をハンドルへ置き、眉を軽く上げ、不敵な笑みを浮かべていた。
黒いシャツの襟元は少し開き、どこか野性的で、簡単には誰にも従わない空気をまとっていた。
「乗れよ、花嫁」
沙羅は一瞬動きを止めた。
蒼介と直接会うのは、これが初めてだった。
噂どおり自由奔放な雰囲気を漂わせながら、不思議と目を離せない魅力があった。
「ここまで派手にする必要があるの?」
後ろに何台もの黒塗りの車が連なっているのを見て、わずかに眉を寄せた。
蒼介は低く笑い、車を降りた。
長い脚で歩み寄り、沙羅の前に立った。
沙羅より頭一つ近く背が高い。
見下ろす瞳には、からかうような色があった。
「花嫁を奪うんだ。この程度の派手さもなかったら、俺の名が廃るだろ?」
蒼介は手のひらを上に向け、沙羅に差し出した。
「最後にもう一度だけ聞く。本当に俺と来るんだな?」
沙羅は差し出された手を見つめた。
指先をわずかに曲げたあと、その手にそっと重ねた。
「ええ」
静かでありながら、揺るぎのない声だった。
蒼介はさらに笑みを深めた。
突然沙羅の手首をつかみ、身体をかがめ、そのまま横抱きにした。
「きゃっ!」
沙羅は驚き、とっさに蒼介の首へ腕を回した。
「決めたなら、ぐずぐずするな」
蒼介は豪快に笑い、大股でスポーツカーへ向かった。
「俺様が花嫁を迎えるんだ。誰にも隠す必要なんかない」
助手席へ座らされると、蒼介はドアへ片手をつき、身をかがめてシートベルトを締めた。
ほのかなシダーウッドと煙草の香りが漂った。
距離が近く、吐息が耳元をかすめそうになり、沙羅は耳を赤くして顔をそらした。
「緊張してるのか?」
蒼介は人を惑わせるような低い声で笑った。
「安心しろ。取って食ったりしない」
ドアを閉めて運転席へ回り、アクセルを踏み込んだ。
スポーツカーはエンジンを響かせて走り出し、その後ろを何台もの車が追った。
道行く人々が次々と振り返るほど、目立つ車列だった。
……
その頃、式場へ向かうリムジンの中では、礼次が窓の外を流れる景色を眺めていた。
胸の中に、なぜかぽっかりと穴が開いたようだった。
梨香は礼次の腕を取り、肩へ寄り添った。
「礼次、ようやくあなたのお嫁さんになれる。ずっと夢だったの」
期待に満ちた目で見上げた。
「あなたも、私と結婚するのが夢だったでしょう?」
礼次はその視線を受け止め、喉を動かした。
「もちろんだ」
答えた途端、頭の中へ沙羅の顔が浮かんだ。
最も落ちぶれていた頃、バーの裏路地でしゃがみ込み、心配そうに「大丈夫?」と尋ねた沙羅。
母親の形見のバングルを売ってスーツを買いながら、「アクセサリーはあまり好きじゃないから」と笑った沙羅。
高熱を出していたのに、礼次のために酔い覚ましの飲み物を作ろうとし、キッチンで倒れた沙羅。
次々と記憶がよみがえり、見えない手で心臓を締めつけられたように痛んだ。
礼次が上の空になっていることに気づき、梨香は目を赤くした。
「今日は私たちの結婚式なのに、ほかの女を考えてるの?藤崎さんを好きになったの?」
礼次は我に返り、胸に生まれた違和感を押し込めると、梨香の頬へ触れた。
「俺が好きなのは誰か、本当に分からないのか?」
梨香はようやく笑顔を取り戻し、甘えるように言った。
「それなら、罰としてキスして」
礼次は顔を寄せ、梨香の唇へ口づけた。
しかし触れた瞬間、なぜか沙羅を思い出した。
沙羅は口づけるとき、いつもおとなしく目を閉じた。
まつ毛をかすかに震わせ、慎重に息をし、苦しくなるとようやく礼次の胸をそっと押して、顔を赤くした。
「……ゆっくりして」
唇が離れると、梨香は頬を染めて礼次の胸へ寄り添った。
そのとき、運転手が声をかけた。
「高城社長、前方にも結婚式へ向かう車がいます。花嫁の方がブーケを掲げていますね」
礼次は上の空のまま、窓を下げた。
そして、すれ違う車に乗り、ウェディングドレス姿でブーケを手にした沙羅と、正面から目が合った。